【旧東海道】その3 川崎付近の地形と道筋、そして川崎大師

「その2」の六郷橋の話は前々回の記事でひとまず終了なのですが、今回もう1回、川崎周辺の話を続けます。

かつての川崎宿の中を歩いていると、この道がごく僅かながら、周辺よりも高くなった場所を進んでいることに気付きます。これを写真や動画に収めるとなると、なかなかこれだとわかる様に撮るのが難しいのですが、やはり建物の裾に注目するのが一番わかりやすいですね。

砂子交差点の駐車場入口
…わざわざこれを写真ではなく動画に撮ってきたのを出来栄えを見て後悔しているのですが、これは旧街道と直交する市役所通りの交差点から、地下駐車場の入口を見たものです。動画は最初川崎駅側を向いていますが、左へ振ると大師方面に向き直り、そこに地下駐車場の入口が設けられています。この側面のタイルは水平に貼られていますので、入口側が街道筋より若干低くなっていることがわかります。タイルの数と高さから考えると50cm程度でしょうか。その先でも市役所通りがダラ下がりになっていますので、実際はもう少し高低差があることになります。

佐藤本陣隣のビル
佐藤本陣隣のビル
また、左の写真のビルは現在「りそな銀行」が入っている建物で、この隣がかつて佐藤本陣があった場所に当たります。旧街道筋から離れた場所から街道に向かって撮っているのですが、70~80cmほど街道側が高くなっています。

元々一帯は多摩川が河口付近に作った三角州が発達した土地ですから平坦度が高く、川が氾濫した時に少しでも水に浸かるのを避けるために、自然が創りだした微高地を住居や街道に使う傾向があるのは何処でも一緒なのですが、この現在の河道に対して直交する方向に伸びた微高地は何なのだろう?ということが前から気になっていました。

多摩川付近の旧河道と自然堤防分布
多摩川付近の旧河道と自然堤防分布
(「大いなる神奈川の地盤」より)
多摩川の河口付近の地形について何か明らかにしてくれるものがないか探したところ、「大いなる神奈川の地盤」(地盤工学会関東支部神奈川県グループ編)という本の中に、これを上手く図式化したものを見つけました。この図に地名を書き込んだものを引用します。

そして、「地理院地図」上で「土地条件図」を表示し、そこにこの付近の東海道の道筋を描き込んだものを作成しました。

川崎宿付近の地形・地質
(「地理院地図」上で作図したものをスクリーンキャプチャ、「数値地図25000(土地条件)」を合成)

如何でしょうか。街道筋が上手い具合に自然堤防や砂州の上に乗っているのが良く分かるのではないでしょうか。川崎宿の辺りは砂州になっていて、その西北側に多摩川の旧流路が大きく馬蹄形に飛び出してきているのがわかります。そう言えば、先ほどの地下駐車場の写真を撮った交差点の名前は「砂子(いさご)」でした。砂州の上に出来た地形に由来する地名なのかも知れません。また、「迅速測図」では川崎宿の西側に川が流れていて、その周辺に水田が広がっている点も、ここが多摩川の旧流路であったという点と上手く合います。この水田は江戸時代後期の絵図では池の様に描かれているものもあります(享和2年「川崎宿絵図」など)。


(「今昔マップ on the web」より、地図の不透明度を100%に切り替えると、現在の地形図に切り替わる)

また、六郷の辺りでは現在の多摩川の流路に沿う方向で自然堤防が伸びています。六郷神社が乗っているのもこの自然堤防の上で、旧東海道が制定された当初はこの六郷神社への参道を通っていたというのも、この自然堤防上に発達した集落を通過する方向に向かったからなのかも知れません。家光の代に街道を直道化した時には、この自然堤防ではなくその西隣の砂州の上を通していることもわかります。大森から六郷まで、現在は国道15号の直道がここを貫いているので地形がわかりにくくなっていますが、ここも自然堤防を巧みに繋いで道が作られたことが見えてきますし、鶴見や生麦の辺りも旧街道筋に砂州が伸びていますね。

他方、大師河原の一帯にも自然堤防が複雑な形で残っており、この辺りはあまりはっきりした旧河道が残っていない様ですが、自然堤防の形状から考えて河道の変遷は激しかったのだろうと思われます。川崎大師が乗っているのもこの自然堤防の上で、江戸時代の大師道もこの自然堤防を伝う形で走っていました。その点では明治時代になって通した新道(現在の国道409号線)は自然堤防を外れて低湿地の中を突っ切る形で引かれており、こちらは開通後しばしば水に浸かったという記録が残っていますが、その理由もこの図を見ているとわかる気がします。

ところで、前回の記事の続きになりますが、この一帯の梨をはじめとする果樹の生産について、「多摩川誌」では次の様にまとめられています。

多摩川梨は1650年代に川崎大師河原で栽培されたという説もあるが,栽培が盛んになったのは寛政年間(1789~1801)からである.安政3年(1856)の大地震による津波で壊滅したが,1893年(明治26)に大師河原村(現川崎市出来野)当麻長十郎の梨園で優良品種が発見され,これを長十郎と命名した(参4).


明治時代以降は多摩川梨は東京を中心とした消費地への出荷がメインになりますが、江戸時代には専ら大師参拝客や東海道を行き交う旅人への販売が主だった様です。栽培が盛んになった寛政年間は、ちょうど川崎大師に徳川家斉が参拝して世間の評判が高まり、外部からの参拝客が増えてくる頃と一致します。当時桃よりも梨の方が作付面積が多かったのは、恐らく道行く人の喉を潤すには水気の多い梨の方が好まれたからではないかと思います。

こうした果樹園が多摩川の河川敷に集中しているのは、今の感覚ではちょっとピンと来ませんが、江戸時代は年貢の基準となる田畑の方に条件の良い土地が当てられている一方、旅人を相手にした稼業は今流に言えば「副業」に当たり、通常の田畑よりも条件の悪い土地を選ぶ傾向が強かったのでしょう。もともと梨が砂地に強いこともありますが、梨園や桃園が多摩川の水除堤よりも川沿いに作られていたのは、こうした理由が重なっているのではないかと考えます。



追記(2013/11/12):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンク形式が変更されていたため、張り直しました。
(2013/11/26):FC2動画が無料会員に途中までしか見られない状態になっていたので、YouTubeにアップロードし直したものに切り替えました。併せてレイアウトを見直しました。
(2015/11/22):「歴史的農業環境閲覧システム」のリンクを、「今昔マップ on the web」の埋め込みで置き換えました。また、以前は旧東海道の道筋についてはGoogleマップ上で他の方が作図したものを拝借していましたが、「地理院地図」上で「土地条件図」を重ねたものを改めて作図して置き換えました。
(2016/02/23):「多摩川誌」のWebサイトが廃止されてからずいぶんと経ちますが、その際にリンクをコメントアウトするのを忘れていました。失礼致しました。なお、上記の引用もそのサイトから持ってきたものであるため、書籍では何ページに当たるかは未確認です。御了承下さい。

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