【旧東海道】その14余録2 元禄地震・宝永地震・宝永大噴火と小田原

ファイル:1703 Genroku earthquake intensity.png - Wikipedia
元禄地震の震度分布(Wikipediaより)
ここまで、小田原宿の成立の歴史を「小田原大海嘯」と重ね合わせて見てきました。他方、その少し前に内閣府防災担当のまとめた元禄地震の報告書宝永大噴火の報告書を紹介しましたが、それらの中でも小田原での被害状況が取り上げられています。その一部は紹介の際に既に取り上げていますが、ここで改めてもう少し掘り下げてみようと思います。

元禄16年(1703年)に起きた「元禄地震」の際の記録としては、梨木祐之の著した「祐之地震道記」が相模国内の東海道筋の貴重な記録として重要視されていることが「元禄地震報告書」でも紹介されています。概要は同報告書内の「第6章第1節 『祐之地震道記』の跡を辿る(東海道、戸塚〜小田原)」(184〜190ページ)や「第8章 小田原地域の被害状況と復旧に向けての対応」(235〜237ページ)などでまとめられていますが、ここではまず、「祐之地震道記」の小田原付近の原文を、少々長くなりますが引用します。

酒匂川の土橋落て、徒渉の人夫をやとひて、川を越たり。是より小田原にさしかゝる。駅の入口の番所顚倒せり。城も焼亡、宿中類焼せる焼亡の跡、墓も残らずみゆ。されど人馬の骸骨は、所々にみちみちてみゆ。目もあてられぬ有様也。臭気風にみちて、旅客鼻を擁して過ぬ。駅の中程、せうけん明神の社有。社も顚倒せず。鳥居、朱の瑞籬、類焼せずして残れり。駅家も地を払焼亡したりに、此社残御座事、神威のいちじるしき事、仰ても恐たふとむべし。また駅の上り方の山上に、天神の社有。これも傾倒せずしてみゆ。駅の南北の入口は類焼せざれども、一つとして柱の立たる家はなし。

駅の人に尋ねたりしかば、宿中男女千六百人程命を失ふ。往還の旅人は数もしらず。たまたま家を逃出たる者は、海辺に逃迷ひて潮にとられたる、その人数いかほど有ともしらず。家頽て籠の中の鳥のごとく、出ん事もかなはず。声を上て呼さけべども、たすくる者もなく、其内に火焔しきりに及びて、焼死たり。駅馬も残らず斃れり。その内に、廿二日の夜半時分程に三度、荷をおほせて行たる馬二疋、途中にて地震にあひたりしが、不思議にも馬も人も命をたすかれたりとぞ。

其他商人の(者カ)、飛脚の輩、此宿に泊たる者、生残たるは、十に一二なりとぞ。駅中海道の中は水道也。其水道裂破て、足を立るにさだかならず。焼亡の折節、水道の上は、水路溢て、下は水不通、火を消滅するに、便を失へりとぞ。小田原大地震は、七十一年(寛永十年)以前に有と古老語り侍る。小田原合戦は、百弐拾(拾弐カ)年以前の(七カ)月一七日の事也。其後築たる城也しが、此時焦土と成ぬ。浅ましき事也。駅の人語侍る。

(「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」147ページより引用)


この記述から、当日の小田原宿では地震による建物の倒壊やその後に発生した火災によって多数の死者が出たことがわかります。また、津波については難を逃れて浜辺に出てしまった人たちが攫われたことを記されていますが、「その人数いかほど有ともしらず」と津波による被害者の数は不明であることを書いています。

他方、その4年後の富士山の宝永大噴火の際の小田原の様子について、「富士山宝永噴火報告書」の記述を以前の記事で引用しました。その箇所を再びこちらに掲げます。

『蔵人日記』にも、

「小田原中ニ壱人(ひとり)も無之。津殿(波ヵ)(まいり)候とてそう動(騒動)仕候。其内女壱人有之家有之故」

とある。小田原の住民は津波を恐れていたようで、資材・雑具を土蔵や穴蔵に入れてどこかに逃げ去り、各家に1~2人の番人を残していた。強い空振によって戸が外れ、暗闇の中、噴火雷の稲光がひっきりなしに輝く不気味な情景が描かれている。…

