ケンペル・トゥーンベリ・シーボルトと「梅」(その1)

この話題は当初前回までの梅干についての話の中で採り上げようと思ったのですが、意外に本題が長くなってしまったので、余談として独立して書き記すことにしました。江戸時代に長崎から江戸へ往参したオランダ商館長に随行した3人の外国人、ケンペル、トゥーンベリ、そしてシーボルトがそれぞれ記した記事は、これまでも何度か採り上げてきました。それらの中に「梅干」やそれに関連しそうなものが出て来ないか、あるいは彼等について残されているものの中に「梅干」に関連するものがないか、差し当たって私が見つけることが出来たものをここでまとめておきたいと思います。

1.ケンペルに振る舞われた「梅酒」


Beschrijving van Japan - titelpagina editie 1733.jpg
ケンペル「Beschrijving van Japan」扉
「江戸参府旅行日記」は
この中の江戸への往参の部分
("Beschrijving van Japan
- titelpagina editie 1733
"
by エンゲルベルト・ケンペル
- Kaempfer, Engelbert (1729年)
This file has been provided
by the Maastricht University Library
from its digital collections.

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via Wikimedia Commons.)
ケンペルの「江戸参府旅行日記」では「梅干」は出て来ませんでしたが、2回の江戸滞在中にはいずれも「梅酒」と思われるものを振る舞われています。

(注:元禄4年・1691年3月30日)最初の奉行の所では、火酒の代りに甘い梅酒を、もう一人の奉行の所では、一切れの混ぜ物の入ったバンのようなものを冷たい禍色の汁に浸け、すったカラシと二、三個の大根を添えて出し、最後に柑橘類に砂糖をふりかけた特別な一皿と挽茶を出した。

(「江戸参府旅行日記」斉藤信訳 1977年 平凡社東洋文庫303 200ページより)

(注:元禄5年・1692年4月22日)(八)砂糖をかけた柑橘類二切れ。一皿の料理が出る間に一杯の酒を飲んだが、私がこれまで口にしたうちではうまい方であった。またブランデーの壺に入れた一種の梅酒が二回出されたが、大へんよい味であった。食事には御飯は出なかったが、すべては非常に風変りでおいしく調理してあった。

(上記同書281ページより)


原書(原稿はドイツ語、右の扉は1733年刊オランダ語翻訳本)で何と書かれてあったのか確認出来ていませんが、国立国会図書館デジタルコレクション所収の国民書院版の翻訳(「長崎より江戸まで」衛藤利夫訳 1915年)では「甘き梅の實より造れるスープ」と訳しています。「American Libraries : Internet Archive」で同書の英訳本を確認したところ、この箇所は

In the house of first commissioners, a soop made of sweet plums was offer’d us instead of brandy.

(“The History of Japan: Together with a Description of the Kingdom of Siam” 1906 MacLehose Volume III, p.97)

とあり、恐らく原書の表記もこちらに近く、東洋文庫版はこれを意訳しているのでしょう。なお、国民書院版では2年めの奉行所訪問の際に出されたものについては8項目中の5項目目までしか含まれていません。英訳本では

We were likewise presented twice, in dram cups, with wine made of plums, a very pleasant and agreeable liquor.

(ibid. pp.169-170)

と、この箇所では「wine」「liquor」とアルコールであることを示す表現になっています。

江戸時代当時の梅の実を使った汁物の料理として「甘い」味付けのものは他に思い当たるものもなさそうですし、2年目には「酒」であると書いている訳ですから、1年目の「soop」も「梅酒」と訳すのは妥当なところだと思います。ヨーロッパには古くからリキュールがありましたから、ケンペルがそれを知っていれば「梅で作ったリキュール」辺りの表現もあり得たと思いますし、酒がスープと表現されているというのは何だか妙ですが、ケンペルがアルコール度数が妙に低いと感じ取った故でしょうか。通詞がケンペル一行にこれを何と説明したのかも気になります。

梅酒は人見必大の「本朝食鑑」(元禄10年・1697年)の穀部之二・造醸類十五にも

梅酒(うめしゆ)。痰(水毒の一種)を消し渇を止め、食を進め、毒を解し、咽痛を留める。半熟の生梅の大ならず小ならず中くらいのを、早稲草(わせわら)灰汁(あく)に一晩浸し、取り出して紙で拭い浄め、再び酒で洗ったものを二升用意する。これに好い古酒五升・白砂糖七斤を合わせ拌勻(かきま)ぜ、甕に収蔵(おさ)める。二十余日を過ぎて梅を取り出し、酒を飲む。あるいは、梅を取り出さずに用いる場合もある。年を経たものが最も佳い。梅を取り、酒を取り出して、互いにどちらも利用する。

(「本朝食鑑1」島田勇雄訳注 1976年 平凡社東洋文庫296 131ページより)

と、その製法が他の果実酒と共に載せられており、食を進める作用があると紹介されています。従って、確かにケンペルが江戸に滞在していた頃に梅酒が出て来る可能性はあったと言って良いでしょう。ただ、当時はまだ貴重だった砂糖が大量に必要になることなどから、武士などの一部の階級で嗜まれていたものの様で、ケンペルの時も何れも奉行所でこれを出されています。つまり、そういう希少なものを振る舞われて歓待を受けたということになる訳ですね。東洋文庫版では「火酒の代りに」ですが、英訳本では「brandy」とあり、国民書院版もそれに倣って「ブランデー」の代わりと訳されています。当時は「王侯の酒」とされていたブランデーと並べていることから、ケンペル一行もこの「梅酒」を歓待のしるしとして受け取ったのだろうと思われます。


