「箱根竹」について:「新編相模国風土記稿」から

新編相模国風土記稿」の各郡の産物、このところ植物の紹介を続けていますが、今回は「箱根竹」を取り上げます。「新編相模」では何れも「細竹」の名で揃えられ、足柄下郡図説でのみ、「箱根竹」の俗称を紹介しています。


  • 山川編(卷之三):

    ◯細竹足柄下郡元箱根邊より出づ、煙管に製す、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    ◯細竹、元箱根邊に產す、俗に箱根竹と云是なり、

  • 元箱根 下(卷之二十九 足柄下郡卷之八):

    ◯土產 …△細竹山中所々に生ず、烟斗管とし、又筆管ともなせり、

(以下「風土記稿」の引用は「新編相模」「新編武蔵」共に雄山閣版より、…は中略)


因みに、「七湯の枝折」では

虎班竹

筥根山中生ス是太細ありといへとも大概烟管竹位のふとみなり甚奇竹也

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 1975年 箱根町教育委員会 70ページより)

と、その用途については直接記していないものの、「烟管」という言葉を出して暗にその用途を示している様です。

旧東海道:箱根峠付近・西坂の箱根竹
旧東海道・箱根峠付近の西坂を覆う箱根竹
繁殖力が強く、隙間なくビッシリと生える
(2007年撮影)
「箱根竹」について考える上ではその植生を把握する必要がありますが、この名称で種名と考えることが出来るかどうかが課題になりそうです。箱根竹の学名は「Pleioblastus chino f.vaginatus」と、亜種を示す「f.」が付けられていることからもわかる通り、現在の文献ではアズマネザサの変種として扱われているものが多い様です。「アズマネザサ」の名が示す通り、「箱根竹」と言いつつもササとしての性質を強く持ち、地下茎で増えるものの茎を包む鞘が残るのが特徴です。

江戸時代の文献では、伊藤伊兵衛による元禄8年(1695年)の「花壇地錦抄」中「竹のるひ」に列挙された竹の中に

箱根竹 ほそながく(のたけ)のごとく今多く(かこ)細工ニつかふ竹

京都園芸倶楽部版 85ページより)

とあり、この頃には既に竹の一種として認識されていた様です。この記述では「煙管」としての用途が挙げられておらず、江戸時代初期にはまだそれ程羅宇の需要がなかったのかも知れません。

基本的には「箱根竹」は箱根周辺に分布するものとされていますが、種名ということであれば、「箱根竹」という名を冠していても実際の産地が箱根山やその周辺とは限らなくなって来ます。その辺りは史料・文献を読み込む際に課題になりそうです。

この箱根竹が戦国時代から江戸時代初期にかけて、箱根山中の東海道のゆかるみに対処すべく大量に切り出されて敷かれていたことは以前紹介しました。延宝8年(1680年)に東海道の箱根八里が石畳に切り替えられて、箱根竹を街道に敷く運用は終了しましたが、「新編相模」が編纂された天保の頃には「煙管」、つまりキセルの羅宇(らう)に使ったり、筆の軸に使ったりしていたことが「新編相模」に記されている訳です。

これだけであれば、あまり話を膨らます余地がないと感じていたのですが、「新編武蔵風土記稿」の方に箱根の竹の利用についての記述があることに気付いたため、もう少し深く掘り下げてみることにしました。それは久良岐郡の別所村の項で、そこには

農隙には相州箱根より出る竹を以て羅宇を製し生產の資となせり、

(卷之八十 久良岐郡之八より)

と記されています。

久良岐郡別所村の位置(「今昔マップ」より)
現在の横浜市南区別所の範囲の他別所中里台の一部などに当たる
かつての久良岐郡別所村は、現在の横浜市南区別所などの地域に当たります。京浜急行・横浜市営地下鉄の上大岡駅の西北の丘陵地に位置しており、その南面する斜面の麓にある白山社を中心に集落がありました。東京湾岸からは3kmほど離れていますが、その間は現在の久良岐公園などのある標高100m弱の尾根筋によって隔てられており、基本的には海との縁の薄い、内陸の村と言って良いでしょう。従って、この地まで物が運ばれてくるとしたら基本的に陸路を経ることになりますが、ここに箱根から竹が運ばれて羅宇が作られていたというのです。出来れば同地に伝わる村明細帳などの他の史料で裏付けが出来れば良いのですが、私が探し得た限りでは残念ながら別所村に関する史料を見出だせなかったので、今のところ別所村の羅宇作りに関する記述はこれのみです。


