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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

上鶴間村以北の滝山道(その3)

滝山道の話、再び間が開いてしまいました。前回は藤沢宿から下鶴間まで滝山道を進んできた継立が、原町田村へと逸れていってしまっていた状況を巡って、当時の原町田村の様子を中心に見てきました。

以前も引用した通り、「新編相模国風土記稿」では下鶴間宿から上鶴間・鵜野森・淵野辺・上矢部・小山の各村を「八王子道」又は「滝山道」が通っていたとしており、道幅も淵野辺までは3間(約5.4m)、その先でも2間(約3.6m)ありました。他方、継立が向かった原町田村の付近の「神奈川往還」は9尺(約2.7m)とされ、これは八王子道の約半分だったことを意味しているのですが、継立はそれにも拘らず道幅の狭い方へと向かっていたことになります。また、藤沢から甲州へと向かう旅人も、同様にここから原町田へと向かっていたらしいことも前回紹介しました。

そして、原町田が市を中心に江戸時代に大きく発展した村であることを考え合わせると、継立は最初から原町田へと向かっていたのではなく、当初は八王子道を進んでいたのではないかと考えたくなります。八王子道の方が道幅が広いことがその裏付けになるのではないかという気もしますが、残念ながらこのことを裏付けられる様な史料を見つけることが今のところ出来ていません。

むしろ、継立の権利を持っていた村々がそう安々とその権利を他の村に譲り渡すとは考え難い事例が近隣の街道に存在します。例えば、中原街道で継立を巡って寛文11年(1671年)に中山村と佐江戸村が争ったケースがあります。この時にはその継立の由緒を示す書状の類がなく、街道上で継立を行っていた小杉・瀬谷・用田の各村々に伺い立てを行うことで、佐江戸村が前々から継立を行っていることを確認し、以後この際の裁許状がこの街道上の継立業務の事実上の由緒として機能することになりました。言い方を変えると、この様な裁許の手間を掛けてでも、継立の権利を守ろうとしたということです。そうした中で、八王子道の継立が過去には存在し、それが原町田村へと譲り渡されたとすれば、これは異例のことであったと言うべきでしょう。

なお、「神奈川県史」は滝山道の道筋について

八王子往還 この脇往還は県南の海岸側と甲州道中八王子宿を結ぶ街道の総称で、大きく分けて次の二つの交通路があった。

(一)藤沢宿—亀井野—長後(ちょうご)(以上 藤沢市)—下鶴間(しもつるま)(大和市)—原町田—淵野辺—橋本—八王子宿

(二)大磯宿—中原—田村(以上 平塚市)—厚木(厚木市)—座間(座間市)—当麻—橋本(以上相模原市)—八王子宿

(「神奈川県史 通史編2 近世(1)」 248ページより、強調はブログ主)

と記してしまっています。しかし、これでは相模原台地の上を境川に沿って走ってきた滝山道が原町田村の辺りでだけ境川を2回渡河していることになりますし、前回までに見た通り滝山道の下鶴間以北の各村で継立を営んでいたとする記述は「新編相模国風土記稿」の各村々の何れにもありません。一番可能性の有りそうな橋本村でさえ、継立は専ら八王子と当麻に向けてのものであって、藤沢方面への継立を取り扱っていたとは記されていません。恐らくは「神奈川県史」の記述は「新編相模」や「新編武蔵風土記稿」の記述をざっと拾って並べただけなのでしょうが、残念ながらこれは当時の実情に合わないものであると言わざるを得ないでしょう。



「久保沢」の位置
ポイントしている病院の付近に「久保沢」バス停がある
何か少しでも手掛かりになるものがないか探しているうちに、「(その1)」で紹介した継立道の三叉路に立っている嘉永7年の庚申塔に刻まれた「左くほさハみち」の行き先が、この八王子道の道筋とは違う方向を指していることに気付きました。当初この「くほさハ」が八王子道の筋の何処かにあると思ってしまったために、道筋から外れた場所に該当地があることに気付き損ねていたのでした。

現在は「神奈川県相模原市緑区久保沢」となっているこの地域は、江戸時代には津久井県の上川尻村の一小名でした。橋本宿よりも更に西、相模川の大きな河岸段丘に出来た深い沢がその名の由来で、沢が相模川に落ちる地点に「明王瀧」があったことが「新編相模国風土記稿」にも記されていますが、その「風土記稿」の記述中には

