「新編相模国風土記稿」山川編の「金銀」「砥石」「燧石」について

ここまで、「新編相模国風土記稿」の各郡の産物山川編の物産として記された品目のうち、鉱物に属するものを主に取り上げてきました。今回は「山川編」の物産のみに記された鉱物類の残りをまとめて取り上げます。

1.三𢌞部(みくるべ)村の「金銀」


「山川編」の物産の筆頭に挙げられているのが「金銀」です。

金銀永祿の始、足柄上郡三𢌞部村山中、金澤と云地より產せしとぞ、其事蚤く廢せり、事は彼村觀音院の傳に詳なり、

(以下「風土記稿」の引用は何れも雄山閣版より、山川編は卷之三)


三廻部村(現在:秦野市三廻部)の「観音院」の項に詳細が記されていることが指示されていますが、件の箇所の記述は次の様になっています。

○觀音院 孫佛山寺傳に、村北三里餘山境に至りて、塔ノ澤と云に石佛あり、石孫佛と號す、當寺此石佛に因ありて、山號とすと云、其 故詳ならず、石佛の事は玄倉村條に出せり、福聚寺と號す、天台宗、東叡山末、往古は比叡山の末にて、慈眼寺と稱せり、起立の年代詳ならず、鎌倉將軍賴朝の頃より在しと傳ふ、天文已來、擾亂に依て、漸漸衰微に及びしが、永祿元年、當村山中金澤と云所より金銀砂を產せしかば、礦夫等かしこに集て土着する者數百戸、當寺の檀越となる者多し、故に彼地に寺を移せり、其後金銀砂も產せず、礦夫も離散するに至りて、當寺も舊地に復す、元龜二年、比叡山の合戰に寺僧明亮も赴援し、東堂に籠り討死す、爾來寺宇荒廢せり、寛文二年住僧是を歎じ、村民と謀り、請て東叡山の末となり、遂に再興するに至れりと云、中興開山要海、寛文五年五月十八日寂す、中興開基、村民彌惣兵衛井上氏、法名本譽誓覺、延寶二年正月四日死す、子孫今に村民たり、本尊釋迦往古の本尊は、運慶作の觀音なりしと云、を安ず、

(卷之十七 足柄上郡卷之六より、強調はブログ主)



三廻部付近の地形図。左下の寺院記号が観音院
(「地理院地図」より、色別標高図と合成)
三廻部は、酒匂川の支流である四十八瀬川の上流域に当たり、丹沢山系に属する鍋割山の南側から流れ下る四十八瀬川が丹沢盆地に出て流れが緩やかになる辺りに集落が固まっています。戦国時代の永禄元年(1558年)にこの川の支流である金沢で砂金が見つかり(と言うより砂金が出たので「金沢」と呼ばれる様になったのでしょうが)、その金を目当てに人々が移住してきたことによって檀家になる人も増えたので、観音院もそれに合わせて一時期金沢の畔へ移転していたことが記されている訳です。

この時に産出した金の量がどれほどのものであったのかが記録されていないので、この川の上流域にどれほどの金鉱脈があったのかはわかりませんが、既に江戸時代には産出されなくなり、金銀目当てに集まった人たちも去ったと記されていることから考えると、あまり多量にあったとは考え難いものがあります。この記録は、むしろこの集落の成り立ちを示す1つのエピソードとして読まれた方が良い性質のものですが、「風土記稿」の編者である昌平坂学問所がどうしてこれを相模国の産物の1つに数え上げておこうと考えたのか、測りかねるものがあります。

2.戸川村の「砥石」


「山川編」で蛤石に続いて挙げられていたのが、大住郡戸川村の「砥石」です。

◯砥石大住郡戸川村の山中に產すれど他に鬻ぐ事なし、霖雨の頃同村中、水無川水勢强くして砥石流れ出ることありと云ふ、


戸川村の項では、その村名の由緒や水無川の項で砥石について触れられています。
  • 土人の説に當所水無川の一名を砥川名義川の條に記す、と唱ふるより村は得たり、されば古は村名にも砥の文字を用ひしが、何の頃か今の如く改めしと云、
  • ○水無川 西南の境を流る河原幅七八十間、水源は村内字本澤より出て、堀山下村と営村の間を流れb又ひこう澤の水合して東南に沃げり、但干常は一滴の水無しと雖ゝ暴雨するに至ては山澤の水逆流して水浴の患尤甚し、因て雨涯に水除刹嘘栃崎ヽどを設て共備とせり、又此川の一名を砥川と呼ぶ、古へ洪水の時塔ケ嶽邊より落る水勢張くして、砥石多く流れ出し故なり、村名も此より起りしと云へり、

(卷之五十二 大住郡卷之十一より)


旧足柄上郡三廻部村と旧大住郡戸川村の位置関係
旧足柄上郡三廻部村と旧大住郡戸川村の位置関係
Googleマップのスクリーンショットに加筆)
戸川村(現:秦野市戸川)は先ほどの三廻部村とは郡こそ違うものの、堀山下村(現:同市堀山下)や堀齋藤村(現:同市堀西の一部)を間に挟んで500mほどしか隔たっていません。三廻部村はその東境を四十八瀬川が流れていたのに対し、戸川村はその西境を水無川が流れ、「風土記稿」が記す様に戸川村はその源流地に当たっています。主な集落はやはり秦野盆地に出た辺りにありましたが、渋沢丘陵の低い尾根に当たった水無川は東へ向かって金目川に合流します。


