相州土肥郷の「樒」補足:樒花問屋と花松問屋

梅園草木花譜春之部「樒」
「梅園草木花譜春之部 1」樒の図(右)
「大和本草」などの「莽草」の表記が紹介され
「樒」の字は「國俗」と記す
用途については「佛花」「抹香」が挙げられている
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
今回は以前取り上げた相州土肥郷の「(しきみ)」の補足です。相州側ではなく江戸側の動きについて、「諸問屋再興調」に見える問屋結成を目論む動きを少し見ておきたいと思います。少々引用文が多くなりますが御容赦を。

「諸問屋再興調」は以前に明礬硫黄を取り上げた際にも紹介しました。「天保の改革」の一環で問屋が解散させられましたが、却って市場が混乱し、本来の目的であった物価上昇の抑制も果たされていないという認識に至り、嘉永4年(1851年)になって問屋が再興させられることになります。「諸問屋再興調」の最初の2巻は幕府内の検討に当たっての資料がまとめられ、3巻目から老中から南町・北町両奉行に次の様に通達されて実務の記録へと変わります。

(朱書)(嘉永四年)三月八日、伊勢守殿(阿部正弘、老中)御直左衞門尉(遠山景元、南町奉行)對馬守(井戸覺弘、北町奉行)御渡、」

町奉行

去ル丑年(天保十二年)中、諸問屋組合停止被仰出候處、其以來、間屋組合商法取締相崩、諸品下直ニも不相成、却不融通之趣も相聞候付、此度問屋組合之儀、文化以前之通再興可被申付候、」左候迚、元十組之もの共冥加金上納等之御沙汰、彌以無之候間、文化以來之商法不流、諸商人共物價引下方之義厚心掛、実意に渡世相営候樣得と申諭、取締方等精〻可被申渡候、

(「大日本近世史料 諸問屋再興調 二」1959年 東京大学出版会 2〜3ページより、」は原文ママで原書の改ページ箇所を示すもの、変体仮名はゟ以外下付きとし、適宜置換え、傍注はルビとし位置を調整、強調はブログ主)


つまり、問屋に関しては文化年間以前から存在していたものを再興すること、但しそれらの問屋から上納されていた冥加金に関しては一切廃止とするので、その分価格の抑制に務める様に、という訳です。これを受けて対象となる問屋について上申を受けた上で内容を精査し、再興相当であるかどうかを確認した記録がこの「諸問屋再興調」ということになる訳です。

その「諸問屋再興調」の中に「樒花問屋」について上申を受け付けた記録が含まれています。その最初の書面は上申を受けた町年寄から奉行所に宛てたものです。

樒花間屋名前帳差出願之義奉伺候書付

町年寄

深川海邊大工町甚藏店佐治平・同人方同居❲宗カ❳兵衞外十五人之者共、年來樒花問屋渡世仕、

両御丸(本丸・西丸)御用樒花相納來候處、今般諸問屋再興被仰付候者、右之者共義も前〻之通規定相立、別御用御差支無之樣相勤度旨を以て、名前書差出候處、先前私共方名前帳無之者共付、一旦相下ケ申候處、去ル文化十一戌年、山方荷物引受之儀付、永田備後守殿(正道、北町奉行)御番所奉願、仲買共心得違」相弁、證文差入、出入内濟仕、同十三子年、規定相破候者共、同御番所奉願、相手方恐入、猶又規定取極内濟仕候旨、右両度濟口證文写差出、彼是御見合被成下、何卒以後名前帳差出、渡世取締仕、御用品納方仕度段相願之申候、

右之通相願候付、猶文化以前之古書物無之哉と相尋候處、右出入之外聢と仕候書留無御座候旨、且又御用納方之義者、間屋之内宗兵衞相勤、荷口船間等之用意外問屋共心掛、其節銘〻持合荷物宗兵衞方」差出候義ニ而、御用之義者御賄方ゟ宗兵衞方被申渡、尤御用高年〻不同御座候得共、凡壹ヶ年金十兩程有之候段申之候、右前斷之通、先例無之、一旦相下ヶ候得共、再()文化度出入濟口之趣申立、且乍聊御用品相納候ものも有之、旁以右名前帳之義、如何取斗可仕候哉、依之、差出候願書井両度濟口写相添、此段奉伺候、以上、

(嘉永四年)六月

舘 市右衞門(江戸町年寄)

喜多村彦右衞門(同上)

