スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

箱根の老杉と「逆さ杉」:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」に記された産物の一覧から、今回は「老杉」を取り上げます。

  • 山川編(卷之三):

    ◯老杉神代杉と稱す、足柄下郡仙石原村より出づ、

  • 仙石原村(卷之二十一 足柄上郡卷之十):

    農間には木履を造り、或は蘆湖元箱根の屬、の邊萱野を穿て、神代杉元口八九尺、長五間許あり、を得、箱根山中湯本の邊に鬻で、挽物細工の料に宛つ、

(以下「風土記稿」からの引用は何れも雄山閣版より)


旧東海道:畑宿の「桂神代」
畑宿の家並みの前に飾られていた
「桂神代」(再掲)
山川編に指摘されている足柄上郡仙石原村の記述には「神代杉」を掘っていることが記述されていますが、足柄上郡図説の産物の一覧には「老杉」は含まれていません。なお、「杉」と言っているものの、実際には必ずしも杉ではなく、杉以外の樹種が地中で変性したものも「老杉」「神代杉」の名前で一括して呼ばれています。以降では江戸時代の史料に出てくるものを以外は基本的に「神代木」で統一します。

これも箱根の産物のひとつということで、「七湯の枝折」にも

一神代杉  千石原より多く出る杉戸ニ用ゆ杢細密にて見事なり巾五六尺迄あり

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 71ページより)

と神代杉のことが記述されています。こちらでは「巾」と言っているのが太さに当たるでしょうが、「風土記稿」の方は「八九尺」、つまり約2.7mにもなる巨木の神代木があったことを書いているのに比べると、「五六尺」と若干抑えた数字になっています。それでも約1.8mもの太さというのはかなりのサイズということになります。また、「風土記稿」の方はいわゆる箱根細工に用いることを記しているのに対し、「七湯の枝折」は杉戸にするとしています。

ところで、箱根の神代木という点では、ケンペルも「江戸参府旅行日記」(元禄4年・1691年)の中で次の様なことを書いていました。

…山の一番高い所の路傍に境界を示す長い石の標柱が見えた。これは小田原藩領の始まりを示し、同時に伊豆と相模の国境である。ここからわれわれは方向を変えて再び苦労して山を下り、約一〇町すなわち一時間後に峠村(とうげむら)に着いたが、一般には山の名をとって箱根と呼ばれている。…けれどもこの湖は、ほかの険しい山々に取囲まれているので、氾濫(はんらん)することも、流れ出ることもない(山々の間になおひときわ高くそびえ立つ富士の山が、ここからは西北西よりは少し北寄りに見えた)。この湖の広さは東から西まで約半里、南から北まではたっぷり一里はある。…この湖の成因は確かに地震によるもので、そのために昔この土地が陥没したのである。その証拠として、人々は数え切れない杉の木のことを挙げている。深い湖底には珍しいほどの太さの木が生えていて、藩主の指示や意見で潜水して引きあげ運び出される。そのうえ日本ではこの種の木が〔この箱根ほど〕丈が高く、まっすぐで、見事に、そしてこんなにたくさんある所はほかにない。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 161〜162ページより、ルビも同書に従う、…は中略)


旧東海道:箱根関所遠見番所跡より芦ノ湖遠望
箱根関所の遠見番所跡より芦ノ湖遠望(2007年)
現在は遊覧船の航行の障害となるため
逆さ杉は上部を伐採され
かつての様には水面下の逆さ杉が
見えなくなっている
ケンペルが言っているのは芦ノ湖の湖底に沈んだ「逆さ杉」のことです。彼によればこちらの湖底の杉も小田原藩の求めに応じて伐出していたことになります。

この芦ノ湖の「逆さ杉」については、比較的詳細にまとめた本が刊行されており、今回はこちらを適宜使用しながら話を進めます。

ガイド・ブック 箱根の逆さ杉」 大木 靖衛・袴田 和夫・伊藤 博共著 1988年 神奈川新聞社かなしん出版


奥付を見ると企画者として「箱根町立郷土資料館」の名が記されており、「箱根叢書」シリーズの1冊として箱根町が企画立案して編まれたものであることがわかります。表題は「逆さ杉」となっていますが、仙石原や周辺地域の神代木についての記述も含まれており、今のところこの本が箱根の逆さ杉や神代木について俯瞰するのに最も手頃と言って良いでしょう。タイトルには「ガイド・ブック」と付されていて一般向けにも読みやすい様に工夫されているものの、巻末に並んだ参考文献には学術論文と言うべきものが多く、その点では多少専門家向けの内容になっている箇所もあると言えそうです。


