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新編相模国風土記稿 vs. 新編武蔵風土記稿:東海道の継立の記述

滝山道の続きが相変わらず書けていないので、今回も資料集もどきということで。

先日、「新編相模国風土記稿」と「新編武蔵風土記稿」では、街道や継立の記述に関しては差があることを記しました。そこで、今回はそのことがわかりやすい東海道の各宿場の記述から、継立にまつわるものを拾って一覧にしてみることにしました。江戸から京へ向かう道筋順に並べ直しましたので、両風土記稿での出現順序とは違います。

江戸時代の東海道の研究に際しては、基本的には幕府が天保〜安政年間に作成したとされる「宿村大概帳」の方が主に参照されていると思います。こちらは全ての宿場についての詳細な記述が網羅されているためで、「新編武蔵風土記稿」や「新編相模国風土記稿」の方は、武蔵国や相模国内の各宿場について仔細に見る際に、「宿村大概帳」を補う形で参照されることが多いと思います。しかし、特に「新編相模」の方は東海道筋から内陸や三浦半島、あるいは熱海方面へと向かう道筋についても街道や継立の記述が網羅されており、その先の道筋を追うことも出来るため、相模国内の交通の状況が比較的比較的掴みやすいのが利点です。

ここでは、各宿毎に継立を司る問屋場の【所在】、【継立先】、宿場が常備すべき人馬の【定額】とそれに伴う貢税の【免除】、周辺各村からの【助郷】、そして【由緒】を記述した箇所に分類してみました。基本的には「風土記稿」中の記述を維持する様にしましたが、一部順序を入れ替えるなどの整理を施してあります。

これに対して、「新編武蔵風土記稿」の方では、品川宿こそ継立に関する記述が比較的豊富であるものの、川崎、神奈川、保土ヶ谷の各宿場については殆ど記述がなく、問屋場の場所も記載されていません。このため、この3宿については地子免除など継立に少しでも関連している記述を拾うのみに留まりました。事実上、宿場の由緒の記述で伝馬について少々触れたに過ぎないと言って良いでしょう。

そうした中で、品川宿の継立の記述は特に由緒や人馬の割り当てに関する記述が厚いのが特徴です。「新編相模」に比べると記述が宿内の各町毎にまとめられる傾向が強く、「新編相模」の様に継立に関する記述をまとめ直すと原文を大きく損ねることになるため、ここでは敢えてそこまで行わず、各項目の記述を拾うに留めました。また、南品川宿の「問屋場」の項に見える通り、ここから御府内を抜けて日光道中の千住宿や中仙道の板橋宿にも人馬を継いでいたことも記されていますが、これ以外の脇往還への継立の存在については特に記されていません。

「新編武蔵」から武蔵国内の街道や継立に関する記述を追う際には、こうした記述の密度を考慮しながら、出来れば他の史料と合わせて見ていく必要があるということになります。


