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相州土肥郷の「樒」について:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」の各郡の産物から、今回は足柄下郡土肥鍛冶屋村と土肥宮上村で産していたという「(しきみ)」を取り上げます。
  • 山川編(卷之三):

    ◯樒足柄下郡土肥鍛冶屋、同宮上二村の山上に多し、

  • 足柄下郡図説(卷之二十二 足柄下郡卷之一):

    樒、土肥鍛冶屋、同宮上兩村の山上に多し、

(以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)


Illicium anisatum - Köhler–s Medizinal-Pflanzen-075.jpg
シキミの標本図
("Illicium anisatum
- Köhler–s Medizinal-Pflanzen-075
"
by Franz Eugen Köhler, Köhler's Medizinal-Pflanzen
- List of Koehler Images.
Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
「樒」については以前「【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(まとめ)」で、箱根山中の6ヶ村で正月に松飾りの代わりに樒を飾る風習があることを記しました。その伝であればこれらの村々も樒の産出に何らかの関り合いがあっても良さそうですが、「風土記稿」の物産ではこれらの村から樒が産出したとは記していません。

神奈川県の現存植生」(神奈川県教育委員会編 1972年)には「7. シキミ—モミ群集」(186〜191ページ)という1項目が設けられ、この群落内に生える木々の特徴について解説しています。この解説中では肝心のシキミについては殆ど触れられていないのですが、群集断面模式図ではシキミはモミ・ツガ・クロシデ・イロハモミジなどの林縁の上端・下端に生えている様に描かれています。これらの高木の森林群集の林縁に特徴的に現れる植物として代表させているのでしょう。そして、

丹沢札掛付近(海抜750m)や箱根外輪山の白銀山(931m)あるいは天照山神社(650m)付近には落葉広葉樹にモミが混生した植分やモミが優占している林分がみられる

(上記同書188ページより)

シキミ—モミ群集の立地は一般に傾斜角度22〜45°の急斜面で、土壌は浅いが適潤で安定している。

(上記同書189ページより)

とあり、丹沢や大山の比較的標高の高い、土壌の薄い地域に群落を作っていることを紹介しています。「丹沢大山動植物目録」(丹沢大山総合調査団編 2007年 平岡環境科学研究所)でもシキミは

シイ・カシ帯〜ブナ帯下部に普通。モミ林内に多い。

(上記書20ページより)

と記しており、丹沢山地内でも一般的な植物であることを記しています。こうしたことを考えると、箱根外輪山南部の海に面したこの2つの村が、樒を特に産物としている理由が問題になってきます。

「風土記稿」の両村の記述では
  • 土肥鍛冶屋村(卷之三十二 足柄下郡卷之十一):

    ○土產 △樒山腹にて叢生す、村人伐て都下に運致す、

  • 土肥宮上村(卷之三十二 足柄下郡卷之十一):

    土產 △樒山上に多く叢生す、江戸へ運致す、

と、伐った樒を江戸へと送っていたことを記しています。

樒は古くから仏事で用いられてきました。一説には弘法大師空海が樒を修法に使ったとも言われますが、「源氏物語」の「総角の帖」第一章第六段に「名香のいとかうばしく匂ひて、樒のいとはなやかに薫れるけはひも、人よりはけに仏をも思ひきこえたまへる御心にて、」と、樒の強く香る様子が仏への信心を示すものとして示されています。江戸時代まで下っても基本的にはその傾向には変わりがなく、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」でも

莽草 シキミ和名鈔 ハナ江戸 ハナシバ筑前 ハナノキ播州雲州 梻和字榊ニ対ス カウシバ遠州 カウノキ同上 葉花和方書花 香花同上 仏前草和方書葉末 〔一名〕石桂通雅 菵草同上

(「本草綱目啓蒙 2」1991年 平凡社東洋文庫536 51ページより)

と、「仏前草」の異名で呼ばれていることを記しています。「本草綱目啓蒙」では続いて

三四月花ヲヒラク。大サ一寸許、七八弁、小蓮花ノ状ノゴトシ。白色ニシテ微ク黄ヲオブ。蠟花(ロウビキノツクリバナ)ノゴトシ。後実ヲ結。大茴香ノ形ニ似タレドモ、香気大ニ異ナリ。薬肆ニコノ実ヲ大茴香ニ雑テイツハル。然レドモ毒アリ。宜ク揀ブベシ。莽草葉ト紫沙糖(クロサトウ)ト同食スレバ死ス。

(同上)

と、この植物が毒草であることを記しており、実際同書の第13巻は他に彼岸花などの毒草をまとめています。他方、「大和本草」では同様に毒草であることを示しつつも、逆にその毒を利用して腫物の湿布に用いる用法などが紹介されています。また、

國俗抹香トシテ佛前ニタク皮モ葉モ用ユ

(国立国会図書館デジタルコレクションより)

と、その葉や皮を抹香として利用していたことを記しています。


湯河原町鍛冶屋・宮上の範囲
湯河原町鍛冶屋・宮上の範囲
Googleマップのスクリーンショットに加工)
一方、土肥鍛冶屋村と土肥宮上村の位置を、現在の地名から大筋で示すと右の地図の様になります。今回のタイトルはどうしようか悩みましたが、両村が属していたという「土肥郷」の名を持って来ました。先日箱根周辺の石切場について取り上げた際にも、土肥郷の村としては土肥吉浜、土肥門川の2村が含まれていましたが、今回の2村も前回同様、現在は湯河原町の内にあります。どちらも右の地図の通り、湯河原町の山側の地域に当たります。

