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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

ケンペル・トゥーンベリ・シーボルトと「梅」(その2)

前回に続き、江戸時代に長崎から江戸へ往参したオランダ商館長に随行した外国人のうちから、今回はシーボルトについて、「梅干」や関連するものがないかを私なりに探してみたものを掲げます。

3.シーボルトの標本図と「梅干」処方箋


Prunus mume SZ11.png
シーボルト「日本植物誌」中の梅の標本図(再掲)
("Prunus mume SZ11"
by Philipp Franz von Siebold
and Joseph Gerhard Zuccarini
- Flora Japonica, Sectio Prima (Tafelband)..
Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
シーボルトについては「梅干について:「新編相模国風土記稿」から(その1)」でも掲げた「日本植物誌」中の梅の標本図から話を始めるべきでしょう。梅の学名の「Prunus mume」もこのシーボルトとズッカニーニの命名によるもので、現在までこの学名が維持されています。そのラテン語の表記の中に「むめ」という日本語の古い表記を含むことが、彼らの採取した標本が日本に由来することを示しています。

標本図には白梅と紅梅の2種類の花をつけた枝が示され(紅梅の方は八重に描かれている)、それらとは別に葉と実をつけた枝が描かれています。そして、その実の断面、中の種とその断面までが図示されています。Wikimedia Commonsに掲載されている画像は画質改善処理が施されていて、後背に未彩色の枝がもう1本描かれているのが良く見えませんが、京都大学理学部植物学教室所蔵 『Flora Japonica』の画像では、紅梅の枝の背景に葉を付けた枝が線画でもう1本描かれているのが確認出来ます。

私は未見ですが、これらの絵図は長崎・出島で雇った数名の絵師たちの手による絵が元になっている様です。それを「日本植物誌」の刊行にあたってドイツ人の画家が標本図へとまとめ上げている訳です。同じ木に白梅と紅梅が同時に咲くことは稀ですし、梅の葉が出るのは花が終わってからですから、この標本図に描かれているのは時期の異なる複数の梅の木のものであることになります。梅に関してはかなり豊富に観察を繰り返し、絵師に複数枚の絵を描かせたことが窺えます。それぞれの枝が別々に描かれているのは梅のこうした生態からは正しいと言えますが、紅梅の背景がそれほど広く空いている訳ではないのに、敢えて葉の付いた枝が線画で描かれているところを見ると、ドイツ人の絵師にはそういう梅の生態についてまでは知らされなかったのかも知れません。

シーボルトらが学名を確定したという点は、トゥーンベリが「日本植物誌」にウメを含めなかった点とは辻褄が合います。前回紹介した伊藤舜民の訳本にはシーボルトの書き込みもあり、シーボルトが日本に持って来たこの本を伊藤が翻訳するのを、シーボルトも直接手伝っていたことがわかります。日本で既に一般的に植えられる様になっていたこの木の記述が「日本植物誌」に欠けていることにシーボルトが気付いたために、その標本を隈なく集め、その学名の制定に力を注いだということは充分に考えられます。

ただ、そうなると気になるのがケンペルの記述です。前回「跡見群芳譜」の「ウメ」の項ではケンペルがウメをヨーロッパに紹介したとされていることを余談に記しましたが、そうだとするとトゥーンベリはそのケンペルの知見を引き継げていなかったことになります。少なくともトゥーンベリはヨーロッパの「Plum」と日本の「梅」が違うものであることに上関で初めて気付いたことになるのですが、ケンペルが果たして梅についてどの様にヨーロッパに紹介していたのか、またそれがどの程度共有されていたのかが気になるところです。

また、まだ充分にヨーロッパ側の知見が固まらない中で、通詞が「梅」の訳語をどうやって選び取ったのかも気になります。トゥーンベリの記述からは割と早い時期から「Plum」という訳語を通詞が使っていた可能性が浮かび上がりますが、トゥーンベリは現物を見てそれがヨーロッパで「Plum」として知られている植物のものとは違うことに気付いている訳です。一方のケンペルは、江戸の奉行所で盃に注がれた梅酒は目にしていても、必ずしも梅の実の実物を見ているとは限りません(仮に盃の中に梅の実を入れてあったとしても、漬けられた後の実からは樹上にある時の様子までは分かり難いと思います)。ですから、もし通詞がこの時も「Plum」という訳語を使っていたとしたら、ケンペルはじめ当時のオランダ商館一行にはそれがヨーロッパの「Plum」とは違うものであることがわかっていなかったのかも知れません。彼らが味わった「梅酒」について通詞から説明を受けた時には、それが「(ヨーロッパの)Plumで出来たお酒」と受け取られていたのかも知れず、「梅酒」の意訳はそういう知見の差を上手く伝えていない点には注意すべきなのかも知れません。