【新編武蔵風土記稿】
  • Hiroshige02 shinagawa.jpg
    品川宿(卷之五十四 荏原郡之十六 〜 卷之五十六 荏原郡之十八)
    • 此地宿驛となりしは天文年中なりと云傳ふ、前に云大崎村天文十九年四月朔日の文書に、爲諸點役之替百貰文の地より六貫文掛に可出趣相定候、然者南品川五十貫七十七文、此役錢三貫文を前ひかへに致し、其員數程每月古河へ參夫馬を可調立云々、又曰北品川三十二貫二百六十九文、此役錢一貫九百三十五文云々と、又天正十四年十二月十八日の文書に、御印判なくして向後傳馬立る儀努々あるべからすなど見ゆ、御打入の後は慶長六年正月彦坂小刑部元正、大久保十兵衞長安、伊奈備前守忠次等東海道巡見の時驛場に定められ、驛馬三十六匹を定額とし、五千坪の地子を免許せらる、此時歩行人夫の數も定められしなるべけれど詳ならず、寛永十年より東海道五十三驛に傳馬人夫及繼飛脚等給米として、每年米千七百六十四石八斗九升五合を賜ふ、南北兩宿及歩行新宿分一年二十六石九斗なり、同十七年曾根源左衞円吉次、伊奈半十郎忠常巡見の時傳馬敷を增て百匹と定め、地子免許の地をも加へられ都て一萬五千坪となる、又歩行人夫百人と定められし年代詳ならざれど、寛永十年の頃ならんと云り、今傳馬百匹は南北品川宿より出し、人夫百人は南北兩宿及歩行新宿、南品川の内海晏海雲品川長徳等四寺の門前町より出せり、此餘小役人足と稱し總て宿觸等のことを勤る人夫四十八人を出す、是は南北兩宿の内所持の田畑少く、本傳馬役勤めがたき者の課役なり、又當宿助鄕を出す村々は、郡中四十九村、豊島郡の内十二村なり、是正德六年定めらるゝ所にて、當時は定助鄕大助鄕など別ありしが、享保十年都て定助鄕と唱へ、其半を分て隔年に勤むと云、此外當分助鄕と稱するあり、享保十六年は二十ケ村と定められしが、明和九年ニヶ村を内藤新宿の助鄕に改られ、今は豊島郡の内八ヶ村.橘樹郡 内十ヶ村なり、又正德の頃より每年御茶壺往還の時、南品川の内海藏常行妙國本榮蓮長妙蓮願行等七寺の門前町より、先拂の人夫十三人を出すを定例とす、
    • ◯南品川宿 …傳馬の定額百匹の内、當宿にて其半を出す、こは戸每に七分二厘の積にて、宿内六十九軒半の課役なり、又人夫百人の内八入半を出す、こは歩行役の百姓八軒にて各一人を出し、半人は小役の者より勤む、其餘は當宿に續きし海晏寺門前より二人五分九厘四毛、海雲寺門前より二分五厘五毛、品川寺門前より一人九厘、長德寺門前より六厘一毛、總てこの四門前より人夫四人を出すこと寛文五年寺社奉行井上河内守正武が指揮にて始る、此門前町屋往還の路傍にありて行客の助成あるが故なり、又小役人足四十七人の内二十六人を當宿より出せり、二十六人の内一人は隣村二日五日市村より勤む、
    • (南品川宿内)問屋場 改所に續けり、屋坪二十六坪餘、川崎驛迄二里半、江戸日本橋より二里半、人馬の繼立を勤む、又千住板橋の二驛に繼送ることもあり、よりて百匹百人の人馬を置、一萬七千四百十四石の定助鄕、三千三十九石の加助鄕を宛らる、元は南北品川の二所にありしが、改所同時に北品川の方は廢せり、寛文五年高木伊勢守守久、妻木彦右衞門賴照、岡田豐後守善政等指揮し、問屋給米七石を賜ひしより、今に至て貢米の内にて宿役人等に宛行はる、又享保中長谷川庄五郎命を奉り人馬の扶助金四百七十二兩二分を賜ひ、其金は郡代役所の進退として貸し、利息子を以傳馬役夫に給す、又安永年間夫馬の賃金三割增を命ぜられし其餘財を積で五百七十七兩を得、亦貸附とし息子の八分を前と同じく傳馬夫役の用に充て、二分は本陣脇本陣の費用に賜ふ、されど宿内次第に窮困に及びしにより、外に貯金千三百兩をも寛政中願上て貸附に加へ、是も年每に息利を得て其不足をおぎのふといふ、
