梅干について:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回は「新編相模国風土記稿」の産物に記された梅の実のうち、鎌倉郡渡内(わたうち)村の梅干の由緒について見ました。今回はその続きで、小田原周辺の梅干について見ていきます。


曽我別所の梅林(ストリートビュー
この梅林は昭和30年代以降に
小田原の梅の復興を目指して開かれたもの
小田原の梅干と言えば、小田原のみやげ物の常連ですから、この項目については比較的楽にまとめられるだろう、と当初は考えていました。実際、小田原市のサイトでも「小田原市の地場産業」の1つとして梅干をはじめとする漬物を採り上げ、

江戸時代のころ、国府津から二宮にかけた海岸一帯には見事な塩田が広がっており、ここから採れる塩が小田原の漬物の生産を支えてきました。

小田原の漬物といえば梅干が有名ですが、戦国時代、梅干の薬効と腐敗防止作用に目を付け軍用として梅干作りを奨励し、江戸時代には薬用・食用として庶民の間に広がりました。小田原もこの頃から大規模な梅の産地となり、おみやげとして旅人に重宝されるようになりました。

(上記小田原市サイトより)

と戦国時代からの由来がある様に記しています。あるいは、曽我梅林で毎年開催される小田原梅まつりのページでも

神奈川県小田原では今から約600年以上も昔、北条氏の時代に梅の実を兵糧用にするため、城下に多くの梅の木が植えられました。それが江戸時代には、小田原藩主の大久保氏により梅の栽培が奨励され急速に増えました。さらに、箱根越えの拠点としての宿場町として、旅人の必需品(弁当の防腐、のどの渇きを癒す、健康食品)としても梅干が重宝されました。

(上記ページより)

と、小田原北条氏との関連を挙げています。

ところが、こういう所で採り上げられている話は意外に言い伝えが多い様です。「小田原市史 通史編 近世」では

小田原の特産品として梅干しを落とすことはできない。梅干しに関する史料は乏しく、わずかに松平信興(のぶおき)の「雑兵(ぞうひょう)物語」や大久保彦左衛門の自伝「三河物語」によって散見できる。「雑兵物語」では、梅干しを「息合(いきあい)の薬」と表現し、妙薬であったと記している。

(同書494ページより)

と、梅干に関する史料自体が乏しいことを記しています。うち、「雑兵物語」については前回国立公文書館のページを紹介しましたが、何れにしても小田原と梅干の関連を明らかにするものではありません。

小田原市史 通史編」は次いで

小田原での梅の栽培が急速に広がったのは、近世後期、大久保忠真(ただざね)の治世中と考えられる。忠真は文化八年(一八一一)、窮乏する藩財政救済の手段として国産方の奨励をはかり、領内の村民に国産国益となる方法があれば藩に上申するように通達した。これにより、油・漆・煙草・紙などの需要増加にともなって村むらから献策がおこなわれた。残念ながら、この時、梅について献策があったかどうかは不明であるが、加工が加えられ、保存食料として商品化がすすめられたと思われる。また、文化・文政期以降、箱根越えをする旅行者が増加した。そのため、小田原宿の旅籠屋では朝立ちする客の弁当に腐敗防止のために梅の塩漬けを携帯させた。これによって宿内での梅の需要が激増し、それに照応するかのように梅漬けの生産加工が促進されたと見なされている。

嘉永六年(一八五三)二月、小田原城下はマグニチュード六・五の直下型大地震に遭遇した。曽比(そび)村・竹松村・和田河原村などをはじめ、中筋の村むらでは倒壊家屋三三〇〇軒、死者七九人の大被害を出した。藩主大久保忠愨(ただなお)はただちに被害者救恤を命じた。被害の大きかった千津島村(南足柄市)では、潰家が金左衛門以下七一軒を数え、そのうち全壊の家族には二五ずつ、半壊した家族には一三個ずつの梅干しを下賜し、急場をしのがせた。また、梅干しは岡野村(開成町)にも一五〇個下げ渡されている(明治大学刑事博物館瀬戸家資料)。

かくて、小田原藩は「備荒囲い米」と同じく、「救荒用」として梅干しの生産を奨励することになる。小田原城下の梅は幕末期にいたると曽我地域に生産拠点が移転する。曽我の梅の商品化が進むのは明治以降になってからのことである。

(同書494〜495ページより)

と結んでおり、これを読む限りでは小田原の梅干はむしろ江戸時代にはそれ程の拡がりを見せなかった様にも読めます。この記述に従うと、「新編相模国風土記稿」が何故小田原宿の産物として「梅實」を採り上げたのかが見え難くなってきます。

幸い、小田原の梅の由緒について様々に言い伝えられている点を検証しようとした書物が見つかりましたので、今回はこちらの書物を参考にしながら検討を加えていきたいと思います。

小田原の梅―歴史背景の謎を追う―/小田原の郷土史再発見Ⅲ 石井 啓文著 2005年 夢工房


この本ではまず、小田原の梅の由緒について主要な説として中野敬次郎氏と青木恵一郎氏の説を紹介し、それらに対する否定的論説として小田原の梅は明治以降のものであるとする説を掲げています。上記の「小田原市史 通史編」の説もこの否定的論説の1つとして採り上げられています。そして、