小名久保澤の一區には民戸相對して軒を並る事五十、是所には古ヘより市を立て米穀及び庶物を賣買す毎月三の日を定日とす是故に近隣の村々より群聚していと賑はへり、縣の東偏に在て頗る打開けたる村からなり、人物も亦西偏、山村の風俗とは異なり、

(卷之百二十三 津久井縣卷之八、雄山閣版より)

と、この地で月に3度(3日、13日、23日に)定期市が開かれ、非常に賑わっていたことが記されています。この引用箇所のすぐ前で上川尻村の戸数を180と記していますから、村の戸数の3割弱が久保沢集落に固まっていたことになります。津久井県の東の一角にあって、山間の産物をその麓に位置するこの場所に集めて取引する様になったのでしょうか。


神奈川県立相模田名高校付近の「久保沢道」標
ストリートビュー
この「久保沢」の市の賑わいぶりは、「久保沢道」と呼ばれた道筋が他にも存在したことでも窺えます。右のストリートビューに見える「久保沢道」の石標は相模川左岸の河岸段丘の上を南東から北西に進む道筋に立っており、八王子道の道筋とは違います。定期的に開かれる市に向けて、周辺の村々から往来する道筋が共通して「久保沢道」と呼び習わされていたということです。

一方、下鶴間の嘉永7年の庚申塔が立っている位置から久保沢までは、現在の地図上で最短の道筋をGoogleマップで探しても18km以上離れています。つまり片道4里半も隔たっているのですが、やや時代が下った頃にはこの久保沢から鶴間まで炭を馬に乗せて運んでいたことが「鶴間郷土史」(井上茂留 1984年 町田ジャーナル社)に記されており、久保沢の市が周辺のかなり広い地域に物資を供給していたことが窺えます。

因みに、上川尻村の北隣(「風土記稿」による、実際は北東といった方が良い位置関係)には下川尻村があり、ここはその名が示す通り元々1つの村だったところが分かれたのですが、「風土記稿」は

村中に十條の道あり道幅凡二間、東方高座郡上相原村より來り、村内を經る事九町許にして上川尻村に達す、茲に原宿と云へるは村の東偏にて一區をなし編戸の民相對して軒を並ぶる事、四十四戸、往古より市を立て米穀及び庶物を賣買すること久保澤と相對抗して每月七の日を定日として市を立てり頗る賑はへり、縣中の村落この兩地の如くなるはあらす、人物も亦西偏山村の風俗とは同じからず、

(卷之百二十三 津久井縣卷之八、雄山閣版より)


相洋中学校校地脇の「久保沢道」標
ストリートビュー
と、こちらでも原宿集落で定期市が立っていたことを記しています。原宿の地名は上の久保沢の位置を示した地図でも見えている通り非常に至近にあったことがわかりますが、「久保沢道」は当然この原宿の市への道も兼ねていた訳です。また、ここを通っていた「道幅凡二間」の道については上川尻村の項では

村内に一條の道津久井往還にて、甲州への通路なり東西に亘れり、東方下川尻村より來り、村内を經ること廿四町にして西方中澤村に達す道幅凡二間、

(上記同書より)

と、この道筋が「津久井往還」の名で呼ばれていたことを記しています。そして、この道筋を東に辿って行くと橋本方面へと向かうのですが、その途上現在の相模原市立相原中学校の校地の一角にもやはり「久保沢道」の石標が立っています。つまりこの道も複数ある「久保沢道」の1つであった訳です。言わばこの両村が津久井への東からの入り口に当たっており、そこに2つの村が競って市を立てていたという格好ですね。