この川に「砥石」が流れ出ると言うのですが、これについては「神奈川県立生命の星・地球博物館」の出版物に次の様に紹介されています。

そんな折、仲間の先生から戸川砥文献の紹介がありました。秦野市作成の『秦野市史自然調査報告書 秦野の自然1』に掲載された「秦野産の砥石―戸川砥」です。この報告により、戸川砥は昭和40年代まで採掘され地域へ流通していたこと、露頭が水無川(みずなしがわ)源流の木ノ又大日沢(きのまただいにちさわ)やセドノ沢に見られること、砥石は風化した安山岩で丹沢層群に貫入(かんにゅう)した岩脈(がんみゃく)に由来することなどがわかりました。

「自然科学のとびら」第18巻2号 2012年6月15日発行より、リンク先はPDF)


戦後かなり遅い時期まで採取されていたというのは少々意外です。また、このレポートでは小学校でのワークショップ時の体験などと併せて、明治時代に他の地域の砥石とともに博覧会に出品されたことを記しています。

天然砥石といえば、京都の丹波青砥(たんばあおと)が有名です。秦野の戸川砥は地元を中心に流通した砥石ですが、全国の砥石展に出品された経歴もありました。明治10年に開催された全国規模の博覧会 (第一回内国勧業博覧会) に全国173ヵ所から砥石が集められ、その中に戸川砥も含まれていました。展覧会に出品できる天然砥石が全国に170ヵ所以上もあったことは驚きです。かつては地産地消の砥石が各地に存在していたことが伺えます。それだけ石が私たちの生活に身近なものであったということの現れなのかもしれません。第一回の内国勧業博覧会には、神奈川県からつぎの砥石が出品されました。秦野市戸川、厚木市小野、相模原市藤野町、山北町谷ケ、川崎市中原区の5ヵ所の砥石です (高岡私信)。

(上記同書より)


「風土記稿」では産出量が少ないために近隣地域での消費に限られていたことが記されているものの、明治10年の博覧会ではその点を斟酌せずに出品者を募ったということでしょうか。県内の出品者5箇所のうち3箇所が丹沢山地に属している点も、砥石向きの岩石が産出しやすい地質を物語っていると言えそうですが、その中でも戸川の砥石が唯一「風土記稿」に掲載されたという点は、この「戸川砥」が相応の品質を持っていたことが認められていたことの証なのかも知れません。

3.宮城野村の「燧石」


「山川編」では、上記の「砥石」に続いて「燧石(火打石)」が挙げられていました。

◯燧石足柄上郡宮城野村の山より出、黑色なり、


ここで触れられている宮城野村の項では、村境の山の一角に「火打石嶽」があり、そこから燧石を産出していることを記しています。

◯山 …北方に火打石嶽、此邊より黑色の燧石を產せり、

(卷之二十一 足柄上郡卷之十より、…は中略)


この宮城野村の火打石については、「七湯の枝折」にも記載がありました。

一 火打石瓦 宮城野辺より出る石質かたく色黒し火の出る事常の石より多しくらまの火打石卜同物也

(「七湯の枝折」沢田秀三郎釈註 (1975年 箱根町教育委員会)71ページより、)


「くらま」とは京都の鞍馬山のことで、ここは江戸時代には火打石の名産地でした。この鞍馬山の火打石と同質であると言っている訳です。


火打石岳の位置
明神ヶ岳・金時山付近の地質図
火打石岳周辺の地質図
中央紫色が「狩川溶岩グループ」で火打石岳もその辺り
(「箱根火山―いま証される噴火の歴史」
神奈川県立生命の星・地球博物館編より)
火打石岳は現在標高988m、箱根外輪山の一角に当たります。東に明神ヶ岳(標高1,169m)、西に金時山(標高1,212m)が聳えるこの辺りは玄武岩が多く、特に火打石岳の周辺は「狩川溶岩グループ」と呼ばれる成層火山体を形成した時代の噴出物と考えられています。ここで産出する燧石が黒色であったというのも、玄武岩の特性と一致します。

因みに、京都の鞍馬山は古生代の地層が隆起して出来たものとのことですが、海底火山の噴火によって出来たと考えられており、やはり玄武岩の地層を含んでいます。その点では確かに「七湯の枝折」の言う「くらまの火打石卜同物」は的を得ていると言えそうです。

当時の火打石は火打金とセットにして使うもので、石が金の方を削った際に出る摩擦熱(火花)で火を起こすことから、「七湯の枝折」が言う様に「石質かたく」である必要があった訳です。この燧石は古代には石器類を製作するのにも多用され、古代の遺跡からの発掘事例も多数ある様です。

ただ、宮城野の燧石が江戸時代にどれ程の産出量があったのか、また流通先の広がりがどの程度あったのかまでは確認出来ませんでした。「風土記稿」の戸川村の砥石の記述では、川から産することを記しつつも「砥石」として別項目を立てておらず、あるいは産出量が多くないことを意識してこの様な表記にしたのではないかとも考えられます。その伝では、宮城野村の燧石も山から産することを記すに留まっており、やはり産出量という点では限定的であったのかも知れません。



追記(2015/02/02):「地理院地図」の「色別標高図」が、一定以上に地形図を拡大表示させた場合に重ねられなくなりましたので、もう一段縮小させた状態で表示させる様に変更しました。

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