箱根の礬石・湯の花と硫黄:「新編相模国風土記稿」から(その3)

前回は明礬会所の成立と箱根の礬石の関係を「諸問屋再興調」の記録から紹介しました。今回は江戸時代の硫黄の流通の状況を見ます。

諸問屋再興調から硫黄問屋之儀取調申上候書付
「諸問屋再興調」より「硫黄問屋之儀取調申上候書付」扉
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
もっとも、江戸時代の箱根の硫黄との関係という点では、残念ながら箱根の硫黄が何処へ運ばれていたか、またどの様に利用されていたかを具体的に窺い知ることが出来る史料は、今のところ見出だせていないのが実情です。前回は「諸問屋再興調」に記されていた箱根の礬石の興りを具体的に見ることが出来ましたが、同じ「諸問屋再興調」にまとめられている「硫黄問屋」の一連の資料の中には、「箱根」や「相州」の名が産出地として出て来ることはありませんでした。

但し、この「硫黄問屋」に関する記録の中には、当時の硫黄の流通を考える上で必要な事項が含まれていますので、まずはそちらを見ていこうと思います。

前々回に「本草綱目啓蒙」を引用した際、硫黄の項目に「火薬」としての利用のことが記されていることを紹介しました。つまり、硫黄は銃をはじめとする火器への利用が見込まれる品目であり、当然ながら江戸幕府がその流通に目を光らせることになります。

実際、享保6年(1721年)に幕府老中から浦賀奉行所に宛てて差し出された「船改め方につき老中より浦賀奉行へ申渡し書付二通」という文書の中には、次の一項があります。

一上下之船錫鉛鉄炮之薬硫黄(硝)持主ゟ前廉断有之、其子細無別儀おゐてハ浦賀奉行押切証文にて可被通候事

(「新横須賀市史 資料編・近世Ⅱ」2005年 812ページより)

つまり、浦賀奉行所を通すに当っては持ち主の前廉断書を添える必要があり、それに対して浦賀奉行の押切証文を得る手続きが必要だったということです。硫黄と一緒に並んでいるのが錫、鉛、火薬と塩硝ですから、鉄砲そのものだけではなく、その材料になるものの江戸への出入りに神経を尖らせていた訳です。

そして、江戸に入った硫黄は、特定の「硫黄問屋」が取り扱う様に取り決められ、他の業者が取り扱うことが禁じられていました。まず、「諸問屋再興調」から、硫黄問屋や浦賀奉行所、更に草津など関東平野の奥から江戸に入ってくる硫黄のために中川番所や関宿番所の経てきた経緯を記した最初の文書を引用します。少々長くなりますが、後記の部分だけを除いて全文を載せます。

別紙硫黄問屋之儀、旧來浦賀御番所御定有之、同所通船手形差出、其外問屋名題・讓替共、浦賀奉行衆江茂願出候處、去ル丑年(天保十二年)相止、荷物之儀者、廻船積合ニ而引請候由、右者天明度町觸有之、此度現在渡世之もの共、間屋再興可被仰付哉之旨、町年寄申上候、依之、取調候処、硫黄之儀、古來ゟ問屋人數七人有之、下り荷物引受、一人に付、五ヶ年之間貳万貫目ツゝ賣買可致定ニ而、海上」一手積故、浦賀奉行衆證文差出、貫數改を請積取、江戸・在賣共致し來、文政四巳年ゟ上州白根山出產之硫黄、壹ヶ年壹万四千貫目引受來候處、天保十二丑年、間屋組合停止被 仰出、同十三寅年以來、何方之ものニ而茂勝手次第賣買致し候樣相成、尤向後右荷物積通候ゝ、其節〻改之上、無差支相通候樣、浦賀奉行衆・中川御番衆被仰渡、關宿江茂御逹有之、當時者」前書之貫數不拘、荷物積取來候哉ニ而、右硫黄并焰硝・鉛三品とも藥種問屋賣買致し候品有之、硫黄・鉛之義者、其問屋共ゟ買取、焰硝者、秩父・上州邊ゟ出候を引受、賣買致し候仕來之趣有之、焰硝者別問屋と相立候もの無之、藥種問屋仕入之品と相見候得共、右者藥用致し候迄之義可有之、硫黄并鉛共間屋御取極相成候ゝ、如先規貫數を定積取、直引受致し候もの」差障可申者必定候間、他向ニ而手狹窮屈を唱可申哉、右之通、鉛・硫黄共貫數を定、問屋積取候儀、何故之御制度候哉、取調候得共、書類相見不申、天明六午年八月之町御觸、硫黄之儀者、外品と違、火藥大切之品付、今般相觸候と有之、前〻御觸被仰渡等有之候旨之文言相見不申候間、別段御制度者無之、問屋共相場之掛引等之ため貫目を定、荷受致し候義可有之哉、去ル」寅年ゟ十ヶ年余、勝手次第賣買いたし、浦賀・中川兩所共、雜荷物同樣改之上、相通候樣手廣相成有之、荷高者自然相增可有之哉、殊去て戌年九月、炮術之儀付、出格之被 仰出有之、諸向ニ而も入用相增候御時節候間、硫黄問屋再興者御沙汰不被及、去ル寅年以後手度相成候儘、當時之姿ニ而被差置可然奉存候間、硫黄問屋名前書者可差戻旨、」町年寄被仰渡可然哉奉存候、

