【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(まとめ)

旧東海道:畑宿一里塚(復元)
畑宿一里塚(復元)
畑宿の集落の京方の外れに当たる
ここまで6回にわたって箱根東坂の歴史を湯坂道と畑宿を中心に見てきました。改めてここまでの記事の一覧を記します。



旧東海道の箱根山中の道筋を考えるに当たっては、治水面もさることながら利水面にも着目する必要があるのではないか、という見立ては私の中では比較的早い時期から出来上がっていました。何しろ箱根は、本州を太平洋沿いに通行する際には最大の難所とならざるを得ない地理的制約がある場所です。ここを通過する際には必要となる水や食料に十分に配慮しなければ、山中で行き倒れてしまいます。あまり道行く人が多くない時代には自ら携行するしかなかったでしょうが、ここを経由しなければならない人が増えてくれば、その人たちのために補給地点や休憩地点、時には体調を崩した人のための救護が出来る施設を設けざるを得なくなってきます。そういう施設にも人が住まう必要がある以上、その人たちが生活できる場所を選ばなければならなくなってくれば、今度はその生活のために必要な物資の調達・供給のことを考えなければならなくなってきます。

箱根山中の道筋の変遷の裏には、そんな流れがあるのではないか、という予想から、実際のところ湯坂路上で水はどれだけ得られるのだろうか、という検討を今回試みたわけです。無論、飽くまでも机上での検討(と現地を訪れてのほんの少々の観察)ですから、実際には湯坂路の途上で井戸を掘れば割と浅い位置で必要なだけの水が得られるのかも知れません。本当はもう少し裏を取りたかったのですが、温泉に関しての研究は多くても流石に利用の可能性の低い水脈までは研究の対象にはなり難い様で、関連する資料を見つけることが出来ませんでした。かと言って、まさか実際に井戸を試掘する訳には行きません(国立公園内ですから違法行為になってしまいます)から、あとは当時の記録がこの先奇跡的に出てくる可能性に賭けるしかなさそうです。湯坂城が尾根の意外に低い位置に城を構えた理由や、実際にどの様にして水を確保していたのかなど、利水面から解明したい課題はある筈なのですが、やはりそこまで追究するには制約が大き過ぎるということになるのでしょうか。

ただ、利水面の問題はさて置くとしても、一方で室町時代や戦国時代に既に畑宿を経由する道があり、その頃から畑宿が相応の繁栄を見ていた可能性が高そうだという点は、江戸時代に入るまで湯坂路が本道であったという見立てとは相容れない面があるのは確かだろうと思います。そして、江戸時代に入っても箱根という険阻な道を往来する人馬をどの様に支援するかという課題が、宿泊の問題や甘酒小屋や石畳といった形になって現れていったと言えるのでしょう。裏を返せば、より多種多様な通行が箱根を恙無く越えるためには、それだけ手厚いサポートが必要であり、その役割を早くから果たした拠点の1つが畑宿だった、ということが言えるのではないかと思います。

ところで、今回色々と資料を漁っていて、初めて気づかされたことも幾つかありました。ハコネサンショウウオの件もそうですが、何より畑宿が北条氏の「諸役御免」の約束を楯に「退転」を試みた歴史に興味をそそられました。今流に言うならばこれは「ストライキ」ということになるのでしょうが、村人が全員何処かに篭ってしまって村が「もぬけの殻」になるという、「全面スト」よりも更に徹底した抗争でした。この時期北条氏の領分内ではほかの村でも「退転」が相次ぎ、それが氏康の「公事赦免令」へと繋がったことが知られていますが、その点では北条氏側の統治にそれまで無理があった、という評価になるのでしょう。

旧東海道:畑宿の「桂神代」
畑宿の家並みの前に飾られていた
「桂神代」
現在の箱根寄木細工でも
神代杉などの枯木は重要な役割を
果たしている
畑宿での「退転」も結果を見れば畑宿側の「全面勝利」に終わったと言える訳ですが、あの位置で宿場の機能が全面停止するというのは、道行く人にも計り知れない影響があったに違いありません。芦川宿や湯本宿で事前に情報を得ていれば、その腹積もりで畑宿を行き越す準備をして出発したでしょうが、そのことを察知し損ねて畑宿に着いたら誰もおらず…などという運の悪い旅人もいたのかも知れません。その意味ではこの「ストライキ」の効果は抜群だったのでしょう。

