道志川の貝石

先日「矢倉沢の蛤石」と題して、「新編相模国風土記稿」に矢倉沢村の産物として記された蛤の化石を取り上げました。「風土記稿」では他にも化石を産物として取り上げた箇所があります。津久井県の「貝石」です。

◯貝石 道志川に產す

(卷之百十六 津久井縣卷之一、以下「風土記稿」引用は何れも雄山閣版より)



道志川については「風土記稿」の津久井県図説では

◯道志川 水源甲州都留郡奥道志、山伏峠の麓より湧出し、卽奥道志の内月夜野村境より縣内靑根村に沃來り、東方靑野原村に至り夫より靑山村を經て三ヶ木村に至り相模川に入、縣内を流るゝ水路四里餘川幅廣狭ありて十間より十五六間に及べり、兩岸には岩石多く、堤防を築作するに及ばすして水害なし、水路の變替沿革等なし按ずるに、道志川及び秋川・澤井川・早戸川・串川を稱して、縣内五川と呼て、其名相模川に亞げり、共に鰷魚の貢賦を上納する事各差あり、

(卷之百十六 津久井縣卷之一より)

と、青根・青野原・青山・三ヶ木の4村を経由することが記されています。実際は三ケ木村では道志川は寸沢嵐村との境を流れるので、全部で5村を経由することになります。うち、寸沢嵐村の道志川の記述については、既に「相模川の「鰷」」で一部取り上げました。矢倉沢村の蛤石についても「蛤沢」と呼ばれる沢について記述してそこから産出することを記述していましたので、道志川の貝石や牡丹石についても同様に記述されていても良さそうです。しかし、各村々の道志川の記述を見ても
  • 青根村(卷之百二十 津久井縣卷之五)

    ○道志川 西の方甲州都留郡道志村の内久保組より沃ぎ來り、東方靑野原村に達す、當村を經る水路曲折二里川幅十一二間より十五間に餘れり、

  • 青野原村(卷之百二十 津久井縣卷之五)

    ○道志川 村の北界を流る、西方靑根村より來り東方靑山村に達す、水路屈曲一里半に餘れり、川幅十一二間より十四五間に及べり、

  • 青山村(卷之百二十 津久井縣卷之五)

    ○道志川 村の西端を流る、北に漑て三ヶ木村に達す水路村内を經る事七八町川幅三十間より四十間に逮べり

  • 三ケ木村(卷之百二十一 津久井縣卷之六)

    ◯道志川 村の西界を流る、西南間靑山村より來たり水路三十町許にして相模川に入る川幅十間より十二間に至る渡船場津久井街道西行して甲州に至るあり、落合の渡と呼ぶ或は沼本の渡と云ふ、寸澤嵐村に渡す、當村及び寸澤嵐村の持、

  • 寸沢嵐村(卷之百十七 津久井縣卷之二)

    ◯道志川 村の東界を漑ぐこと一里半許、南靑野原村より來り東流して村内落合川原にて相模川に入…渡船場一所道志川落合にて渡す、當國厚木通り、吉野宿へかゝり、甲州への往來なり、冬より春の間は、假橋にて渡す、長二十間、幅五六尺、

(…は中略で鮎漁の説明の部分)

何れの記述でも化石の産出について触れているものはありません。津久井県内の貝化石については図説に記されているものが全てということになります。


道志川付近の地形図(「地理院地図」より。色別標高図を合成)

この道志川流域は地質分類という点では概ね「丹沢層群」に属しています。このうち、貝化石を多く含んでいることが報告されているのは「寺家層」と呼ばれる層や「落合層」と呼ばれる層です

丹沢層群の厚さは少なくても10,000mを超えると考えられているが、産出する化石はそれほど多いとはいえない。それは丹沢山地を構成する地層が主として、火山活動の生成物であるグリーンタフや、グリーンタフの一部が巨大な深成岩体(石英閃緑岩)によって貫かれていることや、深成岩体の貫入によって、グリーンタフから生じたと思われる変成岩の結晶片岩やホルンフェルスが、広く分布しているからである。グリーンタフを生じた火山が激しく活動する場は、化石のもとになる生物の生息環境として良好であったとは考えにくいし、変成岩が生じたような場では、もともと化石がたくさん入っていたとしても、変成岩を生じた熱と圧力のために消失してしまった可能性も大きい。

しかし、丹沢層群の形成の末期、すなわち寺家層・落合層形成の時代になると、激しい火山活動の合間をぬって礫・砂・泥など陸源性の砕屑物が堆積する場が広く発達するようになり、ここに軟体動物をはじめとするいろいろな生物が生息した。これらが現在、寺家・落合層の中に見られる化石となったのである。

丹沢層群の中での軟体動物(貝類)化石の出現は、丹沢層群最上部、寺家層、落合層に集中している。後述するように、寺家層では、凝灰角礫岩の火山角礫に交じって散在的に各層準から産出する。破損して産出することが多い。落合層は寺家層より産出頻度が高い。特に産出頻度の高い部分は宮ヶ瀬湖に没したといわれる。

(「津久井町史 自然編」2013年 68〜70ページより、…は中略)



津久井町史自然編図10
丹沢山地の地質構造
(「津久井町史 自然編」51ページより)
津久井町史自然編付図より
「津久井町地質図」より道志川周辺
(「津久井町史 自然編」付図より)