    • ◯北品川宿 …傳馬定額百匹の内其半を當宿より出す、こは戸每に七分四厘の積にて、宿内六十七軒半の課役なり、人夫定員百人の内二人半、及小役人足四十七人の内二十一人をも出せり、
    • ○品川歩行新宿 …古は北品川善福寺門前法禪寺門前及新町と唱へし茶屋町にて、酒食のみを商ひ、品川宿及歩行人夫百人の内、年每に此地より一萬二千人の課役を勤め、次第に窮困せしを以て、享保中本宿に加はり驛舎を置んことを願上しかば、同七年十二月彦坂壹岐守治敞、筧播磨守正舗、荻原源左衞門義雅.杉岡彌太郎能連、辻六郎左衞門守三等連署の狀を下して其願を許せり、是より南北品川宿と同く宿役を勤む、是に於て古名を廢て今の名に改む、今人夫百人の内八十五人を當宿より出せり、こは戸每に八歩六釐七毛の積にて、總て九十八軒の課役なり、又宿内北の方三町目の東側表間口二十三間餘、歩數八十六坪三合の地は、寶永三年十一月十六日、芝田町五町目の代地に賜りし所にて宿内に加れり、されど貢税は田町の進退による、
  • Hiroshige02 Kawasaki.jpg
    川崎宿(卷之七十二 橘樹郡之十五)
    • 相傳ふ昔は今の宿内の地、大抵砂子、久根崎二村の地なりしが、御打入の後長谷川七左衞門長綱承にて町の地割を改め、人馬の役を命ぜり、此時土地のさま大に古を變ぜり,されど其頃の町家は今の砂子久根崎の二町のみにて、南の方小土呂町と砂子久根崎の間新宿町の地とは、猶繩手なり、此時よりして人馬の役ありといへども、それも神奈川品川二宿の間、往來の人馬を僅に給するのみにて、旅宿などはあらざりしが、此二宿の間五里の行程を隔てゝ、とかく旅人の便あしけれはとて、寛永四年命ありてつひに宿驛とは定められき、ときに宿の戸數乏くして役にたへす、願上て小土呂新宿の二村をも宿内へ加へしより、今の如く四ヶ町となりしと、これによれば御打入より前に宿内の地四ヶ村なりしを、寛永年中より合せて一宿とせしといはんか、按に川崎の地名は古きものに見えたるもあれど、四ヶ村の名は多く見えず、恐らくは古來四ヶ村を總て川崎鄕と唱へしを、後に其内の小名をもて砂子村、小土呂村などゝは唱たりけん、それを一旦四ヶ村に分ちたれど、後に又合せて一宿とせしなるべし、…今宿内旅宿四十四軒、總軒別百五十一烟なり、地子免の地三町三段三畝十歩にして、其左右に耕地あり、
  • Tokaido03 Kanagawa.jpg
    神奈川宿(卷之七十 橘樹郡之十三)
    • 今は靑木町神奈川町のニヶ所をあはせて一宿とし、すべて神奈川宿と稱せり、地子免屋敷一萬坪を賜はる、内五千坪は靑木町の地なり、この一萬坪段別三町三段三畝十歩に當る、これを以家別百軒にわかち、傳馬の役に給すべきの旨を定めをかるゝ所なり、然るを今は事の繁多になり來りたるを以、二百軒として軒別一畝二十歩の地をうけ、その税務の代として日々に馬百匹人夫百人を出すを定數とせり、
  • Tokaido04 Hodogaya.jpg
    保土ヶ谷宿(卷之六十九 橘樹郡之十二)
    • 慶長六年の頃までは道中の馬繼藤澤より保土谷に至り、夫より神奈川にて繼、其後戸塚川崎馬次となりしと云、
    • 舊家名主苅部淸兵衞 …今の淸兵衛が父淸兵衞の時年頃宿役のことに心をもちひ、傳馬宿次の指揮もおこたらざりしかば、天明八年八月二十九日伊奈攝津守よりきこゑ上て、白銀そこばくを賜ひ、其身一代は帶刀すべく、又今より以後子孫永く苗字を名乗べきよし免されて褒賞ありしといへり、

