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「新編相模国風土記稿」の「蛍」

先日、「新編相模国風土記稿」の各郡毎の産物の一覧と、「山川編」の産物の差分の一覧をまとめました。その作業の際に好奇心をそそられる産品は多数ありましたが、そのうちの1つが「蛍」でした。時節柄ホタルの写真がネット上でも見られる様になってきたので、今回はこの「蛍」を巡って色々と調べてみたことを軽くまとめてみました。


穴部駅付近の地図(水域図)
駅前を通過する県道がかつての甲州道
「風土記稿」巻之三山川編には

◯螢 足柄下郡甲州道、穴部村邊に多し、

と記されているのみで、足柄下郡の図説では蛍に関する記述は見られませんでした。こういうケースでは、村里部には記述がある場合とない場合がありますが、この蛍のケースは後者に当たる様で、山川編で指摘されている穴部村の項は勿論、甲州道沿いの各村(小田原城下―荻窪―池上―井細田―多古―穴部―府川―北ノ久保)の記述にも、蛍に関する記述は見られません。

右の地図は水域図に切り替えて水路を強調しました。伊豆箱根鉄道大雄山線の穴部駅前で並行して走る県道が、かつての甲州道に当たりますが、その脇をはじめ周辺には水路が多数見えるのがわかります。西側は箱根山の外輪山東側斜面が広がり、そこから流れ下る多数の沢や、狩川から導かれた用水が、この甲州道に幾筋も並行して流れていることから、他の環境さえ揃えば確かに蛍の生息に向いていると言えそうです。今は周辺の市街地化が進んだので、流石にこの道沿いで蛍を見るのは苦しいと思われますが、迅速測図戦前までの地形図で周辺の土地利用の変遷を見ると、第二次大戦前辺りまでは周辺は水田が広がっていましたので、江戸時代以降も開発が進んでくるまでは十分蛍が見られる環境にあったと見て良いでしょう。


明治29年修正・明治31年発行の地形図。地図の不透明度を「0%」に設定すると、「迅速測図」の表示に切り替わる
(「今昔マップ on the web」より)

もっとも、それだけであれば、この地が敢えて相模国の蛍の名所として「風土記稿」に記されたのは、いささか不自然な感じもします。同様の環境であれば江戸時代の農村であれば普通に存在したでしょう。因みに「小田原市史 自然編」(2001年)で市内の蛍に関する記述を拾うと、

ヒメボタルでは、小田原市では入生田付近だけに分布している珍しい種類で、全国的に分布するが、小田原のヒメボタルは小型で、発光パターンが他の地域とは異なる点で注目されている。

小田原市に生息するホタル類のうち、夜間成虫が光って飛ぶのは、ゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルの3種類である。ゲンジボタル(体長約15mm)は、市内各地の小川に生息している。幼虫は水生でカワニナなどを食べ、成虫は5〜7月にあらわれる。ヘイケボタル(体長約10mm)は、近年減少しているが、水田地帯で見ることができる。幼虫は水生で成虫は6〜8月にあらわれる。ヒメボタル(体長約6mm)は入生田〜根府川に生息しているが少ない。幼虫は陸貝を食べ、成虫は6〜7月にあらわれる。メスの成虫には後羽がない。

小田原市ではこの他に、成虫が光らないムネクリイロボタル、オバボタル、クロマドボタルなど数種類が記録されている。

(上記書340ページ)

市内ではヒメボタルが比較的珍しく、見られる地域が限定されていることは記しているものの、「風土記稿」の記述については取り上げられておらず、ゲンジボタルやヘイケボタルの生息域についても特に限定されている様な記述は見られません。では、「風土記稿」が敢えてこの地を相模国の蛍の名所として記載した意図は何だったのでしょうか。

貝原益軒の「大和本草」(宝永6年)の「螢火」の項では「勢多」「宇治」といった地名が蛍の名所として挙げられています。また、小野蘭山の口授を記した「本草綱目啓蒙」(リンク先は文化2年の出版)の「螢火」の項では「城州宇治川」「和州宇陀川」「江州西黒津」「大日山」「田上」「八島」の蛍が名産とされ、「ソノ形尋常ノ者ヨリ大ナリ大ナル者ハウシボタル越前ト云フ」と記しています。


双方に共通して含まれている「宇治川」はいわゆる「宇治川の蛍合戦」で知られる場所で、「ゲンジボタル」「ヘイケボタル」の名にもある通り、治承4年(1180年)の源頼政の非業の死と結び付けられて語り継がれてきた地です。勿論同地の蛍が大型で光が強いとされている点もあり、それが大挙して発生する様子が頼政の怨念と結び付けられる様になった訳です。その点では、単純に蛍が大量に生息するのに相応しい環境であることの他に、その地の歴史的な由緒なども関与して知名度を上げていく構図があると言えそうです。

こうした宇治川の言い伝えに匹敵する様な由緒が、小田原のこの地にあるかということになるのですが、調べてみた限りではその様な謂れはない様です。そもそも、そんな言い伝えがもしも存在していたのであれば、「風土記稿」の記述の性格を考えれば間違いなく採録されていた筈でしょう。勿論、小田原の蛍が北条一族の無念の魂になぞらえて「ホウジョウボタル」などと呼ばれている訳でもありません。

