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上鶴間村以北の滝山道(その1)

以前江戸時代の滝山道を藤沢宿から下鶴間村まで追いました。ここから北の道筋がどうなっていたかなのですが、当時の実情がなかなか十分に掴めずにいます。差し当たり、わかったことを書き並べてみようと思います。

今回も「新編相模国風土記稿」の記述からスタートします。「下鶴間村」の記述は以前も紹介しましたが、改めてここで引用します。
下鶴間:今でも黒塀の屋敷が残る
下鶴間の黒塀の屋敷(再掲)

當村矢倉澤道、八王子道の驛郵にて、人馬の繼立をなせり矢倉澤道は幅四間、東の方人夫は武州鶴間村、道程五町、傳馬は同國長津田村、道程一里餘、二所繼立のことを司れり、西の方は人馬共に郡中國分村、道程二里に達す、八王子道は幅二間、南方長後村、道程二里一町四十八間、北方は武州多磨郡原町田村に繼送れり、道程一里四十八間、又八王子道、村内にて二條となり、隴間一條を古道と唱へ土人横山道とも唱ふ、北の方上鶴間村界にて前路に合す

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)


これを受けて、下鶴間村の北に隣接する上鶴間村(現:相模原市南区上鶴間・上鶴間本町)から「八王子道」あるいは「滝山道」に関する記述を拾ってその先を追うと、次の様になります。
  • 上鶴間村:

    「八王子道村を通ず幅三間

  • 鵜野森村(現:相模原市南区鵜野森):

    「八王子道、南北に貫けり幅三間許

  • 淵野邊村(現:相模原市中央区淵野辺・淵野辺本町):

    「矢倉澤八王子道の二路共に幅三間村内を通ず、」

  • 上矢部村(現:相模原市中央区上矢部・矢部新田他):

    「八王子道東西に貫り幅二間、

  • 小山村(現:相模原市中央区小山・宮下本町他):

    「瀧山道村の中程を貫き西界にて北に折れ、武州小山村に達す、

(何れも卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より、強調はブログ主)



このまま橋本宿に向かうのかと思いきや、小山村の西の端で北へ曲がって武蔵国へと入ってしまうことが記されています。橋本村の記述を見ても、

八王子道係れり幅二間當所其繼立をなせり人夫四人、傳馬二匹を定員とし、北方武州多磨郡八王子、南方郡内、當麻村へ各二里八町を繼送れり、

(卷之六十七 高座郡卷之九、雄山閣版より)

と、「八王子道」とは書かれているものの、南は当麻村へと向かっていることを示唆していて藤沢方面への道があることは記されていません。もっとも、「迅速測図」を検討する限り、橋本宿の南端から東へ向かう道筋があり(現在の神奈川県道505号線と国道16号線の交差点付近)、この道筋が小山村に入って滝山道の筋に合流しています。


明治39年1/20000地形図「長津田」から下鶴間付近
(「今昔マップon the web」より)

まず、この道がどの辺を通っていたのかを突き止めてみましょう。「迅速測図」などを手掛かりに下鶴間宿からの道を辿ってみます。「迅速測図」では宿場の中程から北へ向かう「至原町田村」と記された道があり、上の明治39年の地形図でもほぼ同じ位置に北へ向かう道筋が見えています。この道は「迅速測図」で「至藤沢駅」と記された辺りの三叉路でふた手に分かれますが、このうち左手、つまり西側の道筋が八王子方面に向かう道筋です。一方、東側の道筋は下鶴間村からの継立を検討する際に追うことになります。


下鶴間宿からの道の三叉路に立つ庚申塔
ストリートビュー


旧浅間社・富士塚跡(ストリートビュー
国道16号の整備に伴って浅間社は移転した
この三叉路の角には今もストリートビューに見える通り庚申塔が立っています。この庚申塔は嘉永7年(1854年)の日付をもち、「右原町田八王子みち/左くほさハみち」と刻まれています。つまりこの庚申塔は道標を兼ねており、ここが古くからの道筋であることを物語っています。なお、「くほさハ」が何処の地名を指しているのかは未確認です。「さハ=沢」と言うからには何処かで谷戸地形を越える様にも見えてしまいますが、実際はここから先の道筋に谷戸らしい地形は武相国境を越えるまでありません。

また、このストリートビューの位置の背面には国道16号線が見えています。滝山道はこの辺りからこの国道16号線に時に重なりながら並行して相模原台地の上を北西へと向かいます。と言うより、この道が直線化されて経由地を変えながら、国道16号線として首都圏の環状道路の一角に組み入れられて現在に至る訳ですね。近代の道路交通網の整備の過程で江戸時代までの古い道筋の位置付けが変更されたことになります。現在もこの国道と重なっている区間の周囲に旧道の痕跡が残っています。