裏を返せば、それだけ畑宿がこの街道筋での影響力を発揮出来る「地の利」を得ていた、ということも出来ると思うのです。そこに更に木地師としての稼業があった点については、今回は簡単に紹介するに留まりましたが、その後の畑宿が箱根細工の拠点となっていくことを考えると、この歴史も併せて見ていくとまた少し違った側面が見えて来るのかも知れないと感じています。その点はまた機会があれば見ていきたいと思います。



以下、例によって余談なのですが。

「新編相模国風土記稿」では、箱根の山中には、正月に門松を立てず、代わりに(しきみ)を立てる村があることを紹介しています。

  • 須雲川村(卷之二十七):…土俗正月は門戸に松をば立てず、樒を立るを以て習せとせり、
  • 畑宿(卷之二十七):…當所も正月松に替へて樒を立り、
  • 底倉村(卷之三十):…正月門戸に樒を立、松飾の代とす、
  • 大平臺村(卷之三十):…當村も正月門戸に樒をたてり、
  • 仙石原村(卷之二十一):…當村及び宮城野村は、共に(注:足柄上)郡中に在りと雖、諸事足柄下郡箱根の諸村と伍をなせり、是路次の便宜に因れるなり又歳旦門戸に樒を立て松に代ふ、是も彼地の風俗波及せしならん、
  • 宮城野村(卷之二十一):…當村も歳旦門戸に樒を立て松に代ふ、

(以上、雄山閣版より引用)


樒の花 - Wikipedia
樒の花(Wikipediaより)
「風土記稿」中でこうした風習について記述されているのはこの6村だけです。もしかしたらその周辺の村でも同様の風習がありつつも記載されなかった可能性もありますが、各郡の総論に当たる「図説」でも

…當郡風俗他に異なる事なしといへども、南邊宮城野・仙石原二村は歳旦松に代て、門戸に樒を立るを例とす、

(卷之十二 足柄上郡卷之一、雄山閣版より引用)

などと逐一記しているところを見ると、遺漏の可能性は少ない様に思えます。

東海道で松と言うと、真っ先に街道の松並木のことが思い出され、それが箱根山中ではうまく根付かないために杉並木になっている、などという説明も良く聞かれる手前、この話もそこに関連するのかと考えたくなりますが、どうもそういうことではなさそうです。実際、もし根付きにくい樹種が回避されているのであれば、丹沢などの山中の村々でも同様の風習があっても良さそうですが、その様な話は聞かれません。

この風習に絡んで、地元の民話集にはこんな話が採録されています。それぞれ幾らかアレンジが入っている様なので、ここでは差異の箇所がわかる様に2本紹介します。

門松で目を突ついた氏神様

暖かいお正月でした。

仁徳天皇の故事にならって、村人の暮らしぶりを見ようとそっと社を抜け出した山神社の神様でした。

この神様はいささかあわて者だったのか、出がけに鳥居の前で、村人が飾りつけた門松の松葉で右目を突ついてしまいました。いかにも不覚でした。

「痛い!」と思わず叫んでしまうほどの痛さでしたが、さすがは神様、早速に姫の水におもむき冷たい湧き水で目を洗いました。

数日通ってすっかりよくなった神様は神社の総代を呼び、しかしかかくかくの次第で元日早々ひどい目にあった。従って今後村の門松に松は使ってはならないぞ、と言いました。

総代はすぐさまこの(むね)を村人に伝え、来年からは松の代わりにこの地に繁茂するサカキを飾るようにと言いました。

以来当地ではサカキは栄に通じて縁起がよいと、正月、細い竹二本とサカキを二本、それに梅の小枝二本を組み合わせて玄関入口の左右に立て、門松としたのでした。

(「はこね昔がたりⅡ」安藤正平・澤田安蔵 1988年 かなしんブックス 第一章 9~10ページより)

松嫌いの権現様

…ある晩、それは大雨のあとの霧の深い真夜中のことでした。狭い道にはいく本もの大きな倒木が行く手をさえぎり、苔の生えた岩が雨にえぐられて突き出ていました。権現様は気をつけながらその倒木をまたぎ岩根を踏み分けて下って来ましたが、時間がかかり過ぎてはいけないと少しあせりがでたのか、松の大木の根っこにつまずいて足を滑らせてころんでしまいました。

悪い時は悪いことが重なるもので、その時、松の枝に引っかかって松葉で片方の眼を突いてしまいました。権現様は大層腹を立てられ、おれの目をこんにした松なんかみんな枯れてしまえ、といって神領内の松という松を全部枯らしてしまいました。それ以来、ここでは松が育たないようになってしまったのです。