小田原は、元禄16 (1703)年の元禄関東地震で大きな地震動と津波の被害を受けた。その後、宝永4(1707)年の宝永地震でも、津波の被害こそ報告されていないが、地震動による多少の被害を受けている。そのわずか49日後の宝永噴火の開始であり、噴火初日から小田原で空振、噴煙による暗闇、噴火雷、降灰が記録されている。その初めて経験する異常な状況に、恐らく人々は津波の再来の前兆を感じ、夜通し寝ずに恐怖していたのではないだろうか。

その3日後の11月26日(12月19日)になって、近江屋文左衛門子息の平八が箱根を越えて小田原にたどり着いた。平八は26日の小田原の状況を『伊能勘解由日記』に、

「廿六日夕小田原ニ泊候(ところ)ニ、町中男女(ならびに)旅人共ニ、津浪入候事無心許(こころもとなく)存、夜中ふせり不申候由」

と書いている。23日から3日を経てもなお、小田原の住民が津波を恐れて夜通し起きていたことが記されている。

(同書65ページ、…は中略)


この2点を読み比べると、小田原宿の人々は4年前の元禄地震の際の記憶から、宝永大噴火の際には予兆を感じ取って事前の避難行動を取った様にも見受けられます。しかし、元禄地震の津波については「祐之地震道記」では宿内にまで及んで被害を齎した様には記述されていません。そうなると、4年前の津波の被害を小田原宿の人が殊更に恐れていたとするのは少々不自然である様にも思えます。他方、大半の町人が避難してしまったために宿場が機能不全に陥ったことを重く見た藩主が、津波の襲来については見張りを立てて見つけ次第知らせるからと説得に廻ったことが「富士山宝永噴火報告書」にも記されていますが(同書75ページ)、このことは藩主も町人が津波を恐れるのは無理からぬ事と理解していたことを裏付けています。こうした判断がどうして生まれたのか、もう少し掘り下げてみる必要があるのかも知れません。

もしや、梨木祐之は小田原宿内の津波の被害の痕跡を見逃したのでしょうか。著者の梨木祐之は京都の神官という高い知識を持っていたと考えられる人ではありますが、地震によって生じる様々な被害の痕跡を見て仔細にその原因を分析する様なスペシャリストではなかったのですから、帰路通りすがった街道筋で、倒壊した建物の様子を見て何処まで原因を識別し切れたかは確かに疑問です。無論、焼け焦げた跡があれば火災によるものであることくらいはわかるでしょうが、地震による倒壊の跡と津波によって倒壊した建物を見分けることまで出来たかどうかはわかりません。因みに彼らが小田原に到達したのは地震から4日が経っており、その頃までは津波による浸水は引いていたでしょう。

(その5)でも見た通り、特に新宿付近は標高が5mほどしかなく、しかもそのすぐ東に山王川が流れていますので、海沿いの防潮堤もその河口までしか及んでいません。現時点では小田原付近での元禄地震の津波は4mほどと見積もられています(「元禄地震報告書」6ページなど)が、もし「祐之地震道記」が津波の痕跡を識別できずに新宿などで津波による被害があったのだとすれば、実際の津波はもう少し高かったのかも知れません。もしもそうだとすれば、宝永大噴火の際に小田原宿の人が津波を恐れたのは、その4年前の記憶があったからという可能性も出て来ます。

しかしながら、この説の難点は、梨木祐之は自分の目で見たものだけを記しているのではなく、方々で関係者から見聞きした情報を併せて記していることです。「祐之地震道記」は「駅の人」の証言として小田原宿の死者を1600人ほどと記していますが、この数字はかなり確度が高いものであったことが「元禄地震報告書」に記されています(227〜228ページ「1 小田原藩領内の被害について」)。とすれば、祐之が問い合わせた「駅の人」は宿役人など宿場内の被災状況を俯瞰出来る地位の人であった可能性が高く、実際祐之はその様な地位の人とコンタクトできる立場にあった人でした。もし宿内に津波による被害が相応にあったのであれば、その報告をこの様な立場の人が聞き漏らしているとは考えられませんから、その状況は祐之にも伝えられていたでしょう。とすれば、やはり元禄地震の津波は辛うじて小田原宿内までは届かなかったのかも知れません。