旧東海道筋から別所村までの道筋(推定)
箱根からこの別所村まで陸路ということになると、やはり延々と東海道筋を荷継で運んでくることになるでしょう。箱根から戸塚宿を過ぎて川上川と平戸永谷川の合流地点の辺りまでは東海道を進み、そこで平戸村の白旗神社の前を過ぎて芹ヶ谷の谷戸から現在横浜横須賀道路の通る尾根筋を越えて別所村に入ってくる道筋であったと思われます。箱根宿からこの別所村までの距離はおよそ16里(64km)にもなり、それほどの遠方から材料を運んで羅宇生産にうまみがあったのか、という点が気になります。

上記で「箱根竹」の名称が種名であるのか産地を示すのかを確認しましたが、「新編武蔵」の記述を素直に読めば、これはやはり箱根から持って来ていたと解するのが自然ではあるでしょう。ただ、別所村から昌平坂学問所に提出された地誌書上帳に何と書かれていたかは確認出来ていませんので、穿った見方をすれば「箱根竹」と書いてあったものを昌平坂学問所の方で書き改めた可能性もないとは言えず、その場合は地元のアズマネザサを使っていたことになります。なお、現在の別所地域は全域が住宅地化し、僅かな緑地が残るのみになっていますので、同地の江戸時代の植生を推定することはほぼ不可能です。

「人倫訓蒙図彙」より幾世留師と無節竹師
「人倫訓蒙図彙」より「幾世留師」と「無節竹師」の図
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
そもそも「羅宇」についてここまで触れていませんでしたが、これはキセルの雁首(がんくび)と吸口の間のパイプの部分です。雁首に煙草を入れて火を付け、吸口でその煙を吸う訳ですが、これらは金細工で出来ているのに対して、羅宇の部分は竹材が多く用いられた様です(一部他の素材製のものもあり)。元禄3年(1690年)の「人倫訓蒙図彙」という書物には当時の様々な身分・職業が絵図と共に解説されていますが、その中に「幾世留師」、つまりキセルを作る職人と並んで「無節竹師(らうし)」の姿が描かれています。「幾世留師」の方は金床の上で雁首や吸口を作っている様が描かれ、その後背には完成したキセルが数本架けられていますが、「無節竹師」の方は数本の竹を前に工具を使って羅宇を作っており、後ろには束ねられた竹が多数置いてあるのが見えています。

羅宇作りがキセル作りから独立して専業化しているのは、基本的にはこの部分が「使い捨て」とは言えないまでも消耗品であるために、金属製の雁首や吸口とは違い大量に生産する必要があったためでしょう。江戸の街中では「羅宇屋」と呼ばれる行商人がいて、脂の溜まった羅宇を掃除したり交換したりするのを生業としていました。羅宇師が作った羅宇は、幾世留師の元に送られてキセルに加工される他に、江戸の羅宇問屋に引き取られてこうした行商人などの手によって交換作業が行われるためのものだった訳です。もっとも、別所村辺りの羅宇は江戸ではなく、より近場にある東海道筋の宿場や立場などに廻された可能性もありそうです。

そうなると、久良岐郡別所村の羅宇作りは別にこの村の特産であった訳ではなく、恐らくは他の村々でも余業に普通に行っていたものなのかも知れません。それが「新編武蔵」で敢えてこの村の項に記載されたということは、やや瑣末なものを記したということになってきます。これは、「新編武蔵」の久良岐郡の編集については

一久良岐郡は文化七年起業の始試に作る所、體例尤踈なるを以て、文化十年再訂增加す、

(首卷例義より)

