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波多野煙草:「新編相模国風土記稿」から

「新編相模国風土記稿」の各郡の産物「山川編」の産物、鉱物類はひと通り紹介し終えましたので、今回からは農産物が中心となります。比較的紹介しやすい方から、今回は「秦野の煙草」を取り上げます。


  • 山川編(卷之三)物產:

    煙草大住郡波多野庄村々の產を波多野煙草と稱して佳品なり、足柄上郡八澤・菖蒲・柳川・虫澤・境・境別所・杤窪・松田總領・同庶子等の九村に產するをも、波多野煙草の佳稱を負せr,其内松田二所の產は松田煙草とも云ふ、

  • 足柄上郡図説(卷之十二 足柄上郡卷之一):

    ◯烟艸 松田惣領・松田庶子・八澤・菖蒲・柳川・虫澤・境・境別所・栃窪等九村の產とす、尤松田惣領にては松田烟草と稱し、菖蒲村にては波多野烟草と稱して、殊に佳とす、

  • 大住郡図説(卷之四十二 大住郡卷之一):

    ◯煙草波多野庄村々の產を、波多野煙草と稱し、佳品なり、足柄上郡松田邊の產をも、波多野煙草の佳稱を負せり、

(以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、地名の漢字表記の差異は原則同書ママとしているが、「朽」(くち-る)については鳥跡蟹行社版で「杤」(「栃」の異体字)であることを確認したため、雄山閣版の誤植と判断して置き換え)


各村の記述を拾うと以下の通りとなっています。足柄上郡の図説では具体的に9つの村名が掲げられていますが、それらのうち、境村、境別所村、栃窪村、松田惣領、虫澤の5村では煙草の栽培に関する記述はありません。大住郡図説では「波多野庄村々」とされていますが、「今所唱合庄」の記述では「蓑毛村以下二十三村」とあります。しかし、この23村の記述の中では煙草に関して記しているものはありませんでした。生産する村が多いために図説で触れるに留めたのでしょうか。現存する同地の「地誌取調書上帳」(「風土記稿」編纂に当って各村から提出されたもの)の中では渋沢、横野、菩提、羽根、寺山、菖蒲の6ヶ村に煙草栽培に関する記述が見られます。
  • 松田庶子(卷之十五 足柄上郡卷之四):

    農間煙草を作れり、松田煙草と稱す、

  • 八澤村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    烟草を作り、又柿樹土地に應ずるを以て多く植え、其實を鬻けり、

  • 菖蒲村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    農間には烟草を作れり、土地に應じて上品なり、是を波多野烟草と稱す、

  • 柳川村(卷之十七 足柄上郡卷之六):

    農隙には煙草を作れり、



秦野盆地付近の地形図及び色別標高図
地理院地図より)
足柄上郡・大住郡の煙草栽培関連図
足柄上郡・大住郡の煙草栽培関連図
Googleマップ上でプロット後加工)
これらの村をGoogleマップ上でプロットすると、右の様にほぼ秦野盆地とその周辺に固まっているのがわかります。松田惣領・庶子は秦野盆地とは山を隔てて西隣ということになりますが、地質的に良く似た土地で生産が行われていたということでしょうか。

秦野の煙草は昭和59年(1984年)年、つまり今から丁度30年前まで生産が行われていました。その様なこともあり、「秦野市史」には「別巻 たばこ」という1冊が独立して編集されています。刊行は昭和59年、丁度煙草の生産の終了した年に当たっていますが、1100ページ近い大冊となっており、同市での煙草の歴史を俯瞰できる内容になっています。但し、その内容の大半は近代以降の史料が占めており、近世の記述はごく限られています。以下の記述は基本的にこの「秦野市史 別巻 たばこ」に従います。

