【旧東海道】その15余録 ハコネサンショウウオ

この記事は「その15」の余談として簡単にまとめるつもりで書き始めたのですが、思った以上に文量が膨らんできたので、独立させることにしました。なお、下の方に山椒魚の写真が出て来ますので、その手の生物を見るのが苦手な方は申し訳ありません。

「その15」のために箱根について記した紀行文・道中記などを探している最中に、ふと十返舎一九も箱根について何かしら書いている筈だろうと思い付いて、彼が書いたものを紐解いてみる気になったのでした。そこで見つけたのがこの一文。

箱根の宿(しゆく)をうちすぎ、(さい)河原(かハら)の先、権現坂(ごんげんさか)より(あし)の湯へゆく道あり。ついでなれバ、その坂のとりつきより左の(かた)、湖の端をまハりて、権現の御(ミや)にまいる。

たび人「井守(いもり)黒焼(くろやき)にして、女にふりかけると、その女がほれてくれるといふ事だから、わしハこの前、此箱根の山で井守を見つけたから、それをとってかへって、黒焼にして、女にふりかけて見ましたが、さっぱり利目(きゝめ)が見へませぬから、これハどうした物だと、よくよくかんがへて見ましたら、井守でハなくて、此箱根の名物山椒魚(さんせふうを)でございました。」

(「金草鞋(かねのわらじ)二十三編」より、「十返舎一九の箱根江の島鎌倉道中記」鶴岡節雄校注 1983年 千秋社 16〜17ページより引用、ルビも原文通り、…は中略、強調はブログ主)

箱根の名物が山椒魚だなどというのも私にとっては初耳でした((その5)で取り上げた紀行文を見返して、山椒魚の記述に気付いたのはその後でした)が、「そもそも山椒魚と井守を見間違ぇたりする奴があるけぇこの頓珍漢め」と、つい弥次喜多風に突っこんでみたくなる様なネタ咄ではあります。


ハコネサンショウウオ表紙
「箱根町の天然記念物 ハコネサンショウウオ」
表紙の写真
左の白い球が入った鞘が卵嚢
箱根に山椒魚なんかいるのか、と思いきや、何とズバリ「ハコネサンショウウオ」というのがいるのを初めて知りました。流石に今では箱根では滅多に見られるものではない様で、専ら須雲川の源流部に生息しており、その地が箱根新道の建設に際して分断されるなど開発の手が入って生息数が激減したことが切っ掛けになって、昭和44年(1969年)3月に箱根町の天然記念物に指定されました。私も生憎と見たことがありません(と言ってもそんな生息域に当たる沢などに行ったことがないからですが)。同種については大涌谷自然科学館が「箱根町の天然記念物 ハコネサンショウウオ」(1990年)という割と良くまとまったガイドブックをまとめていましたが、現在は同館の廃止に伴い絶版になっている様です。この表紙には背中に朱色の筋の入ったサンショウウオが、その卵嚢と共に写った写真が載せられています。

箱根町がハコネサンショウウオを天然記念物に指定する際に合わせて編集した、「箱根の文化財 第四巻」(1969年)という冊子があります。その「あとがき」に、この天然記念物指定に関してこの様な一節が記されています。

ハコネサンショウウオを箱根町の天然記念物に指定することについて問題となったことは、⑴日本国内に広く分布していて、特に貴重な動物として指定する価値があるかどうか、⑵箱根における生態が充分研究されていない、⑶生息地域の土地関係者の協力が得られるかどうか、⑷指定することによって、かえって好奇心をあおり、捕獲するものがふえるのではないか等々であった。

しかし、タイプローカリティーとして“ハコネ”の名を持つ動物であり、分類学上永久に箱根に生存させるべき貴重な種の原型として、また古来より箱根の名産物となり、住民の生活にとけこんで現在に至ったゆかりの深い動物として、箱根に於てはぜひ保存しておきたい貴重な動物の一つと思われる。