(以上、雄山閣版より、…は中略、なお、参照した版で印刷の不正により一部判読不能となっている文字については空欄とした相武史料刊行会版を参照して補った)


【新編相模国風土記稿】
  • Tokaido05 Totsuka.jpg
    戸塚宿(卷之九十九 鎌倉郡卷之三十一)
    • 【所在】○問屋場 一は中宿、一は吉田町此地は、元當宿の域内たれども、移住せしより、やがて吉田町唱へ、原村をば、元吉田町或は元町と呼べり、にあり、毎月朔より十一日迄吉田町十一日夜より月盡迄中宿にて事を執る問屋役四人、年寄七人、帳付十人、人馬指十二人、此事に預れり、又月次、當宿十九日、吉田町七日、矢部町四日と割定め、
    • 【継立先】東海道は西方藤澤宿高座郡の屬、へ二里東方保土ヶ谷宿武州橘樹郡の屬、へ二里九町の人馬を繼ぎ、又鎌倉雪ノ下迄二里九町の脇道を繼送れり、
    • 【定額と免除】抑當所は慶長九年台命に因て始て三十六匹の駄賃馬及び人足の場と定められ、三千六百坪の地子を免され、元和二年更に申乞に依て御傳馬次を命ぜらる、後隣村吉田・矢部の兩町を加へられ、戸塚三町と唱へ宿驛の事を交り勤む、寛永十年三月繼飛脚給米として二十三石六斗を賜ふ、同十五年より人夫百人、馬百匹を定額とせられ先の地子免を増加し、凡て一萬坪を免除せらる數内六千六百六十七坪、當宿分、餘は吉田・矢部兩町分なり寛文五年十二月より問屋給米として七石を賜ふ内六斗六升六合、當宿分、餘は吉田・矢部兩町分、

      ※この他、戸塚宿を構成する他の2町にも次の記述が見える(どちらも卷之九十九 鎌倉郡卷之三十一)。

      • 吉田町:中古已來戸塚宿に加はり御傳馬次を勤むるに因り二千坪の地子を免され、問屋給米一石四斗を頒ち賜ふ宿驛の事は本宿の條に詳なり、
      • 矢部町:當村戸塚宿に加はりて御傳馬次を勤むるに因り千三百三十三坪の地子を免され、問屋給米九斗三升四合を頒ち賜ふ事は戸塚本宿の條に詳なり

    • 【助郷】近隣定助鄕を勤むるもの三十六村なり、其餘二十一村を加助鄕に宛らる、
  • Tokaido06 Fujisawa.jpg
    藤澤宿(卷之六十 高座郡卷之三)
    • 【所在】○問屋場 一は大久保町一は坂戸町にあり、連月一旬を期として互に事を取れり問屋役二人年寄四人帳付六人馬指役八人此事に預れり、
    • 【由緒】宿驛を置れし年代は詳ならざれども、慶長年間當所より直に武州橘樹郡程谷宿へ繼送りし事、同所民淸兵衛所藏文書に見えたり曰、御傳馬之定上口者藤澤迄、下は神奈川迄の事右相定、上者相違有間鋪者也、慶長六年正月伊奈備前彦坂小刑部大久保十兵衞、又一通曰、路次中駄賃之覺ほどがやより藤澤迄、荷物壹駄四拾貫目に付永樂拾八文云々、慶長七年六月十日ほどがや町中奈良屋布右衞門たる屋三四郎各華押あり、
    • 【継立先】今は東海道は鎌倉郡戸塚宿へ二里、大住郡平塚宿へ三里半の人馬を繼ぎ、又武州八王子道は龜井野村へ一里九町、大山道は一之宮村へ三里、鎌倉道は鎌倉郡雪下村へ二里、江島道の同所へ一里餘の脇道を繼送れり、
    • 【定額と免除】人夫百人驛馬百匹を定額とせられ、一萬坪の地子を免除せらる、其餘問屋給米として七石、繼飛脚給米として三拾二石壹斗五升を賜ふ、

      ※高座郡瀨谷野新田の項に、藤沢宿の伝馬の助成に関連して次の記述が見える(卷之百二 鎌倉郡卷之三十四)。

      • 古は茅原にて藤澤御殿ありし頃は萱千駄を刈て奉り、且貢金七兩貳分を納む、此事初より藤澤宿の進退なり、然るに江戸の商家此地を賜はんには四倍の運上金を奉るべきよしを乞申せしかど猶舊に仍て藤澤宿の進退となされ、年每に貢金十六兩を彼宿より上納せしめ、そを直に傳馬助成の料として又彼宿に賜へる事とはなれり、其後開墾の事成り、享保十年日野小左衞門檢地して貢數を定め高百五十一石五斗七合今の村名を負せ藤澤宿の持添となれりと云ふ、