最近になってケンペルの草稿が全集にまとめられ、その内容が当初刊行されたものと色々と異なっているということもある様ですので、その点も含めてケンペルが梅についてどの様な知見を持っていたのか、もう少し掘り下げてみる必要があるのかも知れません。




トゥーンベリもそうでしたが、シーボルトも日本滞在中に植物標本を多数集め、絵師による絵図などと共にヨーロッパに持ち帰りました。江戸への参府の途上でも街道沿いの植物を観察する眼差しを強く持っていたのは当然のことでしょう。トゥーンベリの「江戸参府随行記」でも道中で見かけた植物の記述はありましたが、シーボルトの「江戸参府紀行」に比べると比較的文量が少なく、大まかな紹介に留められていました。それに比べると、シーボルトの記述はかなり微細にわたっています。

シーボルトがオランダ商館の一員として江戸へ向けて長崎を出発したのは新暦で2月15日(旧暦1月9日)、丁度梅の咲く頃ですから、道中でもしばしば梅の花を見る機会があった様です。例えば、途上の下関で数日滞在している際の記述でも、梅の咲く早春の様子が描写されています。

下関港付近の大正11年の地形図
(「今昔マップ」より)
東側に「亀山宮」「赤間宮」が見える
シーボルトの滞在した南部町は港の西側
その付近の海岸から
海峡や赤間関の風景を見ていたと思われる

(注:文政9年・1826年2月25日〔旧1月19日〕)日本人は広々とした自然にひたって楽しむことを心から愛していて、冬の衣をまとっていても自然は彼らの活発な空想力に活気を与えるだけの充分な魅力をもっている。また同時に彼らは、小旅行の最中でも自然の喜びを宗教的な信心や歴史的回想によって深めるどんな機会をも利用せずにはおかない。仕事が終わったので、われわれは小川の傍にある心地よい漁師の小屋の前に腰をおろした。早春のことで、そこかしこにもう人々好むウメの花が咲き、ヤマツパキもすでにかたい(つぼみ)をほころばせていた。われわれの向いの流れの速い海峡の対岸には神社のある前山がそびえ、右手の突き出た岩山には赤間関の城趾と亀山八幡宮の社殿、そのすぐ傍に阿弥陀寺が見えた。こんな荘厳な自然の眺めのまっただ中でこのような記念物に取り囲まれて、情味ある日本人は友人と酒を汲み交わし、自然や祖国や友達に対する心情を語らないではいられないのである。

(「江戸参府紀行」斎藤 信訳注 1967年 平凡社東洋文庫87 98ページより、ルビも同書に従う)


また、室(現・兵庫県御津町室津)を出発した辺りでの記述でも、道沿いの様々な植物を自らの足で歩きながら観察しており、その中にも梅の花が咲いていたことが記されています。

兵庫県御津町室津付近の地形図と色別標高図
(「地理院地図」より)
シーボルトの一行は室で船を降りて陸路を東へ進んだ
右手は海、左手は山という沿道の景観だったことが窺える

(注:同年3月9日〔旧2月1日〕)人足や駄獣にとって同じように骨の折れるけわしい岩の道が谷に下ってゆく。私の駕籠かきはとにかく重荷を負わなかった。それは何かを調べたり見つけたりしたところでは、私は徒歩で進んだからで、駕籠の中にはいくつかの機具と本を残しておいたに過ぎなかったからである。山の斜面の植物はきわめて少なかった。数本のモミ・ネズ、さらにヒサカキ・ツツジ・モチノキ・背の低いタケの茂み、バラが大きな岩石や雲母片岩におおわれたやせた草地から顔を出している。湿った岩の壁には空色のキランソウの花が、そして道に沿って日本種のホトケノザやタンポポの花が咲き、またそこここにはウメの花が開いていた。われわれはこれらの春の植物の走りがすでに以前日本の南部で花を咲かせているのを見て来た。

(上記同書140〜141ページより)

上記の下関の風景の描写からは2週間近く過ぎていることになりますが、その間に季節が進んだことを示す様に、花を咲かせている植物が多彩になってきています。梅の記述が登場するのは大坂に到着するまでの区間で、その後は見られなくなります。これも勿論道中の季節の移り変わりと関係があるでしょう。

