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箱根の礬石・湯の花と硫黄:「新編相模国風土記稿」から(その2)

前回は「新編相模国風土記稿」で取り上げられた箱根の「硫黄」「(はん)石」「湯の花」について、その産出した場所等について紹介しました。今回はそれらのうち、礬石の流通経路を江戸時代の明礬会所の存在から見て行きたいと思います。

江戸時代の礬石の流通について調べているうちに、当初は海外からの輸入に頼っていた明礬を国内生産する方向に切り替わっていったことを知りました。その中心にあったのが「豊後明礬」、つまり現在の別府温泉で精製される様になった明礬であり、やがて国内外の流通を調整する目的で「明礬会所」が設立されて取引の全てがこの会所を通す様になっていきます。

この辺の経緯の概要はこちらのサイトに記されています。別府の地元の信用金庫が出版したものから引用されたことが末尾にありますが、生憎と神奈川県下では閲覧できる図書館がなく委細を確認出来ていませんので、出典となった文献などが記載されているかどうかは未見です。

明礬製造の歴史 - 各種研究グループ>明礬湯の花研究グループ 一般財団法人日本薬事法務学会


この「明礬会所」をキーに更に検索を進めたところ、この会所の設立から廃止にかけての一連の経緯は「諸問屋再興調」の中に収められていることがわかりました。恐らく上記の信金の出版物の記述も、「明礬会所」の設立から運営に纏わる経緯については主にこの史料に記されているものを引いた上で、明礬の精製開始の歴史については地元豊後に伝わる史料に依って編まれているのだろうと想像します。

諸問屋再興調から明礬会所御免願扉
「諸問屋再興調」より第12冊・「明礬会所御免願調」扉紙
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より)
水野忠邦の「天保の改革」については、中学校の日本史の授業でも取り上げられますので御記憶の方が多いと思います。この改革の一環で、天保12年(1841年)に国内の物流の支障になっていると考えられた「株仲間」が強制解散させられ、これによって各種問屋・組合が相次いで閉鎖されていきますが、その結果として物流の調整上必要な機能までが失われ、却って経済の混乱を来す事態になってしまいます。このため、嘉永4年(1851年)になって必要な問屋・組合を再興させるべく、町奉行所諸問屋組合再興掛と町年寄が各組合毎に願書を受け付け、その是非を決裁する作業を行いました。この決裁事務の過程で集めた書類を整理したものが、この「諸問屋再興調」です。一度大々的に解散を強制したために経緯が散逸してしまったものを、急いで復興させようというのですから、その事務が煩雑で膨大になるのは容易に想像出来るところですが、それを裏付ける様に、この記録も全部で26冊に及ぶ膨大なものになっています。現在は東京大学出版会が「大日本近世史料」のひとつとして全編を翻刻したもの(全15冊)を読むことが出来ます。

「明礬会所」についてはこの「諸問屋再興調」の第12冊に、そして「硫黄問屋」については第13冊にまとめられています。今回はこの「諸問屋再興調」をいくつか引用しながら、この「明礬会所」と箱根の礬石の関係を追ってみたいと思います。まず、「豊後明礬」の興りから「明礬会所」設立にかけての流れを掻い摘んで整理すると概ね次の様になります。

  • 正徳3年(1713年):

    この年に発行された「和漢三才図会」の「明礬」の項に、豊後で高純度の明礬が精製されていることが記される。

  • 享保15年(1730年):

    国内の明礬の運上を全て大坂屋が取り仕切る様になり、運上金を幕府に上納する。これにより唐明礬の輸入が禁止される

  • 享保20年(1735年):

    江戸と大坂に明礬会所が開設される

  • 宝暦8年(1758年):

    京都・堺に明礬会所が開設され、江戸・大坂と併せて会所が4箇所になる

  • 宝暦10年(1760年):

    全国の明礬は残らず4つの会所を通して売買することになり、別ルートでの取引が禁止される

  • 天明2年(1782年):

    薩摩の明礬と唐明礬を4会所が引き受けることが町触で通達される

  • 天保14年(1843年):

    「株仲間」解散の一環として4会所が閉鎖される


さて、嘉永4年に明礬会所の再開を願い出る上申書が、かつて明礬会所を取り仕切っていた豊後国の近江屋から奉行所宛に提出されたのを受けて、南町奉行が廃止前の事情について記録を改め始める訳ですが、「諸問屋再興調」にはその事務を担当した与力からの報告が次の様に書き付けられています。