箱根山の中央火口丘に当たる神山が
水蒸気爆発によって崩壊した際には
北方の仙石原方面に土砂が流入した
(「地理院地図」地形図に色別標高図重ねあわせ)
基本的には、逆さ杉にしても神代木にしても、元は箱根に生えていた森林であったという点では共通しています。ただ、時代的に見ると神代木の方が古く、「三千百年前の神山大水蒸気爆発で崩壊した神山山体は、岩屑流(がんせつりゅう)となって流れ下り、山腹に生えていた樹木を巻き込んで堆積した。このようにして、樹木は神代木と呼ばれる化石になった。(ガイド・ブック117ページ)」と、縄文期に埋没した木が炭化して出来上がったものです(但し、新しいものでは850年ほど前に埋没したものもあり、神代木の中にはこの水蒸気爆発以外にもそれ以降の地震などによる地滑りによって埋没したものも含まれている様です)。現在の芦ノ湖の形成もこの時の岩屑流によるものと考えられています。これに対して、逆さ杉の方は意外に新しく、平均して1,600年前前後の木立が水没して保存されたものです。


「ガイド・ブック」ではこの逆さ杉の炭素14測定による年代特定の経緯から、それよりも古い時代に出来た芦ノ湖にどうしてこんなに「新しい」木立が水没したのか、またどうして湖の中でこれらの木立が直立して残っているのか、その謎を解き明かしていく経緯が綴られています。地震によって発生した山津波によって木や建物が立ったまま移動する事例を積み重ねることで、芦の湖畔の西側斜面の林が立ったまま芦ノ湖に滑り落ちて「逆さ杉」となったというその経緯を綴った章には、当時NHK大河ドラマなどで繰り返し映像化され、当たりを取っていた山本周五郎の歴史小説「樅ノ木は残った」をもじって「モミの木は滑った」というタイトルが与えられています。


とは言え、芦ノ湖に沈んだこれらの木々が、沿岸で修行のために住み着いた箱根権現の修験者にも目撃され、様々な由緒を生み出したものであることは確かな様です。「風土記稿」足柄下郡図説の「蘆ノ湖」の項には、箱根権現の由緒などを多々引用して「逆さ杉」について記述しています。

○蘆ノ湖 …又湖中に五名木あり、

  • 錫杖木白河津の邊にあり、形似を以て名とす、安永中巨波の爲に岸にうち寄せらる、故に取て寶庫に納置、白檀に似て香あり、
  • 目代木計計良記と訓ふ、錫杖木の西北湖心に立り、丸き木にて、切口の徑二尺五寸、此木のある所、古は三國の界域なりしと云、緣起曰熟觀四境風致、地跨伊駿相三州、因分其域、而良材立波心、號名目代木、按ずるに【古今集】甲斐歌に、甲斐ヵ嶺をさやにも見しかけゝれなく云々、顯注にけゝれなくは、心なくと云心なり、或はけゝらなくとも云、らとれと五音同きなり、甲斐國の風俗とも申、それも五音にかなひ侍るにや、定家卿云、けゝれなくは、心なくなりとあり、是によれば、けゝら木とは、こゝろ木と云事なり、總て物の眞中を心と云、池の心など云如く、此木の立てる所、湖水の心なる故、心木と名づけしならん、且當所は甲斐國と接近の地なれば、其方言此邊まで及びて、けゝら木と唱へ來りしなるべし、別當寺に實朝卿此木を詠ぜられしと云和歌あり、足柄や箱根の海に目代木あり三國を分て立は白浪、是は下に載る【金槐集】の歌を誤傳へしならん、目代の文字を用ゐる事詳ならず、目印などの義にや、
  • 栴檀訶羅木勢牟太牟加良保久と訓ず、目代木の西波心に立り、是も丸き木にて、切口の徑一尺二三寸、緣起曰、西汀有毒龍、人民多不免損害、萬卷臨彼深潭、築石臺而令禱、爾毒龍改形、棒寶珠并錫杖水瓶、乞要受降、即咒而繫之以鐵鏁、號其幹名栴檀訶羅木、厥形九頭毒龍也、臺石未磷、巍然于波間、
  • 故杉古須紀と訓ず、西の方湖水の落口どうこ淵と唱ふる水中に立り、切口の徑四間程、中は空口となり宛も桶の如し、
  • 影向杉夜宇加宇須紀と訓ず、白川津の涯にあり、大さ一圍許、萬卷上人毒龍降伏の時、神の影向せし古木なりと云、按ずるに此餘湖水の南漕入山に、矢立杉及別當院内にある浦島櫻を合て、箱根の七名木と稱す、矢立杉の古木は枯し故、三百年許前、豆州山中邊より彼木の實生を移し植たり、元文中の境論に、此地箱根宿の内に入れりと云、
と呼べり、…慶長十四年五月、上総介忠輝卿湖中に遊泳し給し事あり、【柳營尊胤錄】曰慶長十四年五月上總介忠輝主、箱根の湖水に入給ふ、是は忠輝水練の達人に依てなり、今年十八、【東武實談】曰、…或書曰、湖底に靈妖ありとて、人の入ものなきに忠輝主泳で水底に入、暫して出、水中には枯木多きのみと仰られしとなり、按ずるに此事を慶長八年となすものあるは非なり、