その一方で、私が探した限りでは、「江戸参府紀行」中には梅干やその他梅の加工食品に関して直接記した箇所を見つけることは出来ませんでした。強いて言えば、江戸滞在中の5月2日(旧暦3月26日)の町奉行訪問時の記述に

気分転換に二、三品の暖い皿がでて、茶の代りに酒とリキュールでもてなされた。

(上記同書206ページより)

とあるのは、ケンペルの記述も合わせて考えると、梅酒のことをリキュールと表現している可能性を考えても良いかも知れません。もっとも、「本朝食鑑」には梅酒以外にも蜜柑酒などの記述もありますので、「リキュール」と呼ばれそうな混成酒が当時の日本に1つしかなかったとも言い難い点は念頭に置く必要はあります。




一方、シーボルトが日本滞在中に書いた処方箋が全部で16枚残っていますが、そのうちの1枚に梅干を処方したものが含まれています。
  • 梅干(ムメボシ) 1オンス半(46.7g)
  • センナ末 1ドラム半(5.83g)
  • 酒石クリーム 1ドラム(3.89g)
  • 蜂蜜 半オンス(15.6g)

(上記長崎大学薬学部のページより)


日本では未知の処方を知っているかも知れない舶来の医師が近傍にいるとなれば、その噂を聞き付けてシーボルトの元を訪れようとする患者や医師が少なくなかった様です。「江戸参府紀行」の上記の下関滞在中の引用の少し前にも、同じ日の早朝に診察を行ったことが記されています。

二月二五日〔旧一月一九日〕早朝、私の門人とこの地方出身のほかの医師たちが患者を連れてきて助言と助力を求めた。いつものように慢性病・治療せずに放っておいたものや不治の病気であって、詳しい診察には多くの時間と忍耐を必要とした。私は門人たちのためにできるだけのことをしたが、門人らが私にみてもらう希望を持たせて慰め、ときには遠い土地からここへ連れて来た患者が、もし力になってもらえずに再び引き上げて行ったとしたら、門人たちはそのために評判をおとしたことだろう。そこで私はときどきは意志に反してホラを吹かざるをえなかった。

(上記「江戸参府紀行」 96ページより)

「江戸参府紀行」にはこの他にも、道中や長崎滞在中に診察を行った旨の記述が幾つか含まれており、その中には長崎滞在中に診察した「薩摩の老公(島津重豪(しげひで))」と江戸で再会する、といった話もあります(「江戸参府紀行」193〜194ページ)。現在まで伝えられているシーボルトの処方箋はこの様な形でシーボルトを頼ってきた患者のために切られたものであることは確かでしょう。

勿論シーボルトは自ら日本語を書くことは出来なかった筈ですから、処方の部分は第三者に何らかの方法で指示して書き取らせた上で、自身の指示であることを証明するために自署を添えたのでしょう。上記ページにある様に、シーボルトも日本にあらゆる薬を持ち込んでいた訳ではありませんから、患者に処方できる薬に制約がある中では、現地の療法なども参考にして入手できるものの中で処方箋を書くことになったものと思います。そういう中に、梅干について民間に伝わる効能を参考にしたと思われる処方が含まれているのはなかなか興味深いことです。お腹を壊した時にお粥に梅干を添えたりするのは割と良く聞かれる民間療法の1つでしょう。

Adiantum monochlamys hakonesida01.jpg
箱根草(ハコネシダ:Adiantum monochlamys)
("Adiantum monochlamys hakonesida01".
Licensed under CC BY-SA 3.0
via Wikimedia Commons.)
以前ケンペルの「江戸参府旅行日記」中の「箱根草」に関する記述を紹介しましたが、後に日本ではケンペルがこの草の薬効を知らしめたとする様になるのに対して、ケンペル自身は地元で薬効が知られているものとしていました。ケンペルが何処でその知識を得たのかはわかりませんが、東アジアにしか分布しない植物の薬効を、来日して日の浅いヨーロッパ人が知っていて日本には知る人がいなかったとするのも不自然ですから、ケンペル自身が何処かで日本の民間に伝わる用法を入手して処方したと解する方が実情に合っていそうです。

シーボルトやケンペルに限らず、恐らくはオランダ商館に赴任した歴代の医師も、同様に日本の患者を診て欲しいという要望を受けることが多かったのでしょう。そこで、オランダ商館の歴代の医師も日本で利用可能な処方について常々学ばざるを得ない状況に置かれていたということなのかも知れません。



追記(2014/12/12):Wikimedia Commonsの標本図の表示に時間がかかってしまう現象が出ていたため、縮小サイズの画像と差し替えました。その際画像が当初より若干大きくなっています。
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