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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

大磯の砂利

「新編相模国風土記稿」の産物一覧に掲載されたものから、今回は淘綾郡の項に唯一記された「砂利」を取り上げます。

◯砂利 大磯宿海濱の產、其種類、五色或は中栗、白班、黑小砂利等あり、時々命ありて公に納む、

(巻之三十九 淘綾郡卷之一、以下「風土記稿」引用は全て雄山閣版より)


「新編相模国風土記稿」の巻構成と村数
郡名巻数村数
足柄上郡10(巻之十二〜二十一)94
足柄下郡17(巻之二十二〜三十八)92
淘綾郡3(巻之三十九〜四十一)19
大住郡12(巻之四十二〜五十三)119
愛甲郡5(巻之五十四〜五十八)43
高座郡10(巻之五十九〜六十八)109
鎌倉郡38(巻之六十九〜百六)91
三浦郡9(巻之百七〜百十五)80
津久井縣10(巻之百十六〜百二十五)29
「風土記稿」には上記の全114巻の他、首巻1、図説1、建置沿革1、山川1、芸文部8の全12巻が含まれ、合わせて126巻で構成されている。
村数は各郡図説に「風土記稿」執筆時点の数として示されたものを採用。なお、三浦郡では池子村については地誌捜索が出来なかったために記述が欠如しているが、その分も上記村数に含まれている。
この砂利の話に移る前に、淘綾郡の産物の記述がこれだけになってしまっている点について、もう少し掘り下げてみるところから始めます。

淘綾郡は江戸時代には相模国で最も小さな郡で、「風土記稿」全126巻で淘綾郡は僅かに3巻に記されているに過ぎません。参考までに、「風土記稿」の構成を右に一覧表にしました。鎌倉郡が異様に膨れ上がっているのは鶴岡八幡宮や鎌倉五山などの由緒に紙幅を割いていることが主な原因で、郡内の村数と巻数は必ずしも比例はしていません。むしろ足柄上郡の足柄峠、足柄下郡の箱根山や小田原城など、由緒について特記する事項が多い地域の巻数が増える傾向にあります。しかし、以前まとめた様に大磯にも古くからの由緒があり、「風土記稿」中でも「万葉集」以下小余綾浜に纏わる歌などが取り上げられているにも拘らず、村数19と極端に少ないことが利いて巻数も最小になっています。

こうした郡域の狭さが産物として取り上げられる品目の数にも影響した側面はあるでしょう。もっとも、各村の記述から産物の記述として挙げられるものを書き出してみると、概ね海産物に偏っていることが窺えます。
  • ニノ宮村(卷之四十):
    • ○海 南方にあり、漁船六艘を置、獲所の魚、鮪・鰹・比目魚・鯖の類多し、古へ鹽田ありし事は、小名の條に註記す、
  • 川勾村(卷之四十):
    • ○海 南方にあり、古へ鹽田あり、正保二年領主よりの村方割付に、鹽永五百七十文上納のこと見ゆ、今廢す、慶安年中の割付には、鹽永の沙汰なし、船二艘を置て、農隙には漁業をなせり、所獲の魚前村に同じ、
  • 山西村(卷之四十):
    • 古此地梅樹多し、故に名とすと云、されば、元和八年十二月、内大臣通村、關束より歸洛の路次、此地において梅花の詠あり、【關東海道記】曰、…今も猶多く植て、其實を鬻ぐ者許多あり
    • ○海 巽方にあり、潮干六七間、船十三艘地引船七、小買附船と稱するもの六、を置く、漁魚は大抵前村に同じ、鮟鱇を此濱の名品とせり、河岸場ありて貢米・竹木・炭薪等を運致す、江戸迄海上三十六里、此海演を袖ヶ浦・小餘綾の磯など呼り、
  • 國府本鄕村(卷之四十):
    • ○海 南方にあり、海濱を古余呂岐之濱と云、獵船二艘ありて、農間には漁業をなす、獲る所の魚は、鰺・鯖等なり、
  • 國府新宿(卷之四十):
    • ○海 南方にあり、獵船四艘ありて漁業をなす、獲る所の魚は 鱠志羅宇遠、鯖等なり浦邊を袖ヶ浦又淘綾浦と唱ふ、
  • 大磯宿(卷之四十一):
    • 農隙には、其居の便宜に任せ、或は行旅の少憇に酒食を鬻ぎ、或は海濱の漁業を以て生產を資く、
    • ○海小餘綾磯附、 宿裏巽方に在、艮方平塚宿濱境より、南東小磯まで、長二十九町半餘、町要に添て浪除堤あり、高五尺敷一丈六尺、馬踏六尺、荒海にて汐干鹽濱等はなし、船數四十を置、廻船三、海士船十二、生漁船四、地引船三、以上每船に永錢五百文を出す、小船十八、是は百廿五文宛を出せり、此沖四時漁業の利多く、地引網場三所あり、所獲の魚は鯛・甘鯛・比目魚・鮪魚・鰺・鯖・鰹・小鰹・鱁魚・鮫・鮑・鮟鱇等の類なり、此品江戸新場へ附送ると云、
  • 西小磯村(卷之四十一):
    • ○海 南方にあり、此海濱を小餘綾浦と云ふ、潮干五間、地引網をもて鰺・鯖等を獲、