そのためこの地方では、正月に門松を立てることができなくなってしまったので、松の代わりに榊や(しきみ)を使うようになりました。今でもこの風習が受けつがれている集落があちこちにあります。

(「箱根の民話と伝説」安藤正平・古口和夫 2001年 夢工房 70〜72ページより)

松に目を突付かれたのが山神様だったり権現様だったり、松を枯らしたり枯らさなかったりといった違いはありますが、神様が目を突付かれたので松を使うのを止めて代わりに樒を使う様になった、という筋立ては共通しています。もっとも、もしも箱根権現にゆかりの深い風習なら、「風土記稿」が芦野湯や元箱根、姥子といった更に権現に近い地域で、こうした風習を記録しなかった点が引っ掛かります。単に「風土記稿」の編集過程で、これらの村での聞き取りの順序の綾で確認し漏らしただけかも知れませんが、それならそれで「風土記稿」がどの様な手順を経て成立したかを考える際には興味深い事例ということになるのかも知れません。

なお、「はこね昔がたりⅡ」の方では、昭和26年に時の総代が神社で許可を得て、業者などは足元の低い位置に松を使った門松を飾るようになったことが紹介されています。

もっとも、こういう見立てもあります。

余談だが門松の材料は、古くは常緑樹であれば何でも良かった。後に大陸の温暖な地域から、もっぱら松を用いる風習が入ってきて、それ以来日本では、松と常緑の広葉樹と、門に立てる種類が二種併存して続いたのである。山の中の村々は遅くまで広葉樹を用いる形が残って、風土記の編者のように、里からきた人々の目には奇妙に映ったまでのことである。

たとえば木地師と呼ばれ、山中で『ろくろ細工』に従事して椀や盆を作る人々は、やはりシキミを門松にしていた。狼を防ぐのにこの木の香りが有効だなど説明していた。そして箱根にも多くの木地師がいて、この人たちはやがて箱根細工という、湯治場みやげを専門に手がけるようになる。そしてさらにつけ加えると、シキミが仏壇の供花として固定してからは、箱根ではいつかシキミをやめてカシの枝を門松に用いている。

(「箱根山動物ノート サルのざぶとん」田代道彌 1990年 神奈川新聞社かなしん出版 128〜129ページ「第六章 ダルマガエルの将来」より)


こういう風俗については、あまり整合性のある説明を追究しても仕方がない面もあります。ただ、木地師の風習にルーツを求めるなら、それが何故箱根に限られていて周辺地域から孤立して存在しているのかは気にかかります。何処かから適所を求めてやって来た木地師が、箱根の地に魅了されて居着いた名残ということになるのでしょうか。そうだとすれば、この風習は箱根細工のルーツにまつわる重要なヒントに繋がることになるかも知れません。例えば、彼ら木地師が丹沢や伊豆の地ではなく、敢えて箱根の地を自分たちの技術を発揮できる地として選んだのだとしたら、彼らにとって「魅力」に映った箱根独自の特徴が何かあった筈だ、ということになるのではないでしょうか。それがこの地でしか採れない樹種(そこに芦ノ湖の「神代杉」なども含まれるのかも知れません)にあったのか、それとも箱根山の複雑な地形に何かを見出したのか…そんなことを考えてみるのも面白いかも知れません。

旧東海道:箱根湯本付近の早川下流方面の様子
現在の早川は治水対策が進み
整備された姿に変わっている
湯本大橋から早川下流を望む
写真中奥の橋が現在の三枚橋
そして、そのことを考えてみる際には、阿仏尼が「十六夜日記」で、藻塩を焼く薪木が早川を流れ下ってくる様を歌に詠んだことを思い返してみるべきかも知れません。それまでは燃料に使っていた木を後に木地師が使う様になったのだとすれば、木地師が移り住んで来たのは阿仏尼が箱根を通過した時よりは後だったことになり、その頃には藻塩の薪木は別の場所から求めていたことになって早川を木が流れ下る様子は見られなくなっていたでしょう。勿論、木地師が必要とした樹種は薪木とは別種だった可能性もあり、その場合は移住の時期と阿仏尼の東行の時期は無関係ということになりますが…。



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追記(2014/05/05);お陰様で3回戦に進出しました。応援いただいた方々に感謝します。引き続き投票受付中です。


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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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