鎌倉椿について:「新編相模国風土記稿」から

Camellia japonica SZ82.jpg
Wikimedia Commonsに登録された椿の標本図
委細が明記されていないが
シーボルト「日本植物誌」中のもの
("Camellia japonica SZ82".
Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
「新編相模国風土記稿」に掲げられた産物から、今回は「椿」を取り上げます。

◯山茶和名、津婆幾、◯鎌倉郡玉繩領邊の花を美とす、土俗鎌倉椿と稱す、

(卷之三 山川編、雄山閣版より)


椿に関する記述があるのは山川編の「物産」のみです。鎌倉郡図説ではそもそも同郡の産物の一覧が欠けています。「玉縄領」については以前「梅」について取り上げた際に、「風土記稿」では城廻(しろめぐり)村、関谷村、山谷新田、渡内(わたうち)村(小名峯のみ)、植木村、岡本村の6村とされていることを紹介しました。「梅干」についてはそのうちの渡内村の項に由緒が記されていましたが、椿に関する記述はこの6村の項何れにも見当たりません。

このうち、渡内村の名主家で、後に「相中留恩記略」を著すことになる福原高峯が、昌平坂学問所に弟子入りしていることは以前も紹介しました。このため、この鎌倉郡玉縄領の椿についての記述も、この福原高峯から何らかの情報提供があった可能性を考えたくなるところです。ただ残念ながら、渡内村に伝わる村明細帳や「相中留恩記略」にも、椿の栽培に関しては何も記述が見当たりません。玉縄領の他の村の明細帳は「鎌倉市史 近世史料編第1」に収録されていますが、こちらにも椿に関する記述は見つかりませんでした。


ポイント先は清泉女学院でかつての玉縄城跡
玉縄領はここを中心に東は柏尾川、
西は旧東海道(国道1号線)の間の地域
上記6村は現在藤沢市(渡内村)、鎌倉市(城廻村、関谷村、植木村、岡本村:現在の「玉縄」もこれらの村の領域の一部)、そして横浜市戸塚区(山谷新田:現在の影取町、旧東海道の東側の地域)に跨る地域に当たりますが、「藤沢市史」や「鎌倉市史」などでもこの地域で椿を栽培していたことを伝える記述は見当たりません。

従って、地元の史料等からはこの「風土記稿」の記述を裏付けるものが今のところは全く見出だせないのが実情です。何時頃からこの地で「鎌倉椿」が栽培されていたのか、それはどの様な姿の花を咲かせる品種であったのか、そして何時頃から何故栽培が止んでしまったのか、それら一切について手掛かりが全く見つかりません。

ならば、江戸時代に栽培されていた椿の品種の中から「鎌倉」の名を冠するものを探し出してみるという方向ではどうでしょうか。江戸時代には様々な品種の椿が作られる様になり、「跡見群芳譜」に

江戸時代には、一般にヤブツバキの栽培が広がり、多くの観賞用品種が作られた。

安楽庵策伝『百椿集』(1630)には100の、伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)には229の、『椿花図譜』(元禄(1688-1704)年間)には600以上の、品種が載る。

(上記サイトより)

とある様に、当時の出版文化の広まりと合わせてこうした品種を「カタログ化」する動きがあったことが伺えます。

これらの品種の中には勿論現在まで受け継がれているものも少なくない訳ですが、そうした椿の品種の中に「鎌倉絞」という名のものがあります。「最新 日本ツバキ図鑑」(日本ツバキ協会編 2010年 誠文堂新光社)によると、

[花]紅色地に白斑、斑は花により変化、一重、ラッパ咲き、小輪、12〜4月

[葉]長楕円、小形、ときに黄斑

[樹]横張り性、弱い

[来歴]ハルサザンカ、江戸時代の図譜に鎌倉の名でしばしば現れる、古木は中部に多い。

(上記書316ページ、項目毎に改行付与、強調はブログ主)