  • Tokaido07 Hiratsuka.jpg
    平塚宿(卷之四十八 大住郡卷之七)
    • 【所在】◯問屋場 一は二十四軒町と、東仲町の間にあり、一は西仲町にあり、旬日を以て代り勤む、
    • 【継立先】役夫驛馬の繼立は藤澤宿へ三里半、大磯宿へ二十七町なり
    • 【助郷】當宿定助鄕、郡中四十四村、愛甲郡一村、都て四十五村、土人は四十六村と云、是は沼目村小名池端村を別村として數ふる故なり、加助鄕、郡中六村、愛甲郡十二村、都て十八村なり、
    • 【定額と免除】一萬坪の地子を免され、且每年米三十二石四升を賜ひ、繼飛脚及び問屋給米に宛らる繼飛脚給米二十五石四升、問屋給米七石、
  • Tokaido08 Oiso.jpg
    大磯宿(卷之四十一 淘綾郡卷之三)
    • 【所在】◯問屋場 一は南本町にあり、南組と唱、間口五間、一は北本町にあり、北組と唱、間口三間半、旬を期として相交り勤む、問屋年寄一人宛、帳付四人、人足役馬指共二人宛、日々交代して事を執る、
    • 【継立先】東海道の人馬、西方足柄下郡小田原宿へ四里、艮方大住郡平塚宿へ二十七町を繼送る、又同郡田村へ二里半の脇道是は東海道の大路隣郡平塚宿地内にて北方に分るる岐路なり、八王子道と云、を繼送る、
    • 【定額と免除】人夫百人、馬百疋を定額とし、傳馬役地子一萬坪を免除せらる、免除の年代、寛文以前のことと傳へて詳ならず、…問屋給米七石、寛文五年より賜ふ、又寛政十年より、繼飛脚給米二十八石九斗二升を賜ふ、安永三年十一月、當宿困窮の聞えありて、七ヶ年の間賃錢四割を增賜へり、期年の後、二割增に定られ、文化七年十月、又三割を增加し、今は五割增となれり、
    • 【助郷】定助鄕、高一萬千五十六石は、元文三年六月證書を賜ふ、此村郡中十三村、大住郡十五村、都て二十八村なり、又加助鄕、高三千四百八十二石八斗九升六合此村郡中一村、大住郡十六村、總て十七村なり、を以て、其役の助けとす、
  • Tokaido09 Odawara.jpg
    小田原宿(卷之二十四 足柄下郡卷之三)
    • 【所在】一は中宿町に在、上と唱ふ、表間口五間、一は高梨町に在、下と云同六間、旬を期として、相代り勤む、
    • 【継立先】東海道西の方は箱根宿まで四里八町、驛馬を繼ぎ、豆州三島驛まで八里、人夫を繼立り、筥根驛は山中に在て人夫に乏しきが故なり、東方は淘綾郡大磯宿へ四里人馬を繼、熱海道は官事を帶て往來すれば、土肥吉濱村へ人馬を繼、其道程四里、私事の往來は、豆州熱海村まで人馬を繼途れり行程七里、甲州道も、官事は多古村へ一里、私事は塚原村まで二里の人馬を繼立り、又筥根溫泉、湯本・塔之澤各二里、宮ノ下三里半、堂ヶ島・底倉各四里、木賀四里半・蘆ノ湯へ四里十一町の人馬を繼途れり、
    • 【定額と免除】傭錢の數、寶永四年、宿々一圓二割增を命ぜられ、文化三年三割を增加して、都合五割增となれり、傳馬役、地子一萬坪を免除せられ慶長六年、驛馬の定額三十六疋分、三千六百坪を除かれ、寛永十五年、驛馬六十四匹の定額を加へられし時、六千四百坪を免さる、人夫百人馬百疋を定額とし、…且問屋給米七石數内、問屋二人へ四石九斗、人足肝煎二人へ二石一斗宛頒配す、寛文五年十月五日、宮崎六郎右衞門承りし以來年々賜ふ、豆州韮山御代官所貢税の内にて賜はれり、又當宿よりの繼場嶮遠なるを以て、百二十五石七斗四升七合、寛文九年より賜ふ、領主より與へ、宿中へ配賦す、此外御救米と稱し、百五石、正德二年より賜へり、韮山貢税の内にて賜はり、人馬の役を勤るものに割與ふ、【月堂見聞集】正德二年の條曰、相州小田原宿は、大磯箱根の馬繼、道の程も遠く、殊に箱根の事海道にて難所につき、人馬共相疲候上、先年大地震の時、人家大半燒失に及び、死傷の者も有之、重て難義に及び候段達上聞、自今以後御救として、唯今まで年々被下候外に、一ヶ年米三百俵宛被下之、