樽 藤左衞門(同上)

(上記同書295~296ページより、消去を意味する〃が脇に記された箇所はHTMLのSタグにて対応、以下変体仮名その他扱いは上に準ず)


町年寄の所へ「樒花問屋」を営んでいるという総勢15人の商人の代表2名が名簿を持ち込んで来たものの、町年寄側の持っている問屋の名簿には該当するものがなく、証拠を出せと言ったら内々の掟破りに対して口証文を取り付けたものの写しがあると持って来たが、どうすれば良いか御指示をいただきたく、という訳です。この時点で少々怪しい雰囲気が漂っているのですが、それに対してまず北町奉行所の与力4名の所見が続きます。

書面樒花問屋名前帳差出し願之義取調候処、文化度出入有之、右濟口問屋・仲買杯と中名目書顯規定取極、猥不相成樣、惣連印之題帳二冊仕立、壹冊宛問屋・仲買之内預り置候趣認有之、一旦仲間取極候姿候得共、天保四巳年正月、別紙之通、町〻世話懸り名主共に被仰渡、十組問屋を始、願濟組合定有之者、先規ゟ規定仕來者格別と有之、樒花問屋者願濟と申も無之、濟口之節取極候規定付、」右被仰渡之内、家業躰寄、仕法取極無之候者、実〻不取締之儀有之分者、自今町年寄申出、差配可受と有之基、共頃町年寄方申出、名前帳差出可然筋之處、其儘打過、今般問屋組合再興被仰出候節至り、名前帳差出度旨申立候者不相當付、右願者不被及御沙汰、彌取極無之候、不取締之義も候ゝ、追別段可願出旨申渡、願書差返候樣、町年寄被仰渡可然哉奉存候、」

亥六月

谷村源左衞門(北町奉行所年番與力)

中島嘉右衞門(同上)

秋山久藏(同上)

磯貝七五郎(同上)

(上記同書297ページより)


書面の体裁は色々と取り繕った様になっているものの、問屋として奉行が設置を認めたものではないと判断しており、取下げさせるのが妥当という意見になっています。更にこれに南町奉行所の与力の意見が付箋に記されているのですが、北町奉行所側の見解を決定付けることが記されています。

亥六月廿七日(朱書、下同ジ)、致鰭付上ル、」

書面樒花問屋名前帳差出度願之義取調候處、此方御番所手形帳之内、明和九辰年、右問屋十壹軒相定度願、別紙書抜之通、願之趣御取上不相成、」訴狀御下ケと有之、御向方類役(北町奉行所)共取調申上候通、町年寄被仰渡可然筋と奉存候、

亥六月

仁杉八右衛門(南町奉行所年番與力)

東條八太夫(同上)

中村治郎八(同上)

東條八太郎(同上)

(上記同書298ページより)


本草図譜巻二十四「莽草」
「本草図譜」莽草(樒)の図
毒草の巻に収められ、実が毒であることを記す
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
明和9年(1772年)にこの樒花問屋の結成のための訴えが退けられていることが、奉行所側の記録から出て来てしまった訳ですね。これでは「文化年間以前」に問屋が存在していたことになりませんから、敢え無く却下という判断にならざるを得なかった訳です。一応北町奉行与力の意見は今回の再興は認められないものの、今後改めて機会があるかも知れないのでその時改めて…という含みのある意見になっていますが、幕末も差し迫った頃のことですから、恐らく江戸時代中にこの問屋は認められることなく終わったのではないかと思います。

商人側としては公認ではなくても実質的に問屋に近い運営がなされていたのだから、この機に何とか認めてもらえないかという思いがあったのかも知れません。とは言え、一度裁きがあって却下されたのであれば、その際に奉行から手渡された裁定書の写しが商人たちの手元にもあった筈ですが、70年ほども前の裁定ということもあって何とかなると考えたのでしょうか。

ところで、この樒花問屋の再興願いには全部で15人の商人の名前が並びました。明和9年の訴えの際の請書の写しが「諸問屋再興調」にも含められていますが、こちらでは商人仲間は9人と記されており、それから6人も増えたことになります。これだけの人数の商人がこうした不利な状況にも拘らず問屋結成を目論んで上申を繰り返していたことになりますから、少なくとも樒の花は江戸で底堅い需要があったことは間違いないでしょう。仏前花や抹香としての利用が主であれば、莫大な消費量を売り捌く様な商いではなかったと思えるのですが、商人の人数が相応に増えていることから見ても、樒の市場も相応に成長していたと見て良いでしょう。