(卷之二十二 足柄下郡卷之一、「五名木」については適宜一覧化、「東武実談」の引用は省略)


かつてはこの逆さ杉のうちの1つが伊豆・駿河と相模の国境を示していたという記述も見えますが、その信憑性についてはここではさて置くとして、他にも芦ノ湖に棲む龍が形を変えて守っているとか、岸辺に打ち上げられた逆さ杉の1つが宝物として祀られている等々、この「逆さ杉」はむしろ同地で崇拝の対象になっていたことを示す記述が多いのが目につきます。


そうなってくると、ケンペルが言う様にこれらの逆さ杉が適宜用材として用いられていたという記述は不自然に見えて来ます。湖中にわざわざ潜って伐り出して用材として使っているものを、打ち上げられたものについては宝物として崇めるというのは、今ひとつ筋が通らない様に見えます。以前取り上げた様にケンペルと通詞の間の意思疎通に問題があったと思われる事例が幾つか挙げられることを考えると、ケンペルのこの箇所の記述も「逆さ杉」と「神代木」の話が混線してケンペルに伝わった可能性が高そうです。


仙石原には「イタリ」という地名が残る
元は「板里」と書き、神代木を産出したことに
由来するという
同地にゴルフ場や浄水場が建設された際にも
敷地内から神代木が出ている
実際、「ガイド・ブック」によれば、享保16年(1731年)の仙石原村と箱根権現領との境界争いに際して奉行所から出された裁定文によれば「数十年以来、仙石原之者共、埋杉(うもれすぎ)掘出し(かせぎ)致義無紛(いたすぎまぎれなく)(同書113ページ)」とあり、江戸時代初期から仙石原村が神代木を掘り出していたことを奉行所が認定する内容になっています。ケンペルが箱根を通過した元禄4年はこの裁定の40年ほど前に当たり、やはりケンペルが通詞経由で聞いた話には神代木の話が紛れてしまっていたと考える方が筋が合いそうです。

ところで、「風土記稿」ではこの「神代杉」が「挽物細工」のために用いられているとしています。現在でも箱根細工の象徴とも言える寄木細工の模様のうち、黒や褐色の部分にカツラ・ケヤキ・クリの神代木が用いられているのですが、こうした用途に用いる様になったのはいつ頃からのことなのでしょうか。

「風土記稿」では「挽物細工」と呼んでいますが、これはどちらかと言うと同地で江戸時代以前から行われてきた轆轤(ろくろ)によって作られる盆・椀などの盒器を作る方を指します。轆轤で周囲を削ってしまうこうした製法に、希少品である神代木をまるごと使っていたというのは少々考え難いものがあります。

「箱根細工物語」(岩崎宗純著 1988年 神奈川新聞社かなしん出版)では、箱根で寄木細工を行う様になった時期を、シーボルトの「江戸参府紀行」(文政9年・1826年)やフィッセルの「参府紀行」(文政3年・1820年)の記述に「象嵌細工」「寄木細工」といった記述が見えることを根拠に、文化文政時代には行われる様になっていたと推定しています(同書84〜87ページ)。シーボルトの「江戸参府紀行」は以前も引用して紹介しましたが、彼は値段を見て購入するのをあきらめ、駿府で同様のものを求めています。こうした傾向からは、箱根細工がこの頃には装飾性に重きを置く様になっていたと考えられます。

個人的には、こうした傾向から考えて、神代木を箱根細工に使う様になったのも、この文化文政時代に端を発するという寄木細工と同時期か、あるいは多少時代を下った頃ということになるのではないかと思います。文化年間の「七湯の枝折」ではまだそのことが記されておらず、天保年間に成立した「風土記稿」になって初めてそのことが記されているのは、あるいは神代木が寄木細工に使われる様になった時期がその間に来るからなのかも知れません。
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。