と、全編の中でも最初に手掛けられ、後に記述がまばらなので改訂を施したことを考え合わせる必要がありそうです。恐らくは改訂に当って久良岐郡の各村に対して更なる書上を要求するなどの作業が行われた可能性が高く、別所村の名主が何か地元で作られているものを書いておかねばと考えて、その結果書き留めたのが羅宇作りだったのでしょう。私も「新編武蔵」は今のところ神奈川県内に当たる久良岐郡と橘樹郡・都筑郡、そして多磨郡・荏原郡くらいにしか目を通していませんので、全編を通して編集の特徴を挙げる程には読み込めていませんが、ここまでの印象ではどうも「新編相模」に比べて先行して編纂された分、記述の不統一が様々見えると感じています。この別所村の羅宇作りも、そうした中で村が書き上げたものをそのまま転記していたために記載されたものと言えるのではないかと思います。

とは言え、こうして「新編武蔵」に書き留められたお陰で、箱根竹が遠方の村々の余業のために方々に出荷されていた実態の一端が見えていると言えます。これが上記の様に地元のアズマネザサを「箱根竹」と称していたものを書き直したのだとすればこの説はあり得なくなりますが、箱根竹はかつては道筋に切った箱根竹を毎年敷いて廻っていても枯渇しなかった訳ですから、例年それだけの量を切っていても翌年には補充されるだけの量が産出出来たことになります。勿論、その頃には伊豆半島の先端の村まで箱根竹を東海道まで敷きに行っていたので、その産出量は箱根から伊豆半島全体にかけてのものということになりますが、これらの伊豆半島の村々も石畳整備後はやはり羅宇の制作を行っていたとのことであり、また

箱根地区に限らず、箱根山に隣接する裾野市や三島市の多くの農家では冬場に箱根竹を伐採し、農閑期の貴重な収入源を得る大切な副業としていました。箱根地区の資料によると、小舞竹用には箱根竹を6尺5寸(約2m)の長さに切り揃え、150〜200本ほどを1まとめにして山から下ろし、出荷していたという記録が残されています。

(JTウェブサイト「3.“箱根竹”という名の銘品」より)

といった実情を合わせて考えると、全体ではかなりの本数の羅宇が例年生産されていたのでしょう。その点で、やはり「新編武蔵」の記述は字義通り「箱根から竹を運んで加工していた」という理解で問題ないのではないかと思います。つまり、それ程に箱根竹の繁殖力が旺盛だった、ということです。

また、江戸時代の箱根の山中では挽物細工の制作が主に行われていました。木工の技法は竹の加工技術にある程度は応用出来そうですから、その点では挽物細工の職人が羅宇をはじめとする竹細工に乗り出していても良さそうに思えますが、箱根竹が各地方に移出されていた実情からは、羅宇作りをはじめとした竹細工は箱根の山中ではそれ程行われていなかった様に思えます。これはやはり、戦国時代以前から続く挽物細工の商売の方が、箱根の職人たちにとっては重要であったことによるものでしょう。ある程度使った所で交換されてしまう羅宇よりは、家具や盒器などに加工されて末永く使われる挽物細工の方が商品単価が高く、それだけ職人たちにとってもうま味があったことを考えれば、箱根山中の羅宇作りはこうした挽物細工の職人以外の山村の農民によって行われていた可能性が高く、羅宇の需要を満たすにはそれだけでは不足だったのでしょう。そこに、箱根域外に箱根竹を移出して羅宇の生産を行う余地があったのではないか、と思います。


旧東海道・箱根峠付近の
箱根竹のトンネルが見られる場所
箱根竹の生産は昭和10年頃に終了し(仙石原に残っている「箱根竹開花之碑」には、箱根竹の一斉開花により大量枯死したことが切っ掛けになった旨記されているとのことです)、現在では箱根竹は「箱根細工」の様な土産品として用いられることもありません。旧東海道を京都に向かって歩くと、箱根峠を越えた先で両側をビッシリと覆う箱根竹の群生を見ることが出来ますが、この箱根竹がかつては今歩いている道筋に敷かれていたり、あるいはキセルなどの製作のために大量に用いられていたことを思いながら歩くのも乙かも知れません。


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