(「大日本近世史料 諸問屋再興調 七」1966年 東京大学出版会 114〜115ページより、」は原文ママで原書の改ページ箇所を示すもの、変体仮名はゟ以外下付きとし、適宜置換え、強調はブログ主)


つまり、江戸では7名の「硫黄問屋」が分量を決めて取り扱っていたこと、江戸に入ってくる硫黄は内陸を通ってくる上州(草津)のものは中川番所で取り調べを受け、それ以外は全て海上を通し、浦賀奉行に手形を出さなければいけなかったこと、そして前回も触れた「天保の改革」によって「硫黄問屋」も解散させられたことが触れられています。また、ここでも硫黄の他に鉛や焔硝の取り扱いが併せて検討されており、鉄砲に関係する品目としてその扱いに気を遣っていたことがわかります。

草津と浦賀奉行所・両番所の位置関係
草津と浦賀奉行所・中川番所・関宿番所の位置関係
(Googleマップのスクリーンショットに加筆)
「諸問屋再興調」ではこの文書に続いて、過去の経緯について調べ上げた文書がまとめられ、その中には上州草津からの硫黄が浦賀奉行所を通さずに流通していることが明るみに出たために沙汰を検討する経緯なども明らかにされています。流石に内陸の草津からではわざわざ海上を通して浦賀を経由させる訳には行かず、その途上にある中川番所(現・東京都江東区大島にあった)や関宿番所(現・千葉県野田市関宿)で荷を改める運用になった訳です。

言い換えると、それ以外の地域からの硫黄は陸上を経由して江戸に運び入れることが禁止されていたことになります。箱根からですと小田原の浜から船に載せることになりますが、三浦半島を巡って行かなければならない海路は遠回りになるので、浦賀奉行所を通すために必要な日数も含めるとかなり日数を要して江戸に入ることになったと思われます。ただ、今回はこうした経緯が具体的にわかる史料を見つけることは出来ませんでした。

他方、硫黄自体の用途は銃などの武器の火薬に限られていた訳ではありませんでした。以前も引用しましたが、「本草綱目啓蒙」の「石硫黄」の記述の中にも

…其青色ヲ帯ル者ヲ、ヒグチト呼。即石硫青ナリ。黄赤二ツノ者、薬ニ入、及銃薬ニ供ス。青色ノ者ハ薬ニ入ルニ堪ズ。只発燭(ツケギ)ノ用ニ充ルノミ。

(平凡社東洋文庫531 1991年 149ページより、強調はブログ主)

とその用途を記しています。硫黄としての純度の低い青みを帯びたものは「ヒグチ」、つまりロウソクなどに火を点ける際に使っていました。純度の高いものも火薬の他に薬用としての用途がありました。例えば豊前国下毛郡中津(現・大分県中津市)の村上医家に伝わる「薬箱」(リンク先PDF)に収められている各種薬草に混ざって「硫」つまり硫黄の粉末の包みが見られ、硫黄が薬屋の処方に含まれていた様子が窺えます。

そして、火薬としての利用も江戸時代には銃薬に限定されていた訳ではありませんでした。花火です。

日本に花火が入ってきた時期については諸説ありますが、江戸時代初期の慶安元年(1648年)には幕府が江戸における花火を隅田川河口に限定する触書を出しており、この頃には既に花火が江戸の庶民の手に入るものになっていたことが窺えます。

この様な傾向は江戸の街に限られた話ではなかった様で、箱根にほど近い小田原でも、こんな記録が残っています。

(注:延宝七年・1679年)九月十日

一去る八月十五日夜小田原浜ニ而花火立候由注進有之、御詮儀被成候処、組切吟味仕、今度花火立候面々羽原新五右衛門奥田千右衛門岡田佐左衛門平野才三郎鯰江加左衛門河合十左衛門中村幾右衛門右七人也。不出来思召候間、御扶持可放候得共、前廉花火御法度之儀不 仰出候付、御用捨(ようしゃ)成、何も閉門被 仰付候。別紙覚書を以今日小田原江申遣之

