相州宮城野村:足柄上郡か足柄下郡か?

先日「箱根湯治場道見取絵図」について取り上げました。その際に紹介した「温泉の原風景:論集【温泉学Ⅲ】」(日本温泉文化研究会編 2013年 岩田書院)の上ではグレースケールで縮小印刷されているため、細部までの確認は難しいと書きましたが、図中で村名を記した箇所は比較的文字が大きいため、この縮小版でも充分に記述を判読出来ます。

その、図中に記された各村の名前を辿っていて、えっ?と思ったのが宮城野村の箇所です。
箱根湯治場道見取絵図より足柄下郡宮城野村
「箱根湯治場道見取絵図」宮城野村付近(「温泉の原風景:論集【温泉学Ⅲ】」46ページ)


現在の箱根町宮城野の範囲
江戸時代の宮城野村の範囲にはこの他
箱根町木賀の地域が含まれていたと思われる
御覧の通り、「相州足柄下郡/宮城野村/仙石原三十一町」と記されています。しかし、「新編相模国風土記稿」では宮城野村は一貫して「足柄上郡」の属ということになっていました。私もこの「風土記稿」の記述が強く頭にあったため、「見取絵図」のこの記述には混乱してしまいました。実は最初にこの記述に気付いたのが翻刻図の方だったため、翻刻のミスを疑ってしまった位です。幸い翻刻のない縮小図の方でこの部分を読み取ることが出来たため、原図に「足柄下郡」と記されているのを確認出来たのですが。

「新編相模国風土記稿」足柄上郡正保改定図より
「新編相模国風土記稿」足柄上郡卷之一
正保改定図より
「新編相模国風土記稿」足柄上郡元禄改定図より
「新編相模国風土記稿」足柄上郡卷之一
元禄改定図より
「新編相模国風土記稿」足柄上郡今考定図より
「新編相模国風土記稿」足柄上郡卷之一
今考定図より(絵図引用何れも雄山閣版より)
「新編相模国風土記稿」では、一貫して宮城野村が足柄上郡に属していることを前提に記述が組み立てられています。また、ここに掲げた通り図説に掲げられた足柄上郡の3種類の絵図でも、宮城野村は一貫して足柄上郡側に描かれています。これらの絵図のうち、「正保改定図」「元禄改定図」はどちらもその頃に作成された国図を写したものである旨、「風土記稿」の首巻・凡例に記されています(「今考定図」はこれらに対して「風土記稿」作成時点の状況を独自に描き起こしたものです)。この2つの絵図は何れも明治時代以降に火災で大半が失われており、相模国の絵図は原図を確認することは出来なくなっていますが、「元禄改定図」の方は現在まで辛うじて残った分が「国立公文書館デジタルアーカイブ」で公開されており、これらの絵図では何れも各国内の村々が郡毎に色分けされて網羅的に記されています。従って、「風土記稿」に転載された相模国絵図でも同様の記載がなされていた可能性が高く、これらの絵図では元から宮城野村の所属を「足柄上郡」と記していたと看做す方が自然ということになります。

「天保国絵図」相模国より宮城野村付近
「天保国絵図」相模国より宮城野村付近
(「国立公文書館デジタルアーカイブ」より)
この「国立公文書館デジタルアーカイブ」では、天保6〜9年(1835〜1838年)に作成された「天保国絵図」も全て公開されています。そこで、この「天保国絵図」に収められた相模国の絵図を確認すると、底倉村が足柄下郡を示すオレンジ色の楕円で示されているのに対して宮城野村は足柄上郡を示す白色の楕円で示され、その間に郡境を示す黒い線が引かれています。赤い線は「箱根湯治場道見取絵図」にも描かれた湯治場道で、これを辿ると関所を経て仙石原村に辿り着きますが、この仙石原村もやはり白色の楕円で描かれています。従って、「新編相模国風土記稿」に写し取られた2種類の国絵図が恐らくそうであった様に、「天保国絵図」時点でもやはり幕府の認識は「宮城野村は足柄上郡の属」であったことになります。一時的にせよ同村が足柄下郡の属になったという認識は、少なくとも幕府側にはなかったでしょう。

しかし、そもそも箱根の外輪山の尾根を境にカルデラの北部に位置するこの2つの村が足柄上郡に所属しているというのは、カルデラ内の他の村々が何れも足柄下郡に所属している点を考えると些か不自然なことではあります。ここまで掲げた絵図でも、宮城野村や仙石原村から直接足柄上郡の各村へ向かう道筋は描かれておらず、「箱根湯治場道見取絵図」に描かれた道筋以外にこれらの村にアクセスできる主要な道がありません。しかも、以前見た様に、「風土記稿」の仙石原村の項に

