相州日向村の山椒:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」の各郡の産物から、今回は大住郡日向村で産していたという「山椒」を取り上げます。

  • 卷之三 山川編:

    ◯山椒大住郡日向村の產、最佳品にて、日向山椒と稱す

  • 卷之四十二 大住郡卷之一:

    ◯山椒 日向村の產最佳品にて、日向山椒と稱し、大山寺師職より、守札を配る時、此山椒を添へて、贈るを例とす、

(以下、「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より)



旧日向村(現:伊勢原市日向)の位置
日向薬師は地図を拡大した時に中程に見える
「宝城坊」の辺り(Googleマップ
日向村は大山の東に位置する村で、同地の「日向薬師」でその名を知られている土地です。「吾妻鏡」には、北条政子の出産の折に源頼朝が神馬を奉納して祈祷を依頼した28社の中に「霊山寺日向」として大山寺の次にその名が記されています。大山寺への参道は1つ南の谷筋を辿りますので日向村は通過しませんが、その麓の町場へ北側から入る道筋が村の東側を通過しており、当然ながら大山との関係の深い地域にあたります。

ここで採れた山椒が大山で御札を配る際に一緒に添えられていたというのですが、「風土記稿」の日向村の項にはこの山椒に関する記載はありません。また、大山の項にも山椒をお守りに添えていることは記されていません(共に卷之五十一 大住郡卷之十)。しかしながら、文政8年(1825年)5月の「日向村明細帳」には

一土地相応致候もの日向山椒御座候

(「伊勢原市史 資料編 近世Ⅰ」758ページより)

と、「日向山椒」の名が挙げられています。

Zanthoxylum piperitum.jpg
サンショウの枝葉と実。
英語では「Japanese pepper」と言う。
"Zanthoxylum piperitum"
by Didier Descouens - Own work.
Licensed under CC BY-SA 3.0
via Wikimedia Commons.
サンショウはミカン科サンショウ属の低木で、日本ではほぼ全国的に分布しています。「丹沢大山動植物目録」(丹沢大山総合調査団編 2007年 平岡環境科学研究所)によれば、

シイ・カシ帯〜ブナ帯の樹林内に普通。刺がないものをアサクラザンショウ form. inerme (Makino) Makino が仏果山で採集されている。

(同書28ページ、「普通」とあるのは普通種であることの意)

とあり、江戸時代の丹沢の山林の中でもサンショウが普通に生えていたのかも知れません。

山中に普通に生えているものであれば、山稼に入山した村人が山椒の木から採集していたのかも知れませんが、比較的栽培は容易な様ですので、畑の隅などに植えたものから収穫していた可能性も否定は出来ません。しかし、日向村に伝わる数点の年貢皆済証文などの文書(「伊勢原市史 資料編 近世Ⅰ」所収)では「山椒」の名を見ることはありません。大規模に栽培していれば恐らく単体で年貢の対象となったのではないかと思われるので、恐らくは大半が採集によるものだったのではないか、と個人的には考えています。

他方、大山の宗教的行為で山椒が用いられていることを示す史料を「伊勢原市史」の中で探してみました。「伊勢原市史」には「資料編 大山」及び「資料編 続大山」と題した2冊に大山の信仰に関連する文書がまとめられており、更に「別編 社寺」の1冊に大山に関する通史が収録され、全体としてはかなりのページ数を大山の信仰の歴史の記述に割いています。これでも関連する文書の全てを収録出来た訳ではないとのことですが、こうした史料の中に大山御師が檀廻に際して仕入れたものの覚書があり、その中に「山椒」「山椒袋」といった記述が時折登場します。
  • 天保八年(1837年)四月 歳中檀札並仕入物控帳(御師 村山八大夫):

    江戸檀廻諸入用控

    一、奉書札     拾九枚

    一、山椒袋     弐百九十八枚

              〃 〃〃〃

              三   弐

    但、西之内弐ツ切

    一、山 椒     壱斗

    壱斗ニ付四百文位

  • 天保十五年(1844年)三月 諸札仕入控 村山八大夫:

    江戸葛西入用

    一、山椒袋     三百二枚

(「伊勢原市史 資料編 続大山」254、255、273ページより、…は中略、「〃」は表記に従って写したが恐らくは数値を訂正しているものと思われる)


文量が多いので3箇所ほどの引用に留めましたが、この御師は1回あたり150〜300枚程度の「山椒袋」を求め、それに収める山椒は1回に1斗ずつ仕入れていたことが窺えます。後者の天保15年の記録では、年間に求めた山椒は「6升斗」ほどになっていた様です。

江戸時代の大山御師は檀家を所持して大山寺への供物の取次を行う存在でした。大山寺はじめとする古義真言宗寺院では徳川家康の出した法度(「関東真言宗古義諸家中法度之事」)によって、本尊への供物取次が清僧に限定されていたため、こうした清僧と檀家の間を取り持つ御師が次第に形成されていく様になります。その御師が自分の所有する檀家を直接、あるいは間接的に訪れることを「檀廻」と言います。上の記録はその檀廻に際して必要となるものを、恐らくは備忘のために記したものですね。