(上記書47ページより)

この文中にも見られる通り、更にはWikipedia等でも記されている通り、このサンショウウオは箱根にしか生息していない訳ではなく、生息環境が合えば本州や四国の他の場所でも見られる様です。少なくとも、全国レベルで見れば今のところ絶滅を心配されている種では必ずしもありません。

先ほどの「金草鞋二十三編」の、ネタの部分の直前では、箱根の他の名物と共に

小田原をすぎて風祭(かざまつり)、それより湯本、畑、いづれもよき茶屋あり、…

箱根山名物、湯本細工挽物(ひきもの)いろいろ。畑の雑煮。峠、江戸屋の粕煎(かすいり)。山中の(もち)田楽(でんがく)、甘酒、山椒魚(さんせううを)ハ、しょしょにあり。

(「金草鞋二十三編」より、上記同書16ページより引用、ルビも原文通り、…は中略、強調はブログ主)

こんな風に紹介されています。「しょしょにあり」ということは、当時の箱根山中ではどこの茶店の店先にもこれが置いてあったのでしょうか。

ならば、かつては箱根山中なら何処でも見られたのかと思いたくなりますが、ハコネサンショウウオの生息域について、神奈川県の「2006年版レッドデータブック」では

生息環境と生態:渓流性のサンショウウオで、成体は沢沿いの林床落ち葉や倒木の下、岩陰などに生息するがめったに目にすることはない。本種の産卵は、河床の勾配が急で、崩落した大小の石が積み重なって湧水や伏流水の流れる地下で行われるため、卵塊の発見は極めて困難であるが、幼生は渓流で発見されることが多い。

(「神奈川県レッドデータ生物調査報告書 2006」高桑正敏・勝山輝男・木場英久編、神奈川県立生命の星・地球博物館刊 2006年 270ページより)

と記しています。生息地については標高500m以上の地点に生息と記している書物もありましたが、別の図鑑ではもう少し低い標高でも見られると書いているものもあり、標高で特徴付けようとするものが多い様です。しかし、この県レッドデータブックの記述に従えば、標高よりも寧ろ地形や地質に産卵環境が大きく依存していると考える方が良さそうです。

とは言え、箱根山でもこの様な崩落の激しい急峻な渓流がある場所は限られており、それに従ってハコネサンショウウオの見られる場所も限られています。それも、何故か須雲川の最上流に限定されていて、早川本流方面には見られないとのこと。これについて、箱根火山の活動時期との関連があるのではないかと解釈する方もいます(「箱根山動物ノート サルのざぶとん」田代道彌 1990年 神奈川新聞社かなしん出版 など)。この説の通りならこの山椒魚は南側の伊豆半島から来たことになるのですが、ならばその伊豆半島のハコネサンショウウオは、この突端の地に何処から入って来たのだろう、という疑問も残ります。この辺りは生息域の更なる研究でわかってくるのかも知れません。

なお、ハコネサンショウウオは箱根近辺では丹沢方面にも棲息しており、

䱱魚又山椒魚共書/箱根の産也

…当山にて取ルヲ地魚といひて形ち大キクして功又ばつくん也、又此近辺大山辺ヨリも出ル、是ヲ旅魚として形チ小クして功も少く薄き也、価又異也

(「七湯の枝折」巻十 産物の部(産物の図)より、「「七湯の枝折」企画展図録」 箱根町郷土資料館 2004年 103ページより引用、…は中略、強調はブログ主)

何と大山付近で捕ったものをわざわざ箱根に回送して(だから「旅をしてきた魚」な訳ですが)売っていたというのです。箱根で捕れた大振りのものを上物として扱っていたために一段低く見られて廉価で売られていた様ではあるものの、それだけ引き合いがあって箱根山中だけでは需要が満たせなかったのでしょうか。だったら大山も参拝客が大勢押し掛ける土地だったのですから、そちらでも売れば良さそうなものですが、大山周辺で山椒魚が土産物として販売されていた記録はない様です。「箱根=山椒魚」というイメージが強過ぎて大山で扱っても商売にならなかったということなのかも知れません。これも何だか今でも良くありそうな話です。