一方、江戸時代には「江戸名所図会」に記されている「落合」など、江戸の御城下の近傍に複数の蛍の名所がありました。既に江戸の庶民の娯楽の1つとして蛍狩りが定着していたことが、当時の浮世絵などの作品からも窺えるのですが、こと小田原に限って言うと、この近隣の風景を描いたもので蛍を描き入れたものはありません。また、江戸から小田原の距離を考えると、江戸の庶民が遥々とやって来て蛍狩りを楽しむ様な場所でもありません。この地で捕獲した蛍を江戸に送り届けて江戸庶民に向けて販売しようと目論むにも、やはりこの距離では蛍を生きたまま届けるのが難しいと言わざるを得ません。


かつての井細田口に当たる竹の花広小路
現在も枡形が道筋に残る(ストリートビュー
ただ、小田原の甲州道沿いの出口であった「井細田口」から、穴部の辺りまではおよそ2〜3kmほどですから、小田原城下の町民が蛍狩りに出かける距離としては手頃だったと言えそうです。甲州道という当時比較的整備されていた道に沿って行くのであれば、足元の心配もさほどしなくて済みそうですし、道沿いに集落が多い点も町民の行楽という点では有利です。そのことを裏付けられる様なものを見出すことは今のところ出来ていませんが、あるいは小田原の風物としてたまたま昌平坂学問所が取材していたものが、山川編の編集の際に顔を出したということなのかも知れません。もっともそれであれば、小田原城や小田原宿の項で記されていても良さそうなものではありますが、生憎とそれらの項目でも蛍に関する記述はありませんでした。

その様な訳で、この「風土記稿」の蛍はあまり明確な裏付けを持たないまま、山川編の1箇所にぽつんと記されたのみに留まっているのですが、その名残は意外にも現在私たちが普通に目にする場所に現れています。


螢田駅と穴部駅の位置関係
地図上で穴部駅から北東方面に目を転ずると、そこに小田急小田原線の「螢田駅」があります。2つの駅は直線距離で600mあまりしか離れていませんが、螢田駅の所在地は「小田原市蓮正寺」、かつての蓮正寺村の域内にあります。しかし、「風土記稿」の蓮正寺村の項を見ても「螢田」という地名は載っていません。この駅名は駅開業にあたって新たに付けられたものです。

もっとも、昭和2年(1927年)の小田急線開業の際にはこの駅はありませんでした。同社の社史に

昭和十九年(一九四四)十月、小田原線富水〜足柄間に、周辺の軍需工場に通勤する工員の便宜をはかって螢田仮停留場が設けられ、指定の通勤列車に限り停車して客扱いを行なった。

(「小田急五十年史」昭和55年 202ページ)

と記されている様に、この駅は当初は軍需工場への通勤専用の仮駅として第二次大戦中に開設されたものです。その後恐らくは敗戦後に一旦仮駅の営業が終了した後(時期は不詳)、改めて昭和27年(1952年)に正式な駅として螢田駅が開業しました。

この駅名の由緒については、正確なところはわからない様です。ただ、開業後に小田急が発行したガイドなどで蛍の名所としてこの駅が案内されているところを見ると、「風土記稿」の記述が参考にされている可能性はかなり高そうです。「蓮正寺」という地名が採用されなかった点については「抹香臭いから」などと解説されている本もありますが、「風土記稿」でもこの村名の由緒が記されておらず、また同地の寺社としては村の鎮守として「稲荷社」があるのみで「蓮正寺」という寺院があることを伝えていないくらいなので、寺の名前を冠しているにも拘らず現地に該当する寺がないとなると、乗客を誤案内してしまう可能性を懸念して避けたのではないかと個人的には考えています。とは言え、大戦中の軍需工員専用の駅にも拘らず、地元の地名を冠することが出来ないと判断した時に「風土記稿」の僅かな記述を手掛かりにして「蛍の名所」であることを探り当てたのが事実なら、当時は今と違って駅名の決定に当たって随分とその地の由緒に配慮をしていたことが窺えると思います。螢田駅の周辺もかなり住宅街化が進んでしまいましたが、由緒の片鱗は駅名となって何とか受け継がれていると言えそうです。



追記(2015/09/24):ストリートビューを貼り直しました。
(2015/11/24):「歴史的農業環境閲覧システム」と「今昔マップ on the web」へのリンクを、「今昔マップ」の埋め込み地図に置き換えて統合しました。
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この記事へのコメント

- くまドン - 2014年06月22日 21:36:40

ホタルですか、現代の都心では人出で育成したものしか見れない時代になりましたが、まだ農薬の影響も無い時代だったのですね。
ありがとうございました。

- kanageohis1964 - 2014年06月22日 22:05:57

こんにちは、コメントありがとうございます。

そうですね、蛍がいなくなるなどという心配をする人は江戸時代にはいなかったでしょうね。むしろ人為の及ばない所で勝手に発生して宵闇の中で光り出す虫だったからこそ、源氏や平家の魂になぞらえられたりしたのだろうと思います。

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