各郡図説の産物一覧について、三浦郡では海産物についても各品目を書き並べていたり、高座郡や足柄下郡の図説では海産物が多々あることを記していたりしているのに対して、淘綾郡ではその様な対応が採られなかったのは、あるいは郡毎の担当者の違いによって対応に不統一な所が出来たからかとも思います。特に山西村の項に鮟鱇のことが名品として取り上げられていることを考えると、他郡の記述の基準ならば図説にも特記されたのだろうとは思います。

しかし、その点を考慮しても、記載されているものが他郡に比べて多いとは言えず、特に海産物に極端に偏っている点は、以前梅沢の立場について紹介した際に取り上げた等覚院東光寺(藤巻寺)の実応が著した「楳澤志」(文政8年、1825年)にある様に、

竹木水ともに(とぼ)しくして一品冨饒(ふじょう)なる物なし。是故に往昔(むかし)より冨家豪財者の居住せしを聞かず。

(2008年 二宮古文書会刊 私家本より、ルビも原則同書に従う)

と、耕作地としてはあまり恵まれた土地ではなかった点も影響しているのでしょう。この点については「風土記稿」も図説で

水田少く、二百五十八町八段四畝二十七歩、陸田多し、六百四町四段七畝十一歩四分五厘、土性は多く、眞土・赤土の二種にて、海邊に近きは.砂礫錯れり、…農間の餘資、山寄の村は、男は薪を採り、筵を織り、女は糸を操り、綿布を織る、海邊の諸村は、專漁釣をなし、驛路に連佳する家は、便宜に依て、或は旅客を止宿せしめ、或は是が爲に酒食諸品を鬻ぐもあり、されど富饒の戸口乏し、

(巻之三十九 淘綾郡卷之一より)

と記しています。


こうした中で、淘綾郡の図説に唯一砂利が敢えて取り上げられたのは何故なのでしょう。この砂利については、大磯宿の「海」の項に委細が記されています。

此地字海前寺下の邊より、砂利を出せり、時に公より費用を賜りて召上らると云、其種類、五色、或は中栗・白斑・黑小砂利等なり、


東海道分間延絵図:大磯宿海前寺の位置
「東海道分間延絵図」より大磯宿・海前寺の位置


「海前寺」があったと思われる場所
「字海前寺下の邊」とありますが、この「海前寺」については「風土記稿」は

○海前寺 龍澤山寳珠院と號す、淨土宗、武州鴻巣勝願寺末、中興貞譽、尊蓮社と號す、慶長二年二月寂す、本尊三尊彌陀を安ず、

と紹介しています。しかし、現在大磯町内にはこの寺号や山号・院号を受け継ぐ寺は見当たりません。「大磯町史 6 通史編 古代・中世・近世」(2004年)では廃寺と記していますが(428及び562ページ)、何時頃廃寺になったのかは記されていません。明治時代中期から後期の大磯の観光案内記を幾つか当たった限りでは、それらにも「海前寺」を見出すことが出来ないので、あるいは明治時代初期には既にこの地には存在しなくなってしまっていたかも知れません。因みに大磯近辺では茅ヶ崎に「海前寺」がありますが、こちらは山号が「東松山」、曹洞宗の寺院で「風土記稿」でも茅ヶ崎村の項に「海前寺」を記しており、別の寺院です。