この「七湯の枝折」では、山椒魚の効能について

小児五かんの妙薬也、世人専

知る所なれバ効能ハ略ス、

男子にハ女魚を用ひ、女子にハ

男魚を用ゆ、

此魚取頃、弥生の末より卯月初つかたを専らとす、きわめて澗谷の清水に生す、小石の下或ハ岡にも出、木などへも登る、…(捕まえてきた山椒魚を)大き成鉢やうのものへ入て是に塩ヲ入ルとことことく死す、是ヲ竹串にさして日に干しかわかして売買す、

(上記同書103ページ、…は中略、強調と括弧内ブログ主)

と紹介しています。まぁ、「皆まで言わんでもわかってるな」というニュアンスの書き方で「強壮作用」を仄めかしている訳ですね。塩にまぶして殺すのは干物にするのと味付けを兼ねているのでしょうか。

しかし、今は天然記念物に指定されている関係で、ハコネサンショウウオの箱根での捕獲は「御法度」です。勿論、今は箱根の土産物屋で山椒魚の干物にお目に掛かることはありません。更に、神奈川県の2006年版レッドデータブックでは「準絶滅危惧」種に指定されていますので、今は他へ見に行った方が良いでしょう。まして「七湯の枝折」に記されている様な強壮剤や、一九がネタにしたイモリの「代用品」などもってのほかですが、流石に今は「疳の虫」の薬に子供に飲ませようとか、「夜の床」の前に精力付けに…なんていう人もいないでしょう。念のためですが、薬効は証明されていないそうです。イモリの黒焼きにしてもそうなのですが、「七湯の枝折」の記述を見ても、限りなく迷信に近い「民間療法」の肴にされていたというところが本当なのでしょう。なお、福島県の檜原地方では今でも夏場限定で食用にしているとのことなので、一番手っ取り早く「実物」にお目に掛かるにはそこへ食べに行くのが良いでしょう(笑)。どんな姿をしているのか、調理前のハコネサンショウウオを見せてもらえるかも知れません。


ところで、別に箱根に限って棲息している訳ではないこのハコネサンショウウオが、何故「箱根」の地名を冠することになったのでしょうか。それは、これを標本としてヨーロッパへと持ち帰った時の事情が絡んでいます。

ファイル:Carl Peter Thunberg.jpg - Wikipedia
Carl Peter Thunberg肖像
Wikipediaより)
長崎・出島から例年江戸幕府に参上する商館長に同伴する格好で、商館所属の医師だったスウェーデン人医師Carl Peter Thunberg(日本語では「ツュンベリー」「トゥーンベリ」「ツンベルク」等々と表記されていますが、ここでは比較的発音の近い「トゥーンベリ」でいきます)が安永3年(1776年)に江戸へ向かいます。植物分類学の草分け的な存在であるカール・フォン・リンネにウプサラ大学で学んだ経歴があるこの医師は、この江戸行きに際して少しでも多く日本の植物標本を持って帰るという目的も持っていました。そういう彼にとっては箱根の山中は極めて魅力に映った様で、「江戸参府随行記」(高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫、原文はスウェーデン語)の箱根越えの記述は他の日に増して長いものになっています。その様子を全文転載する訳にはいきませんが、限られた時間の中で次々と手にした標本の中に、1種類だけ動物が混ざったのでした。それが、後に「ハコネサンショウウオ」と呼ばれる様になるのですが、当時はまだ正確には何と称すべきなのか、たいそう困ったのではないでしょうか。