    • 【助郷】定助鄕、高二萬九千六百二十六石、足柄上下郡、大住郡一村、都て百十三村、加助鄕、高一萬二千三百九十九石八斗五升足柄上下大住・淘綾四郡の内八十二村、をもて、其役を助く、
    • 【由緒】北條氏の頃、鎌倉より當宿まで往返の傳馬を勤し印狀あり、扇谷村民齋宮藏文書曰、傳馬一疋可出之、佛師被召寄に付而被下、可除一里一錢者也、仍如件、酉十月十三日、自鎌倉小田原宿中、安藤奉之、朱印あり、又鎌倉大工惣左衞門藏文書曰、傳馬一疋可出之鎌倉の番匠に被下、可除一里一錢者也、仍如件、亥九月五日自鎌倉小田原迄宿中、安藤奉之、朱印、
    • ◯御用物繼所 本町にあり、寛永十年より繼飛脚給米八十六石八升を賜ふ、韮山御代官所より賜はれり又萬町に紀伊殿繼所あり、俗に七里役所と云、海道筋七里每に建置れ、江戸より和歌山への急便に備へらる所なり、
  • Hiroshige11 hakone.jpg
    箱根宿(卷之二十七 足柄下郡卷之六)
    • 【所在】○問屋場 三島・小田原兩町にあり、十日を期とし相代りて勤む、
    • 【継立先】西は三島宿へ豆州の屬、三里十八町、東は小田原宿へ四里八町の繼場なり、
    • 【定額と免除】傳馬百匹を定額として、行李を繼合へり、歩行人夫は、三島・小田原兩驛にて互に繼越をなし、當宿にては關はらず、人夫は御狀箱御用物のみを繼送り御關所人足をば、當宿より出せり、是山間の僻邑にて、近村其役を助るものなければなり、往還繁劇の時は、近村にて傭馬をなし是を辨ず、寛永十年より年每に、東海道の驛家に、傳馬人夫及繼飛脚等の給米を賜はれり、當所の分は七十六石六升なり、又寛文五年より問屋給米七石を賜ふ、其後享保六年七月、彦坂壹岐守治敝、筧播磨守正舗、萩原源左衛門義雅、杉岡彌太郎能連、辻六郎左衛門守る三等奉り、宿内傳馬役を勤むるものに、年每に米三百俵を下行あり、是は當驛田圃なく、行客の助成のみなるを以て、販給せられしなり、以上の給米は、每暮皆豆州韮山役所より宛行へり、
    • 【助郷】(明記ないが上記「近村其役を助るものなければなり、」がこれに該当)

(以上、雄山閣版より、各項目毎のリスト化と引用文献以外の【】内注釈はブログ主、なおリスト化に際して多少順序を入れ替えた箇所あり)




追記(2014/06/18):当初神奈川宿の引用については、参照した本では2箇所ほど判読不能となっていた文字があったために該当箇所を空欄としていましたが、その後国立国会図書館近代デジタルライブラリーで公開されている相武資料刊行会版で欠落箇所を確認できたため、改めてそれらの文字を補いました。
(2016/02/12):戸塚宿の項に吉田町・矢部町の記述を追記しました。
(2016/02/29):藤沢宿の項に瀬谷野新田の記述を追記しました。

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