また、この国道の整備に伴って、かつてこの滝山道の脇にあった浅間社(現・浅間神社)が下鶴間宿の南側に移転し、跡地には富士塚跡を示す石碑のみが残されています。これも、当時の道筋を偲ぶ手掛かりと言うことが出来ます。

一方、最初に引用した「風土記稿」の下鶴間村の記述にある通り、滝山道は下鶴間村でふた手に分かれ、西側の道筋が下鶴間村を通らず台地の上を通過することについては以前も紹介しました。この道筋は現在は区画整理によって大半が失われていますが、国道16号線付近の曲線の坂道の区間が残されており、周囲の直線的に整理された区画の北端にあって、ここが古道であることを主張するかの様です。

滝山道:下鶴間宿から脇道を経て相模原市内を経由
滝山道の相模原市内の道筋
(「地理院地図」に「ルートラボ」で作成したルートを取り込み
加工したものをスクリーンキャプチャ
明治期の低湿地」を合成)
ここから先の道筋を、大筋でルートラボ上に引いてみました。この区間では境川の段丘のすぐ上の平坦地を進んでいることがわかります。標高グラフを見ても相模原台地のなだらかな地形のお陰で標高の変化が緩やかであることが窺えます。「迅速測図」などに見られる様に、この道の周辺は畑や桑畑が多かったものの、道筋に沿って各村の集落が連なっている区間があったことが窺えます。今もこの道沿いには、敷地の広い古い民家が点在しています。地下水が非常に深い位置にある相模原台地にあって、比較的水利の良い所を経由していたことになるのでしょうか。今回はこの沿道の集落の水利についてまでは調べ切っていませんので、この点は今後改めて見てみたいと考えています。

道幅については、上鶴間村から淵野辺村にかけては3間(約5.4m)、その先では2間(約3.6m)であったことが「風土記稿」に記されています。これは脇往還としては比較的広い道幅ということになるのですが、これをもって比較的交通量が多かったと考えて良いかは何とも言えません。この問題については次回改めて取り上げます。

なお、淵野辺から小山にかけての区間は、その多くが相模原補給廠などの敷地に飲み込まれ、道筋が消失しています。現在の国道16号線は、これらの施設を避けて南寄りを直線的に進むように計画されたことが窺えます。また、現在の古淵駅付近でも横浜線の開通に伴って一部道筋が消えている区間があります。

「風土記稿」の指摘する小山村の西境で北に折れるポイントですが、現在の相模原市中央区と緑区の区境に残る道筋がここに当たると考えられます。ただ、かつての小山村の範囲には現在の緑区東橋本の区域が含まれていますので、その点ではここは「西の境」と考えるには少々苦しい位置ではあります。


現在の境川・蓬莱橋付近(ストリートビュー
左の民家の陰に二十三夜講の祠が見えている
この道に沿って境川に降りると、現在は「蓬莱橋」と銘打たれた橋が架かっています。ここはかつては精進場で橋の名前も「精進橋」という名であったことから、確かにこの道筋が巡礼など村の外部からの旅人の往来に使われていたことがわかります。因みに、同地の伝承ではこの精進場は「あずきとぎばばあ」が出たために、穢れがついて渡る人もなくなってしまったたとされ、事態を重く見た村の名主が安永10年(1781年)に講中の願主となって二十三夜講を祀って橋供養を行ったと伝えられています。橋の名前もそれに伴って「蓬莱橋」へと付け替えられた様です。境川の流路は近年の治水工事に際して直流化が進められたために多少位置が変わっていますが、今も橋の近くには二十三夜講の菩薩が祀られた祠が立っています。

この橋を渡った先で現在は町田街道などと呼ばれる様になった道に少しの区間合流し、そこから鑓水方面の道へと入ります。この辺りからの道筋の検討からは次回以降に廻しますが、その前に次回は下鶴間村からの継立の行き先を検討するところから始めます。



追記(2015/07/22):「ルートラボ」の地図を「地理院地図」上で加工したものと差し替えました。また、3枚のストリートビューを何れも2011年時点のもので固定しました。
(2016/01/15):再びストリートビューを貼り直しました。

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この記事へのコメント

- matu8 - 2014年05月13日 13:42:27

こうした道を上杉や武田が通過したわけですね。道筋に粗末なとりでや出城があり、そこに住む土地の者が守ったわけです。北条から馬周り衆とか呼ばれて。それはj誇りでした。

- kanageohis1964 - 2014年05月13日 14:26:08

こんにちは。コメントありがとうございます。

そうですね、戦国時代に関しては相州小山村が伝える通り、この道筋を滝山城と玉縄城の往来に使ったのでしょう。
課題は、そういう道が江戸時代に受け継がれてどうなっていったか、という辺りなんですよね。どうも一筋縄では説明が出来ない状況ではあった様で…その辺りを今もう少し掘り下げようとしています。

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ケノーベル エージェント - 2014年05月11日 09:14

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