通詞らがトカゲ Stincus marinus であると考えている細長いトカゲ Lacerta japonica が、箱根山周辺にたくさん這い回っていた。日本人はこれを山椒魚(サンシヨウノウオ)と呼んだ。その後、この地方のほとんどすべての店では、それを販売用に干して吊しているのが見られた。何匹か一緒にして、その頭を一本の木の串で通してあった。その粉末は強壮薬として、また肺結核や子供の虫〔癇の虫〕に対しても使用するのである。

(上記書153ページより引用、ルビも原文通り)


オランダ商館の一員として同行している関係上、トゥーンベリも日本人通訳とオランダ語で会話している筈ですが、「トカゲであると考えている」と記されているものの、通訳も取り敢えず形態の似ている「トカゲ(オランダ語で“hagedis” @Google翻訳)」位しか単語を思い付かなかったというのが本当の所ではないでしょうか。山椒魚はヨーロッパには生息していないとのことなので、トゥーンベリの時代に「山椒魚=“salamander”(Google翻訳)」という言い方がオランダ語を始めとするヨーロッパ各国語にあったのかどうかも疑問です(「サラマンダー」自体は元々はヨーロッパの伝承上の火を司る精霊の名前です)。

因みに、トゥーンベリの師リンネの「自然の体系」第10版(1758年)でも、両生類に当たるAmphibiaには今の爬虫類やヤツメウナギ、サメなどが一緒にされていた(「動物分類学」松浦啓一 2009年 東京大学出版会 18ページ表1-1による)位に、動物の分類法は今からは考えられない程の試行錯誤がなされていた時代です。トカゲとイモリとサンショウウオと、互いに生態の全く違うもの同士であることが理解されてくるのは、まだまだこれからの話でした。そういう意味では、むしろこの「未知の生物」を手掛かりに更に理に叶った動物の分類法をこれから組み立てる時期だったということは、このトゥーンベリの記述を読む際に頭に置いておく必要があるでしょう。ともあれ、「山椒魚」と日本で呼ばれるこの生き物が一体何者なのか、取り敢えず本国に持って帰って学者間で検討しようとトゥーンベリは考えた様です。

とは言え、今ですら飼育が極めて難しいとされるハコネサンショウウオのこと、それを当時の徒歩の道中に生きたまま本国まで持って行くことなど、到底考えも及ばないことです。当然まずは死骸を標本とせざるを得なかった訳ですが、気になるのはトゥーンベリはそのサンプルをどうやって手にしたのかということです。一番手っ取り早いのは土産物になってしまった山椒魚の「目刺し」を買って帰ることで、製法を見てもその方がスウェーデン本国に帰るまで「日持ち」はしそうですが、土産物が果たして標本になるのか大いに疑問があります。とするとトゥーンベリが自ら首尾良く捕まえたのか、それとも現地人に頼んで「加工」前のものを譲ってもらったのか…どれも時間の限られた道中で実現するのは難しそうですし、捕らえたものを当時どの様に防腐処理したのかも気になります。今でもその時の標本が残っているなら見てみたいものですが、「箱根の文化財 第四号」の記事によれば

トンベルグ氏の模式標本はスウェーデン ウプスラ大学博物館に“Fakonie berget„なる産地の下に保存されているそうである。

(同書30ページより、因みに「berget」はスウェーデン語で「山」の意)

とのことですので、どんな状態のものを持って帰ったのか、写真でも良いので一度見てみたいものです。仮にもしそれが「目刺し」だったとしても、それはそれで当時の街道文化の一面を明らかにしてくれる、別の意味で貴重な「標本」であるのかも知れません。

何れにしてもトゥーンベリはこの時標本をヨーロッパに持ち帰り、それを元に学名「Lacerta japonica」を提唱したのでした。もっとも、この学名はその後他の学者の研究に従って「Onychodactylus」という新たな属が提唱され、そこに収められて「Onychodactylus japonicus」と呼ばれることになり、現在に至っています。