さて、それでは「八王子道」または「滝山道」の途上にあった他の各村々の人々には、この道はどの様に意識されていたのでしょうか。

淵野辺新田淵野辺分小割図解説
「淵野辺新田淵野辺分小割図」解説図
(「相模原市史」第2巻
498ページより)
「八王子道」の経由する村の1つであった淵野辺村では、文化〜文政年間に相模野の秣場を開墾して「淵野辺新田」を作るべく、境川対岸の木曽・根岸村と話し合いを重ねています。その際の区割りを記した「淵野辺新田淵野辺分小割図」という絵図が作成されており、「相模原市史」にはこれを翻刻したものが掲載されています(第2章 498ページ)。この絵図には淵野辺村が境川まで含んで描かれていますから、「八王子道」が通っていた場所も当然この絵図に含まれている筈なのですが、絵図に記されている道の名前(赤傍線を記しました)には「鎌倉道」「大山道」「当麻道」そして「新道」という名称は見られるものの「八王子道」はありません。

絵図そのものの目的は飽くまでも新たに開墾する淵野辺新田の区割りの位置を明らかにすることにありますから、村内の道は新田の位置を示すのに必要な分だけを概略で示しているとも考えられるのですが、区割りから離れた「大山道」や「鎌倉道」が記されている点と考え合わせると、「八王子道」が書かれていないことを説明するには不足がある様です。

つまり、この頃には既に「八王子道」は淵野辺村にとって、少なくとも主要な道筋とは言えない位置付けになっていたと言えるのではないでしょうか。恐らくこの絵図でも名前を記されていない道筋のうちの何れかが「八王子道」に該当するものと思われるのですが、そこに敢えて「八王子道」の名を記さずに済ませてしまう程度にしか、淵野辺村の人々には認識されなくなっていたということになりそうです。

では、この絵図が作成された文化文政期より後の、天保年間に編纂された「新編相模国風土記稿」では何故淵野辺村の項に「八王子道」が記されたのでしょうか。これは私の推測になりますが、恐らくは「風土記稿」の調査が村の由緒などを主に調べる方向を重視していたために、村が主な道筋を書き上げる際にもそうした由緒が伝わっている道筋を優先したのではないかと思います。つまり、当時の利用実態がどうであれ古道として伝わっている「八王子道」の方が、絵図には記載されている「当麻道」よりも優先的に書き上げられる結果になったということでしょう。


明治39年測図の1/20000地形図「上溝」に描かれた
「川尻・久保澤」集落(「今昔マップ on the Web」より)
明治時代に入っても比較的大きな集落を作っていたことが窺える
とは言え、嘉永7年の庚申塔が示す通り、この道は全く利用されなくなっていた訳ではなく、むしろ八王子よりは近い市への道筋として荷物を運ぶ道として位置づけ直されて使われ続けていたのでしょう。「迅速測図」などから判断すると、この久保沢への道筋は古淵付近で八王子道から分かれ(リンク先はこの分岐地点付近)、先ほどの淵野辺新田や上矢部新田など相模野の上で新たに開墾された新田の中を通っていく、八王子道よりは南寄りの道筋だった様で、八王子道と久保沢道が重なっていた区間はそれ程長いものではなかった様です。しかし、下鶴間の辺りでは既に八王子へと向かう道筋としては意識されておらず、主に久保沢の市との往復に使う道になってしまっていたために、呼び名もそちらが優先して使われる様になり、庚申塔を立てる際にもその呼び名が刻まれることになったのでしょう。

こうした事例を見ていると、江戸時代の中でも時代が下るにつれて人や物の動きが変わってしまい、それに伴って道の呼び名まで付け変わっていってしまうということが、あるいは起こっていたかもしれないという、ひとつの片鱗を感じることが出来る気がします。継立や旅人の向かった先と、言い伝えや道幅の示す交通量の「ズレ」は、これだけでは必ずしも流通網の変遷を読み取るには残念ながら十分ではありません。しかし、原町田や久保沢・原宿の様に、江戸時代を通じて発展していく市が周囲にあった状況下では、物の流れもそれに伴って変わっていったのは自然なことであり、それを送り届ける道筋の方も、そうした物の流れの変遷の影響を多少なりとも受けたということが、あったとしてもおかしくはないと思えるのです。

「上鶴間以北」と言いながら、未だ八王子に届いていませんが、この続きを書くのはまたしばらく先になりそうです…。



追記(2015/12/13):ストリートビューが正常に表示出来なくなっていたため、張り直しました。念の為にストリートビューへのリンクも併せて張っておきますので、表示が正常でない場合はそちらもお試し下さい。
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