「閏二月廿五日、向方相談出、鰭付」

書面明礬會所之儀、一覽仕候處、願人正三郎差出候旧記之趣ニ而者、享保度先祖大坂屋兵作と申もの、大岡越前守殿御勤役中願濟ニ而、初江戸・大坂兩所右會所取建、一手賣買致し來候」趣に付、御役所古書物再應取調候處、右被仰付候節之手形・言上帳付之類者、相見不申候とも、寛保二戌年之御用覺帳、本材木町四丁目庄助店理右衞門と申もの、箱根神領より掘出し候明礬賣弘之儀、嶋」長門守殿(祥正、南町奉行)御勤役中願出候砌、町年寄方おゐて申渡候證文写書留有之、右文中前書兵作儀、十三年以前享保十五戌年ゟ、豐後國速水郡御〔料〕山ゟ明礬採出し、運上差上、唐渡明礬之儀も、長崎之者と申合、唐渡和共〻」兵作方ニ而一手商賣仕候儀、八年以前享保二十卯年被仰付、今以右之通ニ而相勤來申候云〻、然上私方ニ而外之者一切直賣不仕、不殘兵作方賣渡可申候と申文言有之、…既去ル卯年諸間屋」停止被仰出、明礬之儀も直賣買勝手次第之旨御觸有之候節も、都同方おゐて御調之上、會所御差止之儀被仰渡候儀付、旁當時之所ニ而者、今般再興之儀も、同方御取扱相成候方相當可仕哉奉存候得共、併町年寄申上候通、直〻其向爲願可申品共相聞不申候」間、先ツ一應別紙之通御掛合之上、御挨拶之模樣寄、何れとも御取扱相成候方可然哉奉存候、

子閏二月

仁杉八右衛門(南町奉行所年番與力)

東條八太夫(同上)

中村次郎八(同上)

東條八太郎(同上)

書面元唐和明礬會所御免願之儀付、御向方類役とも取調申上候通、被仰渡可然哉奉存候、

子閏二月

谷村源左衛門(北町奉行所年番與力)

中嶋嘉右衛門(同上)

秋山久蔵(同上)

磯貝七五郎(同上)

(「大日本近世史料 諸問屋再興調 七」1966年 東京大学出版会 29〜31ページより、」は原文ママで原書の改ページ箇所を示すもの、変体仮名はゟ以外下付きとし、適宜置換え、…は中略、強調はブログ主)


願書の内容に従って過去の手形や言上書などの記録を当たってみたところ、明礬会所の設立経緯に直接関するものが見いだせなかったものの、その傍証となりそうなものを数点見つけたことを記しています。その筆頭に挙げられているのが、理右衛門という江戸の商人が箱根権現領から掘り出した明礬についての証文の存在です。後段でその証文を書き写した旨報告をしている訳ですが、「諸問屋再興調」にはその書き写された証文も併せて掲載されています。少々長くなりますがその全文を引用します。

寛保二戊年七月日不知御用覺帳書抜

差上申證文之事

一 本材木町四町目庄助店理右衞門申上候、箱根山御神領之内、明礬陶須御座候付、採出度旨、去酉年別當金剛王院相願候處、金剛王院ゟ右明礬場所共理右衞門被申付候趣、本多紀伊守樣(正珎、寺社奉行)」御届申上候處、勝手次第可仕段被 仰渡候旨、金剛王院ゟ理右衞門被申渡候付、右之段、去酉九月、長門守樣(嶋祥正、南町奉行)御願申上候處、勝手次第可仕候、明礬製法出來仕、賣弘候節者、又〻御訴可申上段被 仰渡候、當戌五月、右明礬製法出來仕候付、則長門守樣差上申候處、當御役所被」仰渡、御吟味御座候、私義、年來紺屋商賣仕候處、染艸致シ候明礬、十二三ヶ年以前より殊之外高値罷成、渡世合兼候付、右明礬段〻採出し、賣弘申候ゝ、世上明礬直段下直相成、調法罷成候間、賣弘之義.御免可被下旨相願申候処、藥種問屋共方御吟味有之候処、私採」出し製法仕候明礬、上方ゟ出候明礬引合、中之品ニ而商賣仕候も可然儀奉存候段申上、賣方之儀者、私方にて座賣之樣不仕、外藥種同前、手廣何レ之藥種問屋方成共差出、商賣致し候樣仕度旨申上之候、且又和明礬會所大傳馬町貳町目大坂屋兵作方も御尋御座候處、」兵作義、十三年以前享保十五戌年ゟ豐後國速水郡御(料)山ゟ明礬採出し、運上差上、唐渡明礬之儀も長崎之者と申合、唐渡・和共兵作方ニ而一手商賣仕候儀、八年以前享保二十卯年被 仰付、今以右之通ニ而相勤來申候、私義、今度箱根山ゟ明礬採出し候義者、差構」無御座候、併別段私方ニ而賣弘申候者、只今迄兵作明礬一手賣出し被 仰付候詮も無御座、殊紛敷明礬出來候も改方難致、年〻運上差上、商賣仕候明礬之賣方も減少仕、旁迷惑仕候間、私採出候明礬直賣不仕、兵作方も不殘差出し、商賣仕候樣仕度」候段、兵作申上候付、段〻御吟味之上、當戌七月廿七日、 長門守樣御内寄合被召出、私採出し候箱根山製法明礬、手前ニ而賣弘申候者紛敷儀も有之候間、無用仕、兵作方不殘賣渡可申旨被 仰渡、奉畏候、然上者、私方ニ而外之者一切直賣不仕、不殘兵作方江」賣渡可申候、右之趣相背候ゝ、何樣も可被仰付、爲後日證文差上申候処、仍如件、

