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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

津久井県北部の柏皮:「新編相模国風土記稿」から(その1)

新編相模国風土記稿」の産物の一覧から、今回は「柏皮」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯栢皮津久井縣澤井・佐野川兩村邊の山に產す、漁夫漁網を染るに佳とす

  • 津久井縣図説(卷之百十六 津久井縣卷之一):

    ◯柏皮澤井村、佐野川村邊の山に産す、海邊の漁夫、漁網を染る是を佳とす

(以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


旧佐野川村と旧澤井村の位置
佐野川村・澤井村の位置
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
山川編・津久井県図説共に澤井村や佐野川村の山中で産出することを記していますが、両村の記述には関連するものは見当たりません。佐野川村は相模国の、そして現在でも神奈川県の最北端に位置する地域ですが、東側の和田峠を経る脇往還が「佐野川往還」と呼ばれるのはこの地域に由来します。その南に隣接する澤井村とともに、小仏山地の一角を占め、集落は澤井川や甲州との国境に当たる境川沿いの僅かな平地に出来ていました。


この「柏皮」については、各郡の産物山川編の産物をまとめた際にもごく軽く触れましたか、その後もう少し勉強が進んだ所で改めてまとめてみることにしました。

本草図譜巻六十六「大葉櫟」
「本草図譜」では「檞實」の項に複数種が描かれ
その1種の「大葉櫟」に「かしは」の訓が充てられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
カシワはブナ科の高木で主に山地の尾根筋などに生えます。日本国内ではほぼ全国的に見られるものの、分布域は比較的限定されている様です。神奈川県内の分布については

県内では丘陵地から山地ブナ帯までに広く見られるが少ない。

(「神奈川県植物誌 2001神奈川県植物誌調査会編 2001年 神奈川県立生命の星・地球博物館刊 559ページより)

としており、同書分布図では丹沢・箱根・小仏各山地の他、秦野市南部、大磯町、藤沢市北部、茅ヶ崎市北部、座間市南部、横浜市の栄区、保土ケ谷区、緑区などで標本が確認されています。何れも本数は少ないのでしょうが、思ったよりも平野部での出現例がある様です。

「本草綱目啓蒙」では

槲實

[ハビロガシハ ホソノキ越前

ハゝソノミ ハゝソ今ホウソと呼ぶ。以下木の名

ナラ ホソ和州 ホウ同上 [ナラシバ]

ホウソガシハ カシハ[能登] モチガシハ

カシハギ佐州 マキ雲州 [ナラガシハ]

ゴウゴウシバ備前 [カシハマキ備前 カサバ同上

(「国立国会図書館デジタルコレクション」よりブログ主翻刻、カタカナを適宜ひらがなに置き換え、手書きの部分については[]に記載)

と、地域によって非常に様々に呼ばれていることを記しています。手書きの書き込みはこの蔵書の持ち主であった小野蘭山の弟子によるものと考えられることから、蘭山から口伝されたものを追記した可能性があるので含めたものですが、それだけ各地で古くから利用されてきたことを反映しているのでしょうか。因みに現在日本では一般的にカシワに対して「柏」の字を用いますが、「跡見群芳譜」によれば

漢名を柏(ハク,bai)という樹は、コノテガシワなどヒノキ科の常緑樹を指す。したがって、日本でカシワに柏の字を当てるのは誤り。

(上記サイトより)

であり、「本草綱目啓蒙」の記す「槲」の字が本来カシワに対して用いられるべき字であるとのことです。また、「本草図譜」が用いている「檞」の字も「跡見群芳譜」は「槲と字形が似ていることからきた誤読。檞の本義は松脂(まつやに)。」と解説しています。しかし、「風土記稿」はじめ多くの史料でも「柏」や「栢」の字が用いられており、既に「柏=カシワ」が一般化している現状もありますので、以下では「柏」の表記で統一します。

柏の用途として現在最も良く知られているのは何と言っても「柏餅」でしょう。「本草綱目啓蒙」でも「端午に糕を兩葉はさみて かしはもちと云」と記しています。今は柏の葉1枚を二つ折りにして間に餅を挟みますが、当時は柏の葉を2枚使っていたということになる様です。古代には柏の大きな葉を調理に用いたり飯を盛るのに用いたことが「伊勢物語」にも記されているとのことですが、柏餅が作られる様になったのは江戸時代中期頃まで時代が下ります。ただ、元は江戸で端午の節句に柏餅を食べる習慣が生まれたものの、全国的に広まるのは意外に早かった様です。以前、旧東海道の梅沢の茶屋本陣の大名への献上品に含まれる茶菓を一覧化したものを掲げましたが、その中にも「柏餅」の名が含まれていました。

柏餅の用途が広まったのが比較的後世になってからのことだったからか、「風土記稿」で記されているのは柏の葉の方ではなく、皮の方です。この皮から取れるタンニン染料を、「風土記稿」では漁網の腐食防止に使っているとする訳ですが、実際の用途は少なくとも江戸時代初期にはもう少し幅広かったのではないかと思います。