當村及び宮城野村は、共に(注:足柄上)郡中に在りと雖、諸事足柄下郡箱根の諸村と伍をなせり、是路次の便宜に因れるなり又歳旦門戸に樒を立て松に代ふ、是も彼地の風俗波及せしならん、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十、雄山閣版より)

と記される通り、地理面同様同地の風習面でも足柄下郡の各村と共通項が多かったというのですから、何故この2村が足柄上郡に所属していたとされていたのか、少なからず疑問の湧く点ではあります。


なお、「角川地名大辞典 14 神奈川県」(1984年 角川書店)の「〔近世〕宮城野村」の項では「足柄下郡のうち」(850ページ)と記していますが、これは上記の一連の史料を見る限り正しくないとせざるを得ないでしょう。

箱根湯治場道見取絵図より足柄上郡仙石原村
「箱根湯治場道見取絵図」仙石原村付近
(「温泉の原風景:論集【温泉学Ⅲ】」49ページ)
因みに、湯治場道に描かれた木戸門2つの間が
仙石原関所
そうした中で、宮城野村を足柄下郡の属とする江戸幕府の道中奉行の手による絵図が存在したことになります。因みに「箱根湯治場道見取絵図」でも仙石原村については「足柄上郡」と記しており、この絵図では箱根カルデラ内の村のうち唯一仙石原村だけが足柄上郡に所属していたことになります。道中奉行が「箱根湯治場道見取絵図」を作成したのは他の「五海道其外分間見取延絵図」同様寛政12年〜文化3年(1800〜1806年)頃と思われますが、その頃にはまだ「天保国絵図」はなく、「新編相模国風土記稿」も成立する前(天保12年・1841年成立)でした。従って当時の幕府にはやや内容の古くなった「元禄国絵図」がその時点で参照できる最新の絵図だったことになりますが、こうした描写の齟齬からは、少なくとも「箱根湯治場道見取絵図」の作成に際して国絵図で各村の所在を確認するという作業は行われなかったことになるでしょう。あるいは「五海道其外分間見取延絵図」の他の絵図でも、国絵図に当って測量調査などで得られた情報を精査するといった作業をしなかったのではないか、という可能性もあると思われます。「天保国絵図」が作成されたのは元禄以降の調査が行われていないために情報が古くなってしまったからですが、「五海道其外分間見取延絵図」の作成でも、同様に元禄の絵図では情報が古過ぎることを嫌って敢えて見なかったのでしょうか。

となると、「箱根湯治場道見取絵図」の宮城野村の「足柄下郡」の表記は単なる書き損じであったと断じることも出来ますが、その作成にあたって、道中奉行所が宮城野村に調査に入った際に、何らかの形で宮城野村を「足柄下郡の属」とする情報があったということも考えられます。

「七湯の枝折」より箱根七湯全図
「七湯の枝折」より「箱根七湯全図」
(「箱根七湯の枝折」沢田秀三郎釈注
箱根町教育委員会より引用)
その点を考える上で気になる記述が、以前も紹介した「七湯の枝折」に見えます。その第1巻に掲げられた箱根の七湯の全図に「大日本相模國筥根山足柄郷早川庄七湯全図」と画題を掲げています。しかし、厳密には箱根七湯のうち木賀の温泉は宮城野村に属しており、上記に掲げた国絵図でも木賀の地名が宮城野村の傍らに添えられて足柄上郡側に描かれています。従って、木賀の温泉は早川庄ではなく苅野庄の属ということになりますから、「七湯の枝折」のこの絵図の画題は正確ではないことになります。もっとも、その辺りの違いを逐一画題にまで反映するのは煩雑に過ぎるために、画題では敢えてその点を省略したのかも知れません。ただ、「箱根七湯」のうち6つまでが足柄下郡に属する中で、同じ括りに入っている木賀の温泉場が一層足柄下郡側の各温泉と「同じ側」にいるという意識が深く、自身の領域が隣の郡や庄であるという意識が希薄になっていたとしてもおかしくはありません。なお、「七湯の枝折」中で木賀温泉を取り上げている第7巻では、郡・庄・郷何れの名称も記述に見えません。