が、「津久井町史 自然編」に付属していた地質分布図を見ると、これらの層が道志川沿いで路頭する箇所は寧ろ短区間で、青野原の口留番所の北側辺りに限られている様です。「落合層」の名がこの道志川沿いの小名に由来すると見られることから、あるいは江戸時代にもここで露頭する化石が見られたのかも知れません。しかし、「風土記稿」の「道志川に産す」という表記からは、道志川の限られた地点ではなく、複数の村々で産出した様にも見受けられます。矢倉沢村の蛤石の「風土記稿」の表現に倣えば、「道志川に産す」ではなく例えば「青野原村辺に産す」の様な表現になったのではないでしょうか。

とすると、江戸時代に道志川沿いの村人たちが見た「貝石」は何処から来たのでしょうか。その辺りのヒントを探るためにネットを検索してみたところ、その最上流域の沢の中に、貝の化石が見られる場所がある様です。


どちらも神奈川県山梨県の境にある大室山にある「介沢」または「貝沢」の上流部に、貝の化石が見られる箇所があることを紹介しています。この山も上掲の「津久井町史 自然編」の地質構造を見る限り、やはり丹沢層群の中に含まれる筈ですが、介(貝)沢の周辺には寺家層や落合層に繋がる比較的新しい層があるのでしょうか。今回の記事のために手に取った書物では神奈川県外の地質に関して詳しいことがわからなかったのですが、あるいはこの沢から流れ下った貝石が国境を越えて相模国に入り、それを道志川沿いの村々の人が拾っていたということになるのかも知れません。山梨県内の道志川本流は約20kmありますが、大室山は神奈川県境に近い場所に位置しており、また道志川も流路が比較的急であるため、遠方まで貝石が流れ下る可能性は大いにありそうです。またそれであれば、「風土記稿」の記述にも良く合致します。

何れにしても、道志川沿いで採取できる貝化石が「風土記稿」に採録されているということは、この貝化石も恐らく矢倉沢の蛤石と同様に賞翫の対象となっていたのでしょう。しかし、矢倉沢村の場合とは異なり、この道志川の貝石を、江戸辺りの町民が遥々この地まで訪れて自ら採取するということは恐らく出来なかった筈です。何故なら、この地の入り口には「口留番所」と呼ばれる関所があったからです。「風土記稿」青野原村の項には
  • 一條の路係れり、高座郡邊より甲州への間道なり、東方靑山村より來り、西方靑根村に達す、村内に亘る事凡一里半、此往來に口留の關所あり、關より已東三町許にして路兩岐す、巽行すれば鳥屋村に至る、
  • ◯口留番所小名靑野原にあり 高座郡邊及び縣内より甲州都留郡道志村への往來なり、近鄕の木こり・草刈・耕作人の外は不通の番所なり、村民代るがはる是を守る、

(卷之百二十 津久井縣卷之五より)

と「口留番所」の存在について紹介しています。因みに、現在の国道413号線「道志みち」の旧道がほぼこの道筋に当たり、鳥屋村への分岐路は県道64号に該当します。青野原の口留番所は2つの道の交差点から西へ向かった、寺入沢を越えた辺りにあった様です。

この番所に、幕府から伝えられた寛永八年(1631年)の覚書が今も残っています。

相模国ねす坂村・青野村此二ヶ所、近郷の木こり・草刈・耕作人之外ハ一切不可通、若往還之輩猥に相通るにをひてハ、(たとえ)後日に聞之候とも、其一在所のもの曲事に仰付らるへし、通候ものをとらへ差上候ハ、其人により御褒美之高下有之テ急度可被下之、自然(じねん)礼物(れいもつ)を出し可相通すと申族あらは、捕置可申上、金銀米銭何にても其約束之一倍可被下之旨候、右之趣御代官所堅可被申付者也

寛永八年九月廿一日

出羽守/丹後守/大蔵少輔/伊賀守/信濃守/讃岐守/大炊頭/雅楽頭

守屋左太夫殿

(「津久井町史 資料編 近世2」2011年 239ページより、差出人の名は本来1行1人ずつのところを「/」で改行を置き換えて統合、ルビは同書の注を参照して適宜挿入)


「新編相模国風土記稿」より口留番所図
「新編相模国風土記稿」より口留番所図
(「青野原村」の項、雄山閣版より)
つまり、江戸から化石を拾いに来ても道志川流域に入る余地が全くなく、番人に礼金を贈って通ろうなどと画策すれば、その時点でお縄になってしまう、ということです。江戸から遥々と巡礼名目で訪れる様な寺社が近傍にある訳でもないので、自分の目で目ぼしい貝石を探しに道志川沿いに入るということは、まず無理だったでしょう。

そうすると、やはり道志川沿いの村人が道志川に入って目ぼしい化石を探し出して、需要のありそうな市へと持って行って換金していたことになりそうです。矢倉沢の蛤石の場合もそうですが、この様な賞翫用の貝化石の流通ルートが何らかの形で存在したのでしょう。その具体的なルートが明らかになる様な史料がないものか、一度探してみたいものです。

なお、現在は道志川上流に「道志ダム」が建設されて奥相模湖が出来たため(昭和30年・1955年完成)、それ以後に大室山から流れ下ってきた貝化石は道志ダムを超えて下流へと向かうことはなくなりました。道志川の川原にはまだダム完成以前に流れてきた化石を含んだ石が残っているかも知れませんが、それも次第に見つけ難くなっていくことでしょう。
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