(永代日記書抜追加)

(「小田原市史 史料編 近世Ⅱ」1988年 295〜296ページより)


ここに名が挙がっている7人は小田原藩の藩士ということの様ですが、小田原の海岸に花火を打上げに行って軽い謹慎処分になったということが記されています。お咎めの理由が良くわかりませんが、夜中に騒ぎを起こしたからということなのでしょうか、少なくとも海岸に出て花火を上げている以上、街に花火の火が燃え移らない配慮をこの7人がしていたのは確かで、その点もあってあまり厳しい処分にはならなかった様です。ともあれ、江戸から離れた地でもこういう形で花火を入手して打ち上げることが出来る状況が、比較的早い時期から既にあったことが窺える事件ではあります。ただ、この7人がどの程度の地位にあったかは良くわかりませんので、当時の花火の値段など入手の難易度を推し量るのはこの資料だけでは難しいものがあります。もっとも、希少性の高いものを悪戯に使ったとなったら安易な処分では済まない様にも思えますので、隅田川の花火の事情なども併せて考えると、花火の入手は当時既にかなり容易になっていたと考える方が良さそうです。

また、同じ小田原藩に属していた足柄上郡都夫良野(つぶらの)村(現:山北町都夫良野)には、花火の処方を書き記した江戸時代中期の文書が伝わっており、この地で花火が製造されていたらしいことが推察されています。全文はかなり長くなりますので、その一部を引用します。
旧中川村と旧都夫良野村の位置関係
中川村と都夫良野村の位置関係
Googleマップのスクリーンショットに加筆)

Fireworks at Ryogoku LACMA M.2006.136.356.jpg
歌川広重「名所江戸百景」より「両国花火」
江戸時代の花火はその成分上の制約から
専ら赤橙色に限られていた
(Licensed under Public domain
via Wikimedia Commons.)

(表紙:)

「延享弐年 村中

花火本 都夫良野村

うし七月十六日」

てつせんくわ(花)

一十匁    えん(煙硝)

一七分五りん はい

一七分    ゆし

一三匁五分  てつみぢん

 かみくくり

かねいと

一四匁    えん

一壱匁    ゆし

一八匁    てつ

一一匁    はい

したれ柳

一五匁    えん

一二匁五りん ゆし

一五分    はい

一壱匁七分  てつ

ぼたん

一十匁    えん

一七分五りん ゆし

一七分五りん はい

一三分    小のう(樟脳カ)

一三匁    てつみぢん

かみくくり

つな火・しま火

とう薬之内にゆわう(硫黄カ)・はいを入、水にてねり、八寸のかみニてねり張べし、八寸を八つにきりてミち火よし

(「山北町史 史料編近世」2003年 777〜784ページより、…は中略)


この文書には全部で37種類の花火の調合が記されています。「えん」は傍注に記されている通り煙硝ですが、その他「てつ(鉄と思われる)」「はい(灰、あるいは炭の粉末か)」「ゆし(油脂か)」といった原料が主に調合されていることが窺えます。その他「小のう(樟脳)」、そして「ゆわう(硫黄)」が花火の種類に応じて混合されています。この文書上では硫黄が必ずしも常用されている訳ではないのが少々意外ですが、そこに都夫良野村の花火製作者なりのノウハウがあったのでしょう。ここで製作された花火が何処で打ち上げられていたのかは不明ですが、どちらかと言えば遠方よりも小田原など比較的近い地域で打ち上げられることを想定していたのではないかという気がします。

因みに「新編相模国風土記稿」の各郡毎の産物の中には、足柄上郡中川村の産として「白熖焇」が挙げられています。しかし、中川村の項には焔硝の生産に関係する記述がなく、またその他の史料によって同村での焔硝の生産を裏付けることは出来ませんでした。一般に、雨の多い日本国内では硝石(硝酸カリウム)を鉱物として掘り出せる地域は皆無で、江戸時代には例えば古民家の下の土を掘り出し、長い年月のうちに硝酸バクテリアの作用で土中に生じた硝酸カリウムを析出させて硝石を得る、といった製法が用いられていました。恐らくは中川村でも類似の手法が採られていたのでしょうが、そのことを裏付ける記録は見つかっていない様です。従って、都夫良野村での花火の製造に使われていた煙硝が中川村のものであるかどうかは不明ですが、上記の地図の位置関係を見ると丁度酒匂川の支流である河内川の上流域と下流域(酒匂川との合流地点からやや下流へ行った辺りが都夫良野村)に当っており、距離的には両者の関係を考えたくなるのも確かです。