2.トゥーンベリが見た「梅干」と「奈良漬け」


トゥーンベリの「江戸参府随行記」では、瀬戸内海公開中に逆風に遭い、風待ちで3週間ほど滞在することになった上関(現:山口県上関町)で見た梅干と梅や白瓜の奈良漬けを記録しています。梅の実の一連の記述から、トゥーンベリには梅がまだ馴染みのない植物であったことがわかります。

(注:安永5年・1776年3月頃)乾燥したり酒粕に漬けたりするこの国特有のいくつかの果実を、私は観察することができた。このような方法は、日本と中国だけにあるそうである。スモモかその同種の果物を乾燥したものは、梅干しと呼ばれていた。そして漬けてあるのは奈良漬けと言われ、まるごとか大きすぎるときはいくつかに切ってある。これには酒または酢の醸造後に樽のなかに得られる酒粕が利用される。その酸が果実に浸透してある種の味を作り、また一年中あるいはそれ以上も貯蔵できるようにする。「ウメ」はこの国の言葉で梅という植物の果実を意味する。「奈良(ナラ)」は、果実を一般にこのような方法で酒粕に漬けている日本の地方を表わしており、そして「ツケ」は漬けることを意味する。白瓜は一種の大きな瓜で、一般にこの方法で漬け、四分の一の大きさの樽に入れて他の地域に輸送する。胡瓜漬け〔ピクルス〕のように、ステーキまたは他の料理と一緒に食べる。奈良漬けの味は胡瓜漬けとよく似ている。

(「江戸参府随行記」高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫583 118ページより、ルビも原文通り)


この箇所の記述を他の翻訳と比較して表記を確認しようと思ったのですが、「国立国会図書館デジタルコレクション」に収められている翻訳(「ツンベルグ日本紀行」山田珠樹 訳註 1941年 奥川書房)の上関滞在中の箇所にはこの記述がなく、適切な比較の出来そうなものを見つけることが出来ませんでした。底本の相違によるものか、あるいは訳者や編者が適宜省略を加えた結果なのかは不明です。原著はスウェーデン語で、仏訳本は見つかったものの英訳本を見つけることが出来なかったので、こちらは他言語の訳本を確認するのは断念しました。

この中でも梅干と共に粕漬けが紹介されており、どちらも一般的に漬けられていることが窺えます。「他の地域に輸送する」とあるものの、これらの漬物が当時どの程度遠方まで運ばれていたか、関連しそうな資料を見つけられませんでした。既に大坂周辺からも江戸に向けて梅干が送られていた時代ですので、かなりの長距離を移動した可能性もありますが、梅の産地が全国に拡大する中でそれぞれの産地がどの程度の販路の拡がりを持ち得たか、機会があれば追ってみたいところです。

最後の「ステーキまたは〜」は当時この様な肉食の風習がなかった筈の日本の記述としては変ですが、これも通詞が膳の添え物として説明したものをトゥーンベリなりに表現した故でしょうか。「味は胡瓜漬けとよく似ている」と書いているということは当然これらの漬物を口にしてみた筈ですが、彼が果たして梅干も味わってみたかどうかは気になるところです。

Flora Japonica.cropped.jpg
トゥーンベリ「Flora Iaponica」扉
("Flora Japonica.cropped
by Carl Peter Thunberg.
Licensed under CC 表示-継承 3.0
via ウィキメディア・コモンズ.)
後にトゥーンベリはこの日本滞在中に収集した標本を元にして「日本植物誌(Flora Iaponica)」を著していますが、これをシーボルトが来日した際に日本に持ち込み、ここに記されている学名に対応する和名を書き並べたものが「泰西本草名疏草稿」(伊藤舜民(圭介)訳 文政11〜12年)として残されています。この中では「Amygdalus persica モモ 桃」に続いて「Amygdalus nana」に一旦「ムメ 梅」と記された後、上から縦線で消されています。実際、この学名で知られる植物は現在は「Prunus tenella」と命名されており、梅とは違うものです。訳者も後からその点に気付いて訂正したものの様ですが、この本の何処かには「梅」の項目がある筈だと考えた故の取り違えでしょうか。サクラ属Prunusが並ぶページ中にも梅と思しき項目がなく、やはりトゥーンベリのこの本では梅は採り上げられなかった様です。

上記の様に、少なくとも上関で梅の実の漬物を介してウメに関しての知見を得ており、1年以上日本に滞在していれば恐らく梅の花を目にする機会もあったであろうトゥーンベリが、何故「日本植物誌」にウメを含めなかったのかは良くわかりません。GoogleBooksがデジタイズした「Flora Iaponica」を検索してみると、「PLANTAE OBSCURAE」と題されている章の中に「104. Prunus floribus plenis, umbellis pedunclatis」とあり、その「Iaponice」の項目に「Niwa Ume(庭梅?)」とあるのがどうも関係ありそうですが、如何せん相手がラテン語なので私にはこれ以上の判断が出来ません。Google翻訳に「Plantae obscurae」を入れてみると「無名の植物」と出て来ますので、あるいはトゥーンベリが梅について充分記述できず保留したのでしょうか。

少々長くなったので、シーボルトについては次回に廻します。




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