本材木町四丁目

庄助店

理右衞門

寛保二戌年七月

右者、町年寄奈良屋市右衞門方て致證文候写、

(上記同書 56〜58ページより、変体仮名等の扱いは前引用に同じ)


つまり、箱根の礬石づくりは、古代に天皇に献上した記録がありながらも、江戸時代のものは江戸の染物商人が自身の染物商売用に精製を始めたのが最初ということになりそうです。この証文が提出された寛保2年(1742年)の「十二三ヶ年以前より」とのことですから、「値段が高くなって商売に差し支えるので箱根の明礬を取り出すようになった」のは享保15年(1730年)頃に当たることになります。その点では、「続日本紀」に記されている明礬はその様な製法が成立する以前のものということになりますから、江戸時代のものとは分けて考えるべきでしょう。

前回、箱根の礬石の精製方法について、「七湯の枝折」や「東雲草」の記述が異なっていて具体的に特定出来ないと書きましたが、上記証文では「明礬陶須」と書いており、「陶」の字が物を焼いて作ることを意味していますので、この記述から考えると「東雲草」が記す塩焼きに似た製法を採っていた可能性の方が高くなります。とは言え断定は出来ませんが、何れにせよこれらの製法が「豊後明礬」の製法と比較してどの程度相違があったかが、当時の箱根の礬石の品質が「豊後明礬」と較べてどうであったかを判断する際の課題になります。


別府・明礬温泉(ストリートビュー
この小屋の中で青粘土に噴気を当てる
豊後明礬の精製の特徴として、温泉の噴気を青粘土に晒して硫酸塩生成を促進する方法を使う点と、最近の研究によればハイノキ科の植物を灰汁精製に際して用いる点を挙げることが出来るでしょう。「青粘土」は「モンモリロナイト」と呼ばれる「スメクタイト」の一種を主成分としていますが、箱根ではボーリング調査で地下数百mの地層で検出された事例(「神奈川県温泉地学研究所」の資料・リンク先はPDF)は見られるものの、地表付近での産出地は見つけることが出来ませんでした。これだけ深所にある粘土を江戸時代に明礬の精製のために敢えて掘り出そうと試み得たかどうかはかなり疑問があります。他方、ハイノキ科の常緑樹は主に近畿地方以西に分布するため、箱根では自生しておらず、また温暖地の常緑樹を関東地方まで持って来ても育てるのは難しかったでしょう。つまり、「豊後明礬」の精製方法を仮に箱根で実現したいと思っても、そのために必要な資源が現地調達できない状況にあった可能性が高そうです。


実際は「豊後明礬」の精製方法はかつては「秘伝」とされていたので、江戸の染物商人がその様な秘伝を容易に入手できたとは考え難く、恐らくは伝聞などを元により簡便に取得する方法を考え付いて実行に移したのでしょう。元が値段の乱高下する明礬の流通市場に嫌気がさしてのことですから、自分で試しても高コストになってしまったのでは意味が無いからです。その意味では、恐らく箱根の礬石は「湯の花」により近い状態のものであったのではないかと思います。質は「豊後明礬」に比べて劣ってしまうかも知れませんが、それでも薬用ではなく染物に使う目的であれば十分使用に堪えるという判断が理右衛門にあったのかも知れません。それが前回引用した「本草綱目啓蒙」の記述にも反映していると見ることが出来ます。