その一方で、硫黄が必ずしも全ての花火で用いられている訳ではないとは言え、花火の種類によっては硫黄が必要であったことは確かで、これは都夫良野村や周辺の村々では産出を望めないことから、近傍で硫黄を求めるとなればやはり箱根の硫黄を使うことになるでしょう。

ここで気になるのは、江戸に入る以外の硫黄の流通に幕府がどの程度関心を寄せていたかということで、あるいは例え箱根に近い都夫良野村であってもわざわざ遠方の江戸に買い求めなければならなかったか否かなのですが、今回調べてみた限りでは具体的なことはわかりませんでした。ただ、恐らくは幕府が気を遣っていたのは主に江戸に入る銃の原料であって、それ以外の地域の硫黄の流通まで細かく管理する様なことは行っていなかったのではないかと思います。

実際、承応4年(明暦元年・1655年)4月に、小田原藩が藩士の鉄砲の稽古のためにその弾丸に利用する鉛700貫目を大坂から調達した際の記録が、当時の藩主であった稲葉氏の「永代日記」に残っています(「小田原市史 史料編近世Ⅰ」414ページ)。これによれば、当時はまだ浦賀ではなく下田にあった奉行所や、三崎にあった番所に対して証文を提出したりしていますので、上記の「諸問屋再興調」に記される手続きが成立する以前から、銃の材料となる品目について幕府がチェックをしていたことが窺い知れます。

ところが、鉛についてはこの様な記録があるのに、同時に必要になる筈の硫黄や焔硝については、同様の手続きを採ったことが記録されていません。下田奉行所時代と浦賀奉行所時代で、硫黄や焔硝の取り扱い方が違っていた可能性も考えられなくはありません。しかし、まだ戦国時代の名残の残る江戸時代初期の武器関連品目のチェックが、後の平和な時期のチェックよりも薄いということはあまり考え難く、鉛の取り寄せで証文が必要であったのであれば、銃薬類でも同様の手続きが必要であったと考える方が自然と思われます。しかし、「永代日記」の記述はその様にはなっていない訳です。

これは全く私の個人的な推察になるのですが、恐らくは小田原藩内では今まで見てきた様に藩領域内で硫黄や硝石が調達できる余地があったので、それらについては藩内で内製して銃薬を調合していたのではないか、という気がします。それに対して鉛は藩内では産出しないので、大坂から取り寄せる必要が生じ、その際には各奉行所に対して証文を提出する手筈が必要になった、という差が生じたのではないか、ということです。

その辺りの切り分けが何処で行われていたかは、更に史料を探してみる必要があると思います。ただ、「諸問屋再興調」の文言を見ていると、銃の材料には気を配らなければならないという意識はありつつも、民生品としても需要がある品目に対して悪戯に規制を強めてしまって流通を滞らせる事態を招くことには、寧ろ慎重であったという側面もありそうです。江戸時代の中でも時代によって考え方や施策の相違はあったと思われますが(その一端が「天保の改革」に現れている訳ですが)、大筋ではこうした相反する事情を都度勘案しながら、各奉行所が中心となって施策を決めていたのではないかと思います。

また、そうした中ではあまりローカルな物流に対してまで幕府が事細かに口を挟んでいたとは考え難く、箱根から産出した硫黄も域内や近隣の村々で消費される分にまでは関知していなかったのではないかという気がします。その伝で考えると、都夫良野村に花火の材料の1つとして箱根の硫黄が直接運び込まれていたとしても、不自然なことではなかっただろうと思います。

なお、近代以降の箱根の硫黄の生産が何時頃まで続いていたかも定かではありませんが、現在は原油の蒸留工程で出て来る硫黄を専ら用いる様になったため、国内での硫黄の生産は全て廃れています。「新編相模国風土記稿」に記録された箱根の温泉由来の産物のうち、現在も生き残っているのは箱根のお土産物屋さんで販売されている「湯の花」だけになりました。




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この記事へのコメント

- くまドン - 2014年08月11日 22:26:22

こんばんわ。
硫黄一つとっても、資料を見て、色々な切り口(見方)があるのですね。
なるほどです。ありがとうございました。

- kanageohis1964 - 2014年08月11日 23:11:48

こんにちは。コメントありがとうございます。

今回は飽くまでも相模国内の産物という観点で史料を漁っているので、全国レベルの話という点ではまだ掘り下げは浅い方だと思いますが、花火を作るのに必要になる各品目の出処とか、まだ面白そうな切り口が色々と残っているという気がします。そういう方面も追々調べていければいいなと思っています。

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ケノーベル エージェント - 2014年08月12日 09:12

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