これは、同じ「諸問屋再興調」に収録された「花松問屋」の記録と比較すると状況の違いが際立ってきます。町年寄に提出された名簿に記されていた商人の名前は、何とたった1人になっていました。

一 花松問屋

現在人數壹人

右花松問屋之儀者、御生花師三木松盛方御立(朱書)「松」其外御規定御入用常州鹿島松御用分相納、其餘市中賣捌來、天明八年中、町年寄名前帳差出し、問屋并世話役有之、進退仕、去ル丑年(天保十二年)御改革之砌相止候處、一躰」近來追〻上総・下総邊ゟ切出し地松と唱候品、市中草花屋共に直賣發行仕、鹿島松之儀者、運送相懸り高直付、平日仕入候もの無之、每年十一月頃ゟ正月頃限り卸賣致し候而已ニ而、追〻衰微仕候由、世話役共も離散仕、天保七申年、問屋壹軒相成候分、本鄕三丁目(朱書)「草」花屋惣兵衞と申もの引受、右惣兵衞ゟ四ヶ年以前申年(嘉永五年)、當持主神田仲町壹丁目」重五郎讓受、御用松納方仕、外同業之者無之、御用代之義不同御坐候得共、凡壹ヶ年金七兩余十兩位、松盛方ゟ受取候旨、右重五郎申之候、

右之通御坐候、前〻渡世之者共退轉仕、漸問屋壹軒、是迚も追〻讓替相成候得共、引續御用品相納罷在候付、右之者、今般問屋再興被仰付可被下哉、名前帳之義者兼被仰渡候通、」私共方取置、尤當時壹人渡世付、追加入之者出來候迠、居町名主奥印取之、并代替・讓替共名主差添可願出旨申渡、其刻〻御内寄合ニ而 、則此度名主共書上候名前帳壹冊奉差上候、此段申上候、以上

六月

舘 市右衞門(江戸町年寄)

喜多村彦右衞門(同上)

樽 藤左衞門(同上)

(上記同書368〜369ページより)


花松問屋が扱っていたのは正月の門松などで必要となる松ですが、「天保の改革」で問屋が解散させられてからは商売が立ち行かなくなって撤退してしまった商人が相次ぎ、嘉永の頃になって再興という段になった時に残っていたのは1人だけになってしまった、という訳です。正月用の松飾りなら相応に需要は見込めそうなものですが、常州鹿島の松を上物として取り扱っていたところが、房総半島からの松に押されてしまい値崩れしてしまったということでしょうか。正月用の松飾りが主ということになれば商売の季節変動も特に大きくなりますし、そうした事情に合わせた流通を維持することが出来なくなったのも撤退が相次いだ事情の中にはあるでしょう。


一方、明和9年の樒花問屋の訴状では、「豆州・相州・上総・房州其外所〻ゟ出候樒荷物凡百年余引受商賣致し來候」とあり、相州土肥郷以外にやはり房総半島からの入荷が多かったことが窺えます。仏壇の花や抹香としての用途が主であれば、需要が底堅いと言っても莫大な量を旺盛に売り捌く様な商いではなかったと思えるのですが、それでも問屋の結成が認められない中で花松問屋の様に値崩れせずに済んだのは、関東南部の山地がほぼ樒の生息域の北限に当たっているために、生産地が限定されていたからなのかも知れません。それであればもっと西の方から「下り品」が入っても良さそうではありますが、生花を扱うためにあまり遠方からの運搬に耐えられなかったのでしょうか。江戸に入る船便は全て浦賀に一旦停泊して荷物を改めなければならないのも、鮮度が必要となる品物では江戸近郊地に有利に働いたということになりそうです。

ここで挙げた樒花問屋と花松問屋の他に、花卉類や植木などを扱う問屋の再興の記録がないか、「諸問屋再興調」をまだ全部当たり切れていないのですが、こうして見ていくと江戸時代には現在の生花市場の様なまとまった組織はどうやら存在せず、個々の品目毎に必要に応じて問屋が出来たりしていたのが実情だった様です。そして、樒の場合は江戸近郊の限定された産地の側に有利な条件があり、江戸の商人も何とかそれに対抗すべく問屋仲間を結成しようと動いたものの、どうやら不発に終わってしまったということが、こうした記録から読み取れると言えそうです。
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