「七湯の枝折」自体は文化11年(1811年)成立で「五海道其外分間見取延絵図」の作成よりは後ですから、その測量に際してこの絵図を見た可能性はありません。しかし、木賀温泉が箱根七湯のひとつとして足柄下郡内の他の温泉宿との関係が特に深かったことを考えると、あるいは木賀を含む宮城野村の属を「箱根七湯の内」という観点から誤って同一視してしまう様な情報が、「見取絵図」制作の途上で紛れ込んでしまったのかも知れません。

可能であればかつての宮城野村域内、特に木賀温泉の域内に残る江戸時代の石碑などに、宮城野村の村名がどの様に表現されているかを確認できれば良いのですが、生憎と今回はそこまで出来ませんでした。いつかこの地を訪れる機会があればまた確認してみたいと思います。

さて、時代が下って明治4年(1871年)末に足柄県が発足した頃には、まだ江戸時代の区割りがそのまま引き継がれていた様で、足柄県の神奈川県への引き継ぎ資料の中に含まれている文書中に

足柄上郡宮城野村

戸長

宮原新太郎

其方儀足柄上郡宮城野村地内木賀ヨリ同下郡底倉村迄ノ通路従来険悪人馬往来難渋不少ニ付新路付替ノ儀ヲ創意シ右費用ノ内ヘ金拾円差出速ニ落成為致候段奇特之事ニ付為其賞木盃壱個下賜候事

明治八年一月

(「神奈川県史料 第九巻神奈川県立図書館編 1973年 211ページより、強調はブログ主)

の様に、宮城野村は足柄上郡の属と記しているものが幾つか見当たります。もっとも、明治初期には色々と混乱があったようです。次の文書は同じく足柄県の神奈川県への引き継ぎ資料の中にあった、各村で発生した道路の修繕費を国に補助を求めるべく提出されたものですが、

道路開拓ニ付其費用助成イタシ候モノ御届ケアリ

足柄上郡宮城野村

一金拾円           宮原新太郎

一金三円           勝股寿平治

底倉村

湯本村

小田原宿

明治七年九月       足柄県令柏木忠俊

(上記同書172ページより、…は中略、強調はブログ主)

つまり、宮城野村を「足柄上郡」と書き入れたまでは良かったのですが、次の底倉村は「同下郡」または「足柄下郡」とすべきところ、誤って単に「同」としてしまったために、この書面に掲載された他の村も全部足柄上郡の所属ということになってしまった訳です。上記引用では省略しましたが、小田原宿の後にも仙石原村を含む箱根山中の村々からの請求金額が記されているところ、何れも「同」で受けてしまっているので、恐らくはこの書類を起草した人が足柄上郡・下郡の別について書き分ける必要がある点を失念していたのではないかと思います。

その後明治11年(1878年)には「郡区町村編成法」が施行され、足柄上郡役所が関本に設置されますが(明治13年に松田惣領に移転)、その時点では宮城野村、仙石原村はまだ足柄上郡に属していました(「神奈川県町村合併誌」1958年 30ページ)。しかし、6年後の明治17年に従来の戸長役場が廃止されて戸長所轄区域を定めた時には、両村は足柄下郡底倉村の戸長役場の配下に大平台村とともに入っており(同書75ページ)、この頃には足柄下郡に所属が移っていたことになります。「神奈川県史料」でこの2村が何時足柄下郡に移ったのか、具体的な書類が載っていないかをひと通り確認したものの、今回は見つけることが出来ませんでした。しかしながら、明治13年に仙石原村に開設された牧場に関する文書では、

明治十三年五月相模国足柄下郡仙石原村ニ牧場ヲ開設ス抑該地ハ元同村人民ノ共有秣場ト元箱根村人民ノ共有萱野ニシテ総反別七百四拾三町二反二畝余歩アリ明治十二年十一月本県勧業資金ヲ以テ之ヲ買上牧場トナセリ仍テ地種組替ノ儀ニ付同十三年一月内務省へ伺テ曰ク(以下略)

(「神奈川県史料 第二巻」神奈川県立図書館編 1965年 106ページより、強調はブログ主)

と、この時点では既に仙石原村が足柄下郡の所属とされています。恐らくは、郡役所が具体的に設置されることになってみると、箱根の外輪山の向こうにある足柄上郡の郡役所まで行くよりは、小田原に設置された足柄下郡の郡役所へ行く方が遥かに便が良くなってしまい、今更昔からの郡域の縛りに拘る理由も見当たらなくなってしまったために、早々に所属を替えてしまったのだろうと思います。この辺りを具体的に明らかにする史料についても、今後機会があればまた調べてみたいと思います。



追記(2015/04/27):Googleマップで空中写真の表示では、町域の表示が出なくなって久しいので、諦めて地図表示のものに切り替えました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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