この江戸時代の「樒」については、「湯河原町史」では「第3巻 通史編」(1987年)の「第3節 湯河原地方の産業と商業」に「2樒の村」という1項を設けて、同地に伝わる文書を中心にして解説をしています(同書225〜234ページ)。この項の書き始めは次の様になっています。

当地方一帯の山々には、いわゆる香の花として知られる(しきみ)が栽培され、その販売は現金収入の一つとして、農間渡世の有力な稼業となっていた。しかし不思議なことに、当地方の有力産業というべき樒については、村明細帳に何の記載もなく、『風土記稿』も一行も触れておらず、当地方で周知のことながら、一般的にはほとんど知られることがなかった。

樒の山は花山といい、村むらはそれぞれ村内の花山を所持し、恐らくは販売権を特定の人びとに委ねて移出していたものと思われる。史料の上から樒の売買に関わる村は、宮上・宮下・鍛冶屋・堀之内の四か村で、外に隣国伊豆山権現領の花山を宮下村名主が請負っていた史料もある。いずれも江戸の問屋との取引を示しており、山に自生する形の樒を管理しながら、大消費都市としての江戸のみが販売市場として存在したのであろう。

(上記同書225〜226ページ)

ここでは更に土肥宮下と土肥堀之内の2村が付け加わっていますが、何れにしても土肥郷の村が樒の産地であったことには変わりがない様です。「風土記稿」には実際には冒頭に示した通りに僅かながらも記述はありますので「一行も触れておらず」は正しくありませんが、残されている史料は必ずしも多いとは言えない様です。また、文中に「栽培」という文字が見えるものの、次の段落には「山に自生する」と記述が安定していませんが、「風土記稿」が「山腹」と書いていることや、各史料が「切出し」という言葉を使っていることから考えると、やはり自生している樒を切っていたと考えるべきでしょう。

先ほどの引用文中に伊豆山権現領の名が出て来ますが、元禄15年(1702年)には土肥郷の村々との間に国境論争が起きています。その際に宮下村名主が提出した「山本証文下書」の中に、次の様な一節が見えます。

一御社領山林所々在之候一色之儀ハ格別江戸石屋市兵衛本請方被仰付下請花本市兵衛方より宮上宮下和泉三ヶ所もの共相預り市兵衛方連々切出し積送可申旨名主組頭其外証文判形いたし相渡し置申候然上御山樒切荒し不申様我等中間として吟味可仕御事

(「湯河原町史 第1巻 原始・古代・中世・近世資料編」1984年 279ページより、強調はブログ主)

権現領との国境論争によって、門川の対岸にあった「和泉」の地が権現領ということに定まったため、同地と土肥宮上・宮下の樒の切出しについて宮下村がこれまで一手に取りまとめて江戸に送っていることを、各所からの証文で裏付けて以後の和泉の樒伐出についても維持される様に依頼している訳です。従って、樒の切出しは元禄年間には既に運用が確立していたことになります。宝永元年(1704年)から同7年までの樒運上金の受取状よれば、元年に江戸小判3両、以後年毎に1両2分を受け取ったことが確認出来、なかなかの売り上げであったことがわかります(同資料編281〜283ページ)。この宝永の頃には江戸で樒を扱う者が増え、上記の江戸石屋市兵衛とは別に6軒の江戸問屋と契約を結んだ記録もあり、この頃には引き合いも上々であった様です。なお、土肥郷の村からは直接船に積み込んで江戸まで海上輸送していた様です。この点では丹沢や箱根カルデラ内の村々よりも江戸への輸送面で優位な点があったということでしょう。

しかし、その後は江戸の花屋や問屋衆と土肥郷の村々との間で、販売権を巡って小田原藩を間に入れて度々衝突していた様です。小田原藩も当初は村側の申し入れを勘案して土肥郷の村々の申し出の方を立てていましたが、相次ぐ自然災害への対応などで財政が逼迫していましたから、天明6年(1786年)には江戸問屋が藩に納める運上金の増額を条件に問屋側の世話賃の増額を認め、これによって村々の利益が減ることになりました。ところが、この藩への運上金が額面通りには納められなかった様で、寛政3年(1791年)には早くも江戸問屋の請負が地元両村の請負へと再び切り替えられています。その他、幕末に至るまで、土肥郷の村々以外にも根府川・米神・石橋の3村からも樒が販売されていることを知って土肥郷の独占が脅かされていることを知った村々が藩に調停を申し入れたり、土肥郷の村同士でも取り決めを犯して樒を切っている所を咎めて論争となったりと、樒の切出しの運用には多々トラブルが続いていた様です。

湯河原町史 通史編」はこの一連の事情を史料に沿って紹介した上で、

…江戸問屋との取引は一貫して不安定で、樒売りが必ずしも生産地にとって有力な商品とは言えない状況が見られた。鍛冶屋村友左衛門らの江戸問屋への借金の内容を見ても、村をあげて頼り得る産業であり得たのかどうかは疑問である。しかし当地方と樒売りは断片的な史料では十分に追求できないが、その後も切っても切れない関係が続いたことは事実である。

(同書234ページより)

とこの項を結んでいます。「風土記稿」が「樒」を土肥郷の2村の産物に数え上げたのも、やはり樒を切って江戸と取引し、小田原藩にとっても収入の一端となっていた実情を重視したということなのかも知れません。

なお、「湯河原町史 通史編」には宮上や鍛冶屋の樒畑の写真が掲載されており(226、229ページ)、この写真のキャプションに従えば、現在は自生する樒を切り出す方向から畑で栽培する方向に変えたのでしょう。現在の生産量がどれ程であるかは同書に記載がありませんが、湯河原の樒が現在まで多少なりとも続いているのは確かな様です。




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