Nicotiana tabacum Blanco1.36-cropped.jpg
タバコの標本図
("Nicotiana tabacum Blanco1.36-cropped"
by Francisco Manuel Blanco (O.S.A.)
- Flora de Filipinas [...]
Gran edicion [...] [Atlas I]. [1].
Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)
タバコが日本に持ち込まれたのは戦国時代の南蛮船によるものとされることが多いのですが、日本国内での栽培は慶長10年(1605年)に長崎・桜の馬場、または東土山に植えられたものをその最初とするのが現在の定説となっている様です。従って、秦野での煙草生産の開始もそれ以降ということになりますが、最初に記録に現れるのは寛文6年(1666年)の渋沢村の年貢皆済証文で、毎年煙草50斤が年貢として上納されていたことが記されています。秦野での生産の開始はこの約60年間の何処かということになるのですが、その時期を具体的に特定出来る史料は今のところ見つかっていないとのことです。一説では慶長年間に早くも秦野での煙草栽培が始められたとする言い伝えもあり、それを採用した文献もある様ですが、「秦野市史 別巻 たばこ」ではそれらの文献を検討して根拠が乏しいものとしています。ただ、こうした新規の産物を産出量が乏しかったり安定しなかったりするうちからいきなり年貢として召し上げることはあまり考え難いので、寛文6年時点ではある程度栽培方法が同地で定着していたと見て良さそうです。

もっとも、秦野での煙草生産が本格化するのは江戸時代後期に入ってからということになる様です。秦野で煙草商人の「仲間」が結成されたのが天明6年(1786年)、同年の「菩提村行事 波多野たばこ商人仲間取極議定書」という文書は

近年波多野(たばこ)商人大勢ニ相成候依之今度寄合仲間相究申候

(「秦野市史 別巻 たばこ」187ページより、ルビはブログ主)

と同地の煙草商人が増えてきたことを「仲間」結成の理由に挙げています。しかし、この頃はまだ1反当たりの収量が高くなく、粗放的であったことが村明細帳に現れる反当たりに植え付ける煙草の苗の数(明治時代の反当たり4200本に対し、当時は2500本と約6割)に現れています。幕末にかけて栽培技術の改良に成功して1反当たりの収量を上げる農家もあった様ですが、基本的にはその状態が明治時代に入るまで続いた様です。

因みに、タバコは連作障害があることが知られていますが、幕末から明治初期にかけて菖蒲村の府川家が毎年作付けた作物の覚書(「秦野市史 別巻 たばこ」190〜198ページ)によれば、タバコの作付は同じ畑に対しては最低でも2年以上間を空けており、大麦・小麦・粟・大豆・芋などとの輪作によって連作障害を回避していたことが窺えます。

「風土記稿」ではこの秦野の煙草を「佳品」と評している訳ですが、同時期の「波多野煙草」の評価について、「秦野市史 別巻 たばこ」では次の様に記しています。

以上みてきたように、秦野は、ほぼ天保期に、江戸と結ばれた地方的な煙草産地を形成するにいたった。ただし、それは、「波多野煙草」という銘称で呼ばれるようになったものの、薩摩の国分葉や水府葉などと比肩する全国的銘柄となったのではない。「波多野煙草」は、江戸市場では、国分葉の調和材として用いられ、あるいは、八王子のような近くの地方都市にむけられるといった存在であった。相模煙草(秦野煙草)が、「殊ニ江戸吉原遊里デ」「賞揚」された(史料一―三)という話も、「遊女達ガ終夜之ヲ喫用シテ風味和カニシテ喉ニサハラヌ」という調和材としての特色の故にであり、この話をあまり誇大に評価はできないであろう。

げんに、全国的に著名な煙草産地を挙げている近世期の諸書には、天保期にいたるまで、秦野(ないしは相模国)の名はみられない。『毛吹草』(松江重頼、一六三八年)はもとより、東国の産地が登場する『本朝食鑑』(平野必大、一六九二年)・『和漢三才図会』(寺島良安、一七一二年)も、水戸、甲州、信州、上州高崎をあげるにとどまり、降って、『烟草百首』(橘薫、一八二〇年)は、常州野州を「遙後年の産地なり」とし、右のほかさらに多くの関東煙草産地を列挙しているが、ここにも秦野(ないしは相模国)の名はみられない。ようやく『煙草諸国名産』(三河屋弥平次、一八四六年)にいたって、「相州、秦野、渋沢、松田、中品也」とその名があらわれるにいたっている。まさに、この時期が、前述秦野煙草が江戸市場と結びついた頃にあたっているのである。