また、上記の覚書では、その際に箱根権現側が温泉の利用については快諾しているものの、技術面での支援などを行ったことは記されていませんが、古代に天皇に献上されたとする明礬について箱根権現が承知していなかったとは考え難く、あるいは理右衛門が明礬の精製方法を開発する際に権現側が何らかの指導を行っていたのかも知れないという気がします。また、そもそも理右衛門が箱根の温泉が明礬精製に有望であることにどうやって気付けたかについても委細がわかりませんが、箱根と何らかの繋がりが無ければこうした着想に行き着くとは思えませんから、湯治や権現への参拝などの目的で箱根を訪れた経験があったのではないかと思われます。もっとも、箱根地域の地誌類でこの辺りの事情について具体的に伝えているものは、私が探した範囲では見つけることが出来なかったので、これらも類推に過ぎません。これに限らず、箱根の明礬についての記述は現在廃れてしまったこともあってか、かなり入手が困難な状態にあるのが実情の様です。

他方、「豊後明礬」を取り扱う側から見れば、流通量が増えて相場が下がるのはマイナスになりますし、明礬を高純度化する秘伝を持っているという自負からは、異なる製法による品質の劣る製品が出回って評判が下がるのを少しでも抑えたい意識もあったのでしょう。箱根で精製された礬石は一旦「中之品」、つまり中級品と認定されたものの、大坂屋の兵作という商人の申し出でこれを一旦自分たちが全量を買い込んで豊後へと送り、再精製したものを市場に戻すということで奉行所の裁定が下りました。上記の証文はそのことを理右衛門側が承知したことを後日の記録のために書き記したものです。分量的にはそれ程のものではないと思われますので、恐らくは他の積み荷と混載して豊後までの船便で送って輸送コストを抑えたでしょうが、それでもこうした手間が明礬自体の取引価格に跳ね返るのは自明のことです。そこまでしてでも大坂屋側としては価格を維持しつつ、増え続ける需要に応えるべく増産の一助として箱根の礬石を引き受けることにしたのでしょう。理右衛門の側は自分の手で箱根の礬石を外販することは出来なくなりましたが、恐らく自身の染物用の分は確保して残りを兵作に預けることにしたのでしょう。取り敢えずは双方の顔が立つ形にはなった訳です。

なお、「諸問屋再興調」にはこの箱根の礬石にまつわる顛末に続いて、この理右衛門に売り渡されていた信濃小諸の「和明礬」については以降「土どうす」と名乗って「明礬」の名では商売しないことを確認した請書が掲載されており、こうした調整が都度行われていたことが窺えます。「本草綱目啓蒙」の「礬石」の項には別名の筆頭として「どうす」が載せられており、実質的に同じものであるという認識はあった様ですが、頭に「土」が付いているのはそれだけ純度が低かったのでしょう。高止まりする明礬に対して類似品をより安く手に入れたいという要求は根強くあったのではないかと思われます。

その様なこともあってか、「諸問屋再興調」の明礬会所再興に関する取り調べの結果、この会所は結局再開されることはなく、天保年間以降の直接取引が維持されることになります。明治時代に入って再び海外からの輸入に頼る様になって国内生産が廃れるのは、その自由化の過程で明礬作りが既に割に合わないものになっていったことにも遠因があるのかも知れません。

礬石の流通の方を追うだけで長くなってしまったので、硫黄の流通事情については次回に廻します。



追記(2016/01/19):ストリートビューを貼り直しました。

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この記事へのコメント

- hopisuke - 2014年08月05日 22:57:18

こんばんは。
コメントを頂きありがとうございました。

ミョウバンひとつとっても歴史は深いのですね。
自分は歴史も古文もまだちゃんと習っていないのでわからないことも多いですが、
すごく詳しく調べていらっしゃっていつもすごいと思っています。

- kanageohis1964 - 2014年08月06日 07:56:28

こんにちは。コメントありがとうございます。

元は相模国の各産物がどこへと流れていたのかをひと通り確認しようと思って調べ始めたのですが、今は埋もれてしまった様なものも多く、意外に難しいですね。少しずつ積み上げていければと思っています。

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