但し、これらの記録には必要となったものを何処から仕入れたのかの記述がありません。そのため、この「山椒」が果たして日向村からのものか、それとも他の地域からのものかは、この文書だけでは判断が出来ません。全てを大山山麓の御師の家で揃えた上で檀廻に出発したのであれば、その山椒は隣村である日向村から取り寄せた可能性が高まりますが、江戸まで遥々大量の物資を抱えて檀廻に向かったとなると相当な荷物を抱えていたことになるので、場合によっては檀家の近くで都度買い足したものもあるかも知れません。

File:Pilgrims at the Roben waterfall, Oyama.jpg - Wikimedia Commons
歌川国芳「大山石尊良辧瀧之図」(Wikipediaより)
大山への参拝客が水行の場に群がる様子が描かれている
そもそも、小野蘭山の「本草綱目啓蒙」では山椒の産地については「京師ニテハ鞍馬山ヲ上品トス諸州ニ皆名産アリ(巻之二十八:「秦椒」)」と、京の鞍馬山を一応の名産地として挙げながらも全国何処でも生産していたことを記しています。日本どこでも生えている様な木ですから入手も容易だったのでしょう。日向村も自生しているものからの採取だけに留まっていたのであれば、あるいは必要量が充分賄えていなかったかも知れません。何しろ、大山御師は文政7年(1824年)の文書を集計すると244人を数え(「伊勢原市史 別編 社寺」470ページ)、関東地方に約百万軒を組織したとされる(同512ページ)大きな講中に対して、こうした活動で諸々入用になる品々を揃えようというのですから、1村の生産量だけで全てを賄おうという方が無理だったかも知れません。実際には上記の控帳に記された「山椒袋」は「江戸并葛西」「梅沢、大月、前川、酒匂」(東海道筋か)、「上総」といった海沿いを廻っている時に仕入れていて、八王子などの内陸では記されていない傾向があるので、山椒も必ずしも全ての檀家に対して配布していたのではないのかも知れませんが、それでも全体としてはかなりの量を必要としていたことは確かでしょう。

山椒は香辛料としてだけではなく、その薬効があったことが「本朝食鑑」などにも記されており、他方で大山不動の各種祈祷の中でも現世利益として最も多かったのは「治病」ですから、山椒がお守りに添えられていたのもこうした薬効に肖ってのことなのでしょう。「伊勢原市史」編纂に携わった圭室文雄氏も、「有鄰」での対談

お札配りもありますが、大山信仰が強かったのは薬だと思います。山椒の粉なども早い時期から使っています。御師のうちの記録には薬の製法がかなり残っていますし、呪文も残っています。両方やるんですから、かなり治癒したと思います。

(上記サイトより引用、強調はブログ主)

と指摘されています。

日向村の山椒が採集によっていた可能性の方が高そうで収量がそれ程多かったとは思えないことと、大山が檀家向けに必要としたであろう山椒の量を考え合わせると、「日向山椒」はほぼ全量が大山向けであった可能性がかなり高そうです。香辛料用途で大山以外に流通する分は殆どなかったのではないかと思われます。他方、大山には山椒だけではなく、意外なほどに大量の物資がこうした祈祷活動のために出入りしていたことがわかります。「風土記稿」では伊勢原村から大山に向けての継立が営まれていたことが
  • 伊勢原村(卷之四十六 村里部 大住郡卷之五):

    往還四條三條は大山道にて、其一は東海道の内、四ッ谷村より入る、一は大磯平塚邊よりの道、一は下糟屋村より來る、此三路は東南の方にて合し、一條となる、幅三間餘、一は金目觀音道なり、幅一丈、係れり、民戸百六、往還の兩側に連住し、時用の物を鬻ぎ或は旅店をなす、每年大山祭禮の頃は殊に賑へり、當村人馬の繼立をなす乾の方、上子安村へ一里、巽の方田村へ二里、艮の方愛甲郡愛甲村へ一里餘、西の方善波村へ一里餘繼送る、御鷹匠通行の時は田中・沼目・上下平間・大竹・下糟屋等の村々より人夫を出して是を助く、

  • 上子安村(卷之五十 村里部 大住郡卷之九):

    民家七十一大山道の左右に連住し、石尊祭禮の時は參詣の者の旅宿をなす、…小田原道幅九尺、大山道幅二間、の二條係れり、大山道は人馬の繼立をなす東は伊勢原村、西は大山へ繼送る共に一里、

  • 下子安村(卷之五十 村里部 大住郡卷之九):

    民家五十一大山道に住して旅店をなす、當村も大山道の人馬繼立をなす事、上村に同、

この様に記されていますが、こうした継立が必要だった理由も、御師が書き残した一覧を見ていると納得出来る気がします。

その後の「日向山椒」についても確認してみましたが、「伊勢原市史 資料編 近現代Ⅰ」に収録されている「皇国地誌残稿」(年代の記載ないが明治時代初期)にも、明治末に編まれた「高部屋村誌」(明治22年に上粕屋村・西富岡村と日向村が合併して成立)で挙げられている農産物にも、「山椒」の名前は出て来ません。結局「日向山椒」と大山寺の繋がりは、「風土記稿」の大住郡図説に唯一記されているのみで、この村と大山信仰との接点を示す由緒の1つに留まっているということになりそうです。ただ、現在も同地で採集された山椒を使って佃煮などにして販売している土産物店が大山の麓にある様ですので、あるいはこうした土産物に僅かながら接点は残っていると言えるのかも知れません。



追記(2016/01/28):Googleマップを貼り直しました。

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