東海道分間延絵図:小田原宿江戸口付近
東海道分間延絵図:小田原宿江戸口付近(再掲)
もっとも、「東海道分間延絵図」に見られる通り、小田原宿の江戸口付近では道の真中に水道が掘られており、その下流は山王川と接続されています。更にこの地域は小田原宿内でも特に標高が低く、この位置関係であれば、あるいは山王川を遡上してきた津波が水道へと逆流する状況は考えられなくもありません。分間延絵図は江戸時代後期に作成されたものであり、元禄地震の頃の様子を表しているものではありませんが、元禄地震の13年前(元禄3年・1690年)に作成された「東海道分間絵図」でも小田原宿江戸口の「池」は描かれており、当時もほぼ同様の状況であったと考えて良さそうです。ただ、「祐之地震道記」中の「焼亡の折節、水道の上は、水路溢て、下は水不通、火を消滅するに、便を失へりとぞ。」と水路の破壊によって行き場を失った水が溢れた状況が記されているので、溢れた水の中に津波によって逆流してきた水が混ざっていたのかどうかは判然としなかった様です。

しかし、何れにしても宿内に限れば元禄地震の津波の影響は限定的であった、と考える方が妥当である様です。

となれば、宝永大噴火の際の小田原宿の人々の避難行動を考える時には、もう少し別の要因を探した方が良さそうです。その点で、宝永大噴火の49日前に起きた宝永地震の影響を検討する必要があるかも知れません。

ファイル:1707Hoei earthquake intensity.png - Wikipedia
宝永地震の震度分布(Wikipediaより)
震度6〜7を示す点が駿河湾〜
知多半島にかけて連なっている
宝永大地震は主に駿河湾から西の地域で大きな被害を出し、関東では揺れは大きかったもののそれ程の被害はありませんでした。しかし、(その4)でも記した通り、この地震による津波で新居の関が流され、隣接する宿場も、更には白須賀宿も津波に呑まれる被害を受けました。また、地震自体による建物の倒壊やそれによる人馬の死傷などの被害は東海道筋の他の多くの宿場でも多数出ていました。


こうした事態は当然、東海道の継立運用の麻痺に繋がります。実際、新居の関が通れなくなったため、大名行列も含めて一時本坂通り(浜名湖の北側を迂回する脇往還)を経由する様になり、その沿道の村々に人馬継立の負担がのしかかる様になったため、大名行列の本坂通り通行の差止めを道中奉行に訴える事態が後に起きています。もっとも、これが切っ掛けになって浜名湖を迂回する人馬が増えてしまい、最終的にはこの脇往還の通行を道中奉行が認め、途中の市野・気賀・三ヶ日・嵩山が宿場として公儀の継立を行う様になったのですが。

そして東海道は当時日本で最も太い情報流通経路でもありましたから、その情報は街道筋の各宿場の問屋場にも早々に届いたことは間違いありません。街道を往来する旅人からも、西の方の被害の酷さは連日聞かされていたでしょう。

宿場を2つも壊滅させた津波が起きたとなれば、同様に海に近い小田原宿も、同じくらいの規模の地震が起きれば危ういという認識を持ったのではないでしょうか。4年前の地震で起きた津波は宿内に達していなかったかも知れませんが、津波に攫われて命を落とした町人がいたという記憶も、その危機感を後押ししたでしょう。

そこに富士山が噴火して連日地響きが続く事態になったのですから、これを来たる大震災と津波の予兆と受け取ったとしても不自然ではありません。次に数ヶ月前よりももっと大きな地震が襲ってくれば、今度は小田原の街が潮を被るかも知れない…そんな思いが町民を支配し、早い避難行動に現れた、ということは十分考えられる様に思えます。勿論、当時は地震や津波の発生する具体的なメカニズムについての知識がない時代ですから、どの程度に警戒しているべきか、歯止めになるものもなかったという点も思い起こしておく必要があるでしょう。

何れにせよ、これだけ大きな天変地異が数年内に立て続けに起きていれば、不安と恐怖を募らせるのも無理からぬことでしょう。宿場の業務もそっちのけにして街が殆ど空になってしまったのも、その点では理解できるものだったと思います。
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