と、この品種が昔は「鎌倉」の名で呼ばれていたことが江戸時代の図譜に複数記されていることを紹介しています。


それで、「国立国会図書館デジタルコレクション」を活用して「鎌倉」という品種が記載された図譜などが見つかるか探してみたのですが、残念ながら該当するものは見つかりませんでした。閲覧したのは
  • 百椿集」(策伝他、年代等不詳)
  • 花壇地錦抄前集」(華文軒中西卯兵衞版元、年代不詳、解題によれば複数の図譜を編んだ編集本)
  • 椿花図譜 2巻」(筆写本、年代等不詳、原本の一部か)
  • 花壇地錦抄」(伊藤伊兵衛著、原本は元禄7年、1933年 京都園芸倶楽部翻刻版)
などです。今のところ江戸時代の椿の図譜については状態の良いものが公開対象になっていない様です。

もう少し別の図譜はないかと探していたところ、こちらのサイトで宮内庁が所蔵する「椿花図譜」について詳細な解説をされており、こちらに同図譜に掲載されている品種と他の図譜に掲載されている品種の相関表を開示されていましたので、今回はこの中に「鎌倉」という名の品種がどれだけ現れるかを数え上げてみました。その結果、
  • 「椿花図譜(宮内庁)」:664と698。以下の重複は全て664の方
  • 「摂陽奇観」:6
  • 「椿花古図(増田)」:116
  • 「椿花圖(資生堂)」:6
  • 「椿之目録(渡邉本旧伊達家蔵)」:1-42
  • 「椿譜<ゆり椿>(加賀本)」:83
  • 「百種椿之記(浅野景秀)」:92
  • 「百色椿・絵巻・京大」:83

(図譜名は何れも相関表上の表記に従う。数字は何れも図譜番号)

つまり、「椿花図譜」には「鎌倉」という名の品種が2種類描かれており、そのうちの一方は他の7種類の図譜にも描かれているのに対し、もう1つの「鎌倉」の方は他に出現事例がないということになります。こちらのページには「椿花図譜」のデータベースがあり、ここで名称欄に「鎌倉」と入力すると斑入りの一重咲きの紅花と八重咲きの紅花が表示されます。それぞれのjpegファイルに付された番号から前者が664、後者が698であることがわかりますが、これらの結果は「最新 日本ツバキ図鑑」の解説と良く合います。

ただ、ここに出て来た図譜の内容について更に確認することは出来なかったため、これらの「鎌倉」が果たして鎌倉郡玉縄領で造られたものであるかまでは追跡できませんでした。もし斑入りの一重咲きの紅花の方がそれであれば、現在も「鎌倉絞」として知られる品種が元は玉縄領で栽培されていたということになるのですが、「最新 日本ツバキ図鑑」が「古木は中部に多い」とする特徴は東国・玉縄での発祥の可能性をむしろ否定するものと言えます。そうすると「椿花図譜」の八重咲きの「鎌倉」の方が玉縄産であった可能性もあり、あるいはそのどちらでもなかった可能性もあるのですが、これらの場合は結局現在は廃れてしまった品種ということになるのかも知れません。

先程も触れた通り、「風土記稿」の山川編の物産に椿が含まれたのは、渡内村の福原高峯が関わった可能性は高いと思います。名主家という家柄からは村内は勿論、近隣の村々の産するものについて十分知識を持っていた筈ですし、その中で椿は当時の特産品として掲げるに相応しいという思いがあってのことなのでしょう。勿論、「風土記稿」は彼の一存でこの様な記述が可能になるような性質の地誌ではありませんから、相応に妥当と判断される状況はあったのだろうとは思えるのですが、如何せんこれほどまでに現在に伝わるものが何もないと、今となっては残念ながら一切が不明であると言わざるを得なくなります。

現在の鎌倉では多くの古刹がその庭園に四季折々に咲かせる花を競い合っており、勿論その中には椿や山茶花も含まれています。中には英勝寺の「侘助」と覚園寺の「太郎庵」の様に、鎌倉市の天然記念物の指定を受けた椿もあります。元より武家政権の中枢としてその歴史に対する興味関心を集める地にあって、もしもその地の名を冠する椿の品種が現在も栽培されていたとしたら、これほどまでに未知の状態になっている方が不思議というべきであり、裏を返せばやはりこの品種は現在は忘れ去られた存在になってしまったということなのかも知れません。かつての玉縄領の一角に当たる鎌倉市岡本には現在神奈川県大船フラワーセンターがあり、その一角の「つばき園」にも「鎌倉絞」の木はあるのですが…。
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