ただ、「東海道分間延絵図」を見ると大磯の海辺に「海前寺」があるのが見えています。海辺の磯が最も海に突き出した辺りに位置している様に描かれており、この作図が基本的に正しいものとして現在の地図から場所を探ると、道の形状などから恐らく右の地図の辺り、旧東海道がへの字に折れ曲がる地点の南の、浜道の先にあっただろうと思われます。現在はその海側に国道1号線のバイパスが通り、東側には大磯漁港が造られたりしていますので、この位置から海を直接望むのは難しくなってしまいましたが、江戸時代には勿論この寺から海を眺めることが出来たでしょう。あるいは現在のバイパスの敷地内だったかも知れませんが、これ以上の位置の特定は難しそうです。

この寺の南の浜、つまり現在の照ヶ崎海岸付近で採取出来る砂利が「其種類、五色、或は中栗・白斑・黑小砂利等なり、」つまり様々な色合いの石が混ざったものであったと「風土記稿」に記されている訳です。この砂利については平塚博物館の「Web読み物「大地の窓」」のページに

この砂利は丹沢山塊の凝灰岩類が主体で、酒匂川河口から相模湾岸沿いに大磯海岸へ運ばれたものです。

(上記サイト「石材図鑑」より「砂利」)

と紹介されています。また、別の箇所では

相模川流域・酒匂川流域の砂は、大きく5つの供給源を持っています。それは、A丹沢山地のグリーンタフ砂・B小仏山地の頁岩砂・C富士の溶岩砂・D西丹沢の花崗岩砂・E箱根火山の火山灰の砂です。これらの5つの給源を持つ砂が、下流に行くにつれて、その場所独自の割合でブレンドされ、現在河原で見る砂になります。したがって、砂はいくつかの原酒をブレンドしたカクテルと言うことになります。

そのブレンドの割合は、河原の石ころの組成と同じと思われがちですが、そうでもありません。相模川では小仏山地の頁岩は破砕されやすく礫には少ないものの、砂には多量に含まれています。酒匂川では、弥生時代に流れた富士山からの泥流が河口まで達しているため、河原の砂には富士溶岩の砂が極めて多く見られます。

(同上「カクテルされた砂」)

と、丹沢や箱根から流下した砂礫が運ばれた先によって様々な割合で入り交ざっていることを解説しています。

もっとも、それだけであれば酒匂川・相模川の河原や、大磯以外の海岸でも砂利はいくらでもある筈です。江戸時代にも道の普請などに砂利が用いられていましたから、恐らくはその多くは付近の河川などから採取されたものが使われていたでしょう。

この大磯の砂利については、「大磯町史 6」では次の様に紹介しています。

大磯宿内海前寺(廃寺)下の海岸から砂利が産出する。この砂利は時に幕府御用として普請用材など砂利採取に用いられた。その種類は豊富で五色あるいは中栗・白斑や黒小砂利などがあった。とくに目の細かい黒小砂利は「大磯」といわれ珍重された。御用砂利に関する初出の資料は延宝四年(一六七六)十一月である。和歌山藩御用として砂利二〇〇〇(かます)の採取を大磯宿本陣小嶋才三郎に請負わせるよう、中原代官坪井次右衛門が大磯浦の浜名主七左衛門に命じている(『町史』2近世179)。この時の砂利の採取は、才三郎以外に一俵も採取させないと命じていることから、当時、砂利の採取は才三郎が独占的に請負っていたことが考えられる。以後、本陣小嶋家は本陣利用の諸大名へこの砂利を献上品の一つとして利用していた。

(同書428ページ)