この評価に従うと、秦野の煙草が江戸で大量に出回って相応の評価を得るようになったのは幕末になってから、ということになります。それまでは江戸よりもむしろ八王子や東海道筋の宿場で主に販売されていたのでしょうか。

そう考えると、秦野から江戸まで煙草を運び込むことになったのも、それほど古い話ではなかったのかも知れません。この秦野盆地の南側には矢倉沢往還が通っており、この道筋で厚木を経て江戸・青山まで行くことが出来るのですが、これに対して、中原街道の継立村であった小杉村と佐江戸村が、秦野の煙草商人に向けて継立の用命を依頼した安政3年(1856年)の文書が残されています。

当往還筋御用荷物商人衆中荷物之儀者、寛文十一亥年中御証文有之振合を以仕来り、然処猶又去天保十四年中関東御取締 御出役様方 在中村々酒食商ひ等不相成趣被仰渡候処、当往還筋継場四ヶ宿之儀者右寛文度之訳柄申立商ひ向仕来り候様御聞届ニ相成候儀者、[己十]竟御用者勿論、商人荷物継場駅之儀ゆへ、已来上下荷物大切ニ仕、外荷物差略致置、往還荷物差支無之様急度申合可仕趣、夘年中一札も差出置候、就者、今般山方商人衆中荷物当往還多御差出方各々方御登り被成候ニ付、当馬持共申合御差支者勿論、荷物紛散無之様心附、万々一不埓之儀有之候ハヽ、左之もの共一同ニ相弁、荷主中御難渋不相掛様急度可仕候、依之一統連印差出置候、以上、

安政三丙辰年四月

(連判省略)

小杉駅

問屋久右衛門殿

同 伊  助殿

右之通其継駅馬士中ゟ取極一札差出候ニ付、当駅場人馬之者厳重ニ可申聞、若不筋之取計も有之候ハヽ、我等引受荷主中方御苦難相掛申間敷候、依之附添一札差出申候、以上、

佐江戸駅

問屋長左衛門(印)

前書之通当駅場佐江戸駅間屋一同取極仕候上者、当往還筋是迄ヨリ茂御出(精)荷物御差出可被下候、尤荷物之儀ニ付、何様之儀有之候とも、前文之趣を以引受、聊御苦労相掛申間敷侯、依之奥書仕置申候、以上、

安政三辰年四月

武州橘樹郡

小杉駅

問屋伊  助(印)

同 久右衛門(印)

相州((秦))

姻草

御荷主衆中

(「江戸周辺の街道―特に中原街道を中心に―」山本 光正著、「史誌-大田区史研究-」第29号 1988年所収より、字母を拾えなかった漢字についてはその旁を[ ]内に示す)


中原街道のルート
この文書だけでは、荷主との間に何かトラブルを抱えたのかどうかはわかりませんが、ともあれ中原街道筋の村々から連判を取り付けて「荷物の安全はこの通り絶対に保証しますから何卒御用命を賜りたく」ということを(したた)めて秦野の煙草商人に送ったものと思われます。この中原街道経由の継立では矢倉沢往還経由よりも若干運賃が安く上がるので、その点を踏まえて大口の顧客になってきた、あるいはそうなりそうな秦野の煙草の継立を誘致しようとしていたのかも知れません。波多野煙草が江戸で中級品の評価であったということは、価格競争力という点では若干苦戦を強いられるということでもありますから、その点ではこの中原街道経由の継立は波多野煙草の商人にはコスト削減に繋がるメリットがあった筈ですが、この結果実際の運搬が中原街道経由になったのかどうかについては、記録が残っていないので定かではありません。


近年は日本国内の喫煙率自体が低下したこともあり、タバコの生産全体が縮小してきていますが、それより一足先に秦野の煙草生産が終了した理由について、「秦野市史 別巻 たばこ」では「農業地帯であった秦野が工業、住宅地と生まれ変わった結果です。(同書「発刊のことば」より)」としています。しかし、それから30年経った今でも、秦野市では「本市発展の礎となった「たばこ耕作」に携わった先人たちの情熱を「火」にたとえ、(秦野たばこ祭公式サイトより)」毎年秋に「秦野たばこ祭」が催されています。

追記(2014/09/23):「風土記稿」の引用に一部手を入れました。
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