以上、史料が全く示されていないが、「中野説」を要約すると次のようになる。

①北条氏が侍屋敷に栽植

②それは兵食用のためであり

③塩田があったからで、前川地方は製塩当時から漬物業が発展してきた

④代々の大久保氏が奨励

⑤大久保忠真が城下に栽植

さらに、次のような事実があったとも記している。

⑥文化文政の頃、前川村の商人が甲斐・奥羽に梅の買い出しに行き

⑦明治期までは、小田原町内の寺院や侍屋敷跡地には、梅樹が必ず栽植されていた

そして、冒頭に次の「伝聞」を記している。

⑧大久保氏が戦陣用に梅干に紫蘇の葉を巻かせたのが紫蘇巻梅干の始まりと伝えられる。

(同書14ページより)

「青木説」を整理すると、次の三点である。

①天正十八年の故事

②大久保忠真の掟で、藩士屋敷には一本以上の梅を栽植

③梅の古木を大切にせよ

「中野説」は、②大久保忠真の掟、とまではいわれていないし、①②は記していない。現在のところ、小田原の史料に①②③は見られない。

(同書20ページより)

この様に両氏の説を整理し、個々の部分についてその裏付けとなった書物を探索していくという手順でこの本が書き進められていきます。その全てをここで紹介し切ることは出来ませんが、これらの説の多くは明治時代から大正時代に書かれた案内誌や地誌などに由来しており、それらも何れも言い伝えを記していてそれ以上の史料を手繰れない状況であることを紹介しています。

こうした検討を踏まえて、終章では次の様にまとめています。

小田原の梅が文献に始めて見えるのは、大雄山最乗寺の『由緒書』を別にして、十九世紀初頭の享和二年(一八〇二)『東海道中膝栗毛』で、梅漬を小田原の名物としている。次いで、大久保忠真が文化元年(一八〇四)から文政十二年(一八二九)までの二十五年間「粕漬小梅」を献上していることが『武鑑』から判明した

小田原では十八世紀の中頃には梅の生産に力を入れ始めていたことがうかがえる。大久保忠真の父、忠顕(一七六九〜九六)の時代である。忠真は嫡子忠修が家督を相続することなく他界したことから四十一年間(一七九六〜一八三七)、領主の座にあった。その間、文化七年(一八一〇)に大阪城代、同十二年(一八一五)には京都所司代、そして、文政元年(一八一八)に幕府老中に就任している。

忠真が大坂で生産された梅が何千石と言えるほど江戸へ送られている(『國産考』)のを知った可能性は高い。彼が藩財政の窮乏に対し国産を奨励したのが文化八年(一八一一)、藩政改革を実施したのが文政十一年(一八二八)である。小田原大久保家で幕府の老中を務めたのは二代忠隣、五代忠朝、六代忠増、そして、十一代忠真の四名である。この内、筆頭老中になったのが忠隣と忠真である。忠隣は二代将軍秀忠に信頼されながら、不幸にして家康に謀反の嫌疑で疎まれ失脚させられた。

こうしたことから、忠真は大久保家中中興の人物との評価が高い。二宮金次郎の登用も忠真である。

小田原梅が名産・名物と言われ始めるのが忠真時代の文化・文政期である。忠真が梅の栽培を奨励した可能性は高い。それが立証できれば忠真の画期的な事績と言えるし、彼の評価は再認識されることになろう。状況資料は見えてきた。新たな具体的史料の発掘が望まれる。

近代になると、日露戦争後に梅の需要が急増し、それまでは梅園樹や各戸の庭園樹は梅花を愛でる傾向にあったが、栽培技術が研究され、梅実の収穫を目的とする国産意識が高揚した。小田原梅は文化・文政期に次ぐ第二次発展期を招いたのである。同時に小田原梅の歴史も考えられ始め、「天正十八年の故事」や「北条氏が侍屋敷に栽植」とか「代々の大久保氏が奨励」などの「逸話」が生まれた。いずれも、大正時代になってからの新聞記事が発端のようである。

そうした逸話が生まれる土壌が育っていたのであろう。

「塩田があったから、なかったから」とするのも客観的視点からは、その可能性は極めて薄い。

(同書157〜158ページより、…は中略)


この検討結果はかなり妥当なものと思えますが、そうすると天保年間に編纂された「風土記稿」が小田原宿の産物として「梅實」を採り上げたのは、同地の産物として名を上げてからそれほど日が経っていない時期に当っていることになります。

他方、「小田原の梅」では「国史大辞典」を引いて塩漬けにした上で日に干して作る梅干が平安時代には既に食用化されているとしつつも、

『医心方』や『伊呂波字類抄』で烏梅を「むめぼし」と記しているように、この頃の「梅干し」は烏梅をいうのであろう。『広辞苑』も、烏梅を現代の梅干しとは違う説明をしている。

(同書27ページより)

とし、中世の「梅干」についても烏梅である可能性を考える必要があるという見解を示しています。「雑兵物語」の記述についても烏梅であるとしていますが、「雑兵物語」の記述についてこの様にいわゆる「梅干」のことではないとする見解は他では見られないものです。

烏梅(うばい)」とは梅の実の燻製で、民間薬として用いられた他、クエン酸の効果を利用して紅花染めに添加されるなどの使われ方をしていました。戦国時代の「梅干」が「烏梅」であったとすれば、前回採り上げた渡内村の梅干も、家康に献上した頃には烏梅であった可能性も出て来ますが…。以下長くなりそうなので次回に廻し、江戸時代の梅干の事情についてもう少し掘り下げてみたいと思います。



追記(2016/01/21):ストリートビューを貼り直しました。

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