まず、「神奈川県史 通史編2 近世(1)」(1981年)では、「第五章 近世村落の成立/第三節 市と町/四 近世前期の商品流通/柏皮と炭薪の流通」という1節を設け、澤井村に伝わる史料を検討して江戸時代初期の柏皮の販売にまつわる事情を掘り下げています。

…沢井村には六郎兵衛・源左衛門という二人の名主がいた(相名主)。寛文検地以後、この村では検地帳の所持をめぐって二人の名主が対立し、出入が不断に行われていた。六郎兵衛が書いた元禄五年(一六九二)三月の文書が残っているが、これは、六郎兵衛の反論である。この十三か条にわたる長文の反論の中には、柏皮の取扱いについての部分が一か条ある。この部分の書出しは「一 当村柏木の皮、五年以前より我等買留仕候由、偽申上候」であり、これが主文である。買留の意味ははっきりしないが、全体の文意からすると、これは、六郎兵衛が村民より柏皮を買い集め、それを荒川番所に届けず、勝手に販売した、ということらしい。もちろん、六郎兵衛は、「そんなことはしていない」と主張している。柏皮は、八王子や須賀(平塚市)に売られており、沢井村の者は「何れも自分自分に八王子に出 売」している。しかし、その場合でも、名主が柏皮を改めて、それを帳面に記し判をおさせるという規定になっていた。六郎兵衛はかつて、柏皮を名主に届けず隠し売りした村民を摘発して荒川番所に訴えたことがあり、その者は縄をかけられた、という。こういうこともあったほどであるから、自分が買留めしているなどは、もってのほかだと六郎兵衛は主張したのである。集荷された柏皮は、まず名主の改めをうけ、名主が帳面に記し、それを一括して荒川番所が改める(運上をとったのであろう)という規定になっていたようである。

この事実を示すものが宝永六年(一七〇九)三月、六郎兵衛が作った「柏皮改帳」である。これによると、柏皮を売るために持ち寄った十二名の名と、それぞれの柏皮の数(束で表示される)が記され、それについて矢口茂兵衛なる人物が改印をおしている。矢口は多分荒川番所の役人であろう。これらの柏皮は須賀へ出されている。これらからわかることは、柏皮の流通が、村や荒川番所の規制下に置かれていた、ということである。一見すると八王子や須賀に自由に売出されているようであるが、事実は、村や番所の枠の中にはめこまれての流通であった。

(上記書584〜585ページより)


こうした事情から、柏皮は比較的早くから採取され、相模川の水運に載せられて相模湾まで運ばれ、あるいは八王子の市へと出荷されて売り捌かれていた実情が窺えます。「神奈川県史」のこの節では、江戸時代初期にはこうした流通が政治的な枠組みの範囲内での商いであったことを明らかにすることを主眼に置いた記述になっていますが、そうした制約がありつつも柏皮が積極的に外販されていたという事実は、柏皮が用途の限られた存在ではなかったことを窺わせます。

また、足柄上郡の村明細帳の中に、「柏皮」を小田原藩に献上していたことを記しているものが複数現在に伝えられています。
  • 貞享三年四月 皆瀬川村指出帳:

    柏かわ、三年以前、丹後守様御代御赦免被遊候

  • 貞享三年四月 川西村指出帳:

    一山のいも・柏皮・御竹藪くね結人足山北村堰普請人足、右四ヶ五三年以前ゟ御免被成候

  • 貞享三年四月 (神縄村指出帳):

    一山ノいも柏ノ彼岸村御竹藪くね結人足山北村堰普請仕候人足右四邑三年以前ゟ御免被成候

(「山北町史 史料編 近世」204、245、254ページより、一部誤記と思われる表記が混じるが原文ママ、強調はブログ主)


旧皆瀬川村・旧川西村・旧神縄村の位置
皆瀬川村・川西村・神縄村の位置
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
これらの村々は何れも丹沢山地の南部、酒匂川の北側に位置しています。貞享3年は西暦で1686年、その3年前(1683年)は天和3年に当たります。「丹後守」はこれらの年度から当時の小田原藩当主であった稲葉正往を指すことがわかりますが、天和3年はちょうどその正往が家督を継いで当主となった年に当たっています。その就任に際して領内の各村々から収められる貢税を見直したのでしょう。それ以降上納しなくても良くなった品々や労役が列記されている訳で、その中に「柏皮」が含まれているということは、天和3年以前には「柏皮」も貢税として上納していたことを意味しています。上納された柏皮を藩がどう扱っていたのかは良くわかりませんが、先程の澤井村の事例と併せて考えると、上納された分も城下町を経て市場へと下げ渡すことで藩財政の足しにしていた可能性が高いのではないかと思われます。

ただ、これらの村明細帳にある通り、この柏皮上納はここで終わってしまったため、その後も引き続き柏皮の採集がこれらの村で行われていたかどうかは記録を見出すことが出来ません。「神奈川県史」は柏皮の用途として「魚網のほか皮をなめすにも用いられたようである。」と記しているものの、本草学の書物ではこうした用途を積極的に記したものが意外になく、「本草綱目啓蒙」でも「樹皮を藥用とす赤龍皮と云」とするものの、染料などとしての用途には「大和本草」「和漢三才図会」などでも見出すことが出来ませんでした。

この辺りの事情も含め、次回もう少し柏皮の話を続けます。




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