つまり、大磯の砂利の質の良さを珍重されて幕府や諸大名などの御用達になり、その搬出を同地の小島本陣が独占的に請け負うという構図が早くから出来上がっていた訳です。

「享和二年小島本陣御休泊控帳」から色石進上分
No.月日大名等名称休泊等下賜進上
11月8日宝台院方丈箱根より泊金100疋色石
173月5日勧修寺前大納言戸塚より泊鳥目50疋色石
314月16日稲葉伊予守(雍通(てるみち)・豊後臼杵藩)箱根より泊白銀2枚色石
384月29日細川和泉守(立之・肥後宇土藩・初入部)藤沢より通(御番頭相宿にて藤沢泊)金100疋色石
455月8日川越城主 松平大和守(直恒)塔ノ沢入湯/藤沢より小休(梅沢へ泊)金200疋するめ・五色砂利
485月14日知恩院大僧正神奈川より泊銀2枚色石
495月16日松平越後守(康乂(やすはる)・美作津山藩・初入部)戸塚(平塚休)より通金50疋(平塚にて)色石
636月25日高木伊勢守(紀伊上使)戸塚より通金100疋(南湖にて)色石
747月20日最乗寺輪番 大雄院方丈神奈川より泊金200疋色石
959月22日駿府加番 大久保隼人戸塚より休金100疋肴・色石
969月27日大坂加番 上杉駿河守(勝定・出羽米沢新田藩)箱根より泊金300疋色石
9810月2日薩州(鹿児島藩)大奥女中鎌倉江之島廻り藤沢より休金200疋色石
11012月6日土井大炊頭(利厚)姫君小田原より休金200疋色石
「大磯町史 6 通史編 古代・中世・近世」表3-16(332〜335ページ)より該当行を抜粋、ルビはブログ主
右の表はその「大磯町史 6」に掲載されているもので、享和2年(1802年)の大磯宿小島本陣の「御休泊控帳」を一覧表にしたものの中から、大磯の砂利が献上されたことがわかる行を抜粋したものです。この1年で全部で111件の宿泊・小休が記録されているのですが、このうち約1割に相当する13件で砂利が献上されていることがわかります。他の献上品の多くは「上物」とだけ記されていて委細がわからないのですが、品目が明記されたものの中では色石がが最多を占めており、「大磯町史」が記す様に、小島本陣が献上品の中で砂利を最も重要視していたことが窺えます。


また、献上先に寺院が3件含まれているのも、この砂利の利用目的を象徴していると思えます。つまり、色の良い砂利を庭園などに敷くのに使われていた訳ですね。基本的に江戸に住まうことを義務付けられていた大奥女中の名前が含まれているのは、恐らくは江戸屋敷での利用を念頭に置いたものなのでしょう。

旧東海道:大磯宿小島本陣跡石碑
かつての大磯宿小島本陣跡には
ガイドなどと共に
石碑が立てられている
「大磯町史」ではこの他、弘化3年(1846年)に幕府に命じられて御用砂利を搬出し、その砂利代金の残額150両を貸付運用で500両まで増額し、大磯宿経済再建の一助としたことや、元治元年(1864年)にも江戸城西丸の普請に中栗砂利を積出していることが紹介されています(同ページ)。「風土記稿」の淘綾郡の担当者が敢えて砂利を図説の産物に唯一取り上げたのも、やはりこうした由緒の強さを意識したからなのでしょう。こうした「風土記稿」内の記述のばらつきについても、今後もう少し研究してみたいと考えています。

そして、大磯の砂利がこれ程までに珍重されたのは、その供給源となっている酒匂川の河口から直線距離で13kmと最も離れた場所に位置していることも、あるいは関係しているのかも知れません。もっとも、河口から出た砂礫がどの様に相模川の湾岸流によって峻別されて照ヶ崎海岸まで運ばれているのか、そのうちの何が大磯の砂利の質に幸いしたのかまではわかりません。少なくとも、相模湾西岸の中ではこの海岸が、最適な砂利が採れる地理的条件にあったのは確かでしょう。

現在は海浜保護のために砂利の採取が禁止されましたので、この海岸の砂利が流通することはもうありません。しかし、今でも類似の砂利に「大磯石」の名が残り、国内外で採集された砂利でも「大磯石」の名で販売されているものがあります。裏を返せば、それだけこの地の砂利の名が世に広く浸透していたことの現れでもあり、それが今でも受け継がれている訳です。




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