一方で、後年同じく医者の資格で江戸参府に随行したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも、文政9年(1826年)にやはり箱根でハオネサンショウウオの標本を採取しており、この標本は「シュレーゲルアオガエル」にその名を残す動物学者ヘルマン・シュレーゲルの元へと回送されて、「Salamandra unguiculata」という学名を与えられています(「箱根の文化財 第四号」による)。シーボルトのこの時の標本採取については、彼の「江戸参府紀行」(斎藤信訳 1967年 平凡社東洋文庫、原文はドイツ語)に

また私はドクトル長安の斡旋によって天産物や渓流で捕えたイモリを手に入れた。

(同書183ページより、強調はブログ主)

と記されているのがそれに当たると思われ、この時には箱根到着前に「先触れ」を飛ばして、現地の村人に採集の依頼をしてあったのかも知れません。そうであったとすれば、恐らくシーボルトはトゥーンベリが持ち帰った標本のことを知っていて、もう少し状態の良い標本を再度採取する計画を最初から立てていたのでしょう。流石に土産物になった山椒魚に手を出す気はなかった様ですが、シーボルトも帰路に「薬として売っている(黒焼きにし、粉にして用いる)」(同書221ページより)山椒魚を見掛けています。なお、シーボルトは他にオオサンショウウオも本国に持ち帰っていますので、それらの標本がシュレーゲル等によって研究される過程で、日本語で「山椒魚」と呼んでいる両生類のヨーロッパでの呼び名がトカゲなどから独立していったのかも知れませんね。


ところで、トゥーンベリはこんなことも綴っています。

今日私は、乗り物でゆられて行くようなことはほとんどせず、灌木や野生の木が生い茂っている丘をできるだけ徒歩で登るようにした。…私は道をはずれて遠くへ行くような許可を持っていなかった。しかしかつてアフリカの山々で、私はその岸壁を駈け登って鍛えていたので、時に私を悩ませ、そして息せき切ってついてくる随員よりも、しばしばかなりの距離を先んじていた。そのため、相当数の珍しい植物を採集する余裕があった。花が咲き始めたそれらの植物を、私は自分のハンカチに入れた。

(「江戸参府随行記」上記書 150ページより引用、…は中略、強調はブログ主)

旧東海道:畑宿付近の石畳
畑宿付近の石畳
トゥーンベリはこの箱根の
街道沿いに生息する植物を
多数標本として持ち帰った
オランダ商館から江戸への往復に際して、外国人は決められた街道筋を外れることは堅く禁じられていました。勿論これは防衛上の理由ですが、この制約のためにハコネサンショウウオの生息域で尚且つ彼らの往来する道筋に当たっていたのが、唯一箱根に限定される結果になったのでした。何しろ山奥の急流の沢で繁殖するのですから、東海道では他にこんなに険しい場所を通過する区間がありませんし、長崎から大坂・京都の間にもありません。旧東海道では箱根に次いで険しい峠越えがあるのは鈴鹿峠周辺ということになりますので、同地周辺にハコネサンショウウオの生息地があるかどうか確認してみましたが、鈴鹿川流域では比較的標高の高い場所での生息が知られているのみの様です。そして、鈴鹿峠は鈴鹿山脈の尾根の中でも特に標高の低い鞍部(標高357m)を越えていきます。

その後改めて標本を持ち帰ったシーボルトも通過した生息域は箱根だけだったので、ヨーロッパに渡った標本も自然に箱根のものだけに限られた訳ですね。箱根が山椒魚を名物として扱っていたことがトゥーンベリの採集欲を刺激した側面もあるのでしょうが、やはり際立った生息域を他に通過しなかった点が大きく効いたと思います。

もっとも、トゥーンベリやシーボルトが手にした山椒魚を他の地域の日本人が見て、「その生き物は箱根以外でも見られる」ということを示唆されなかったらしいということも、念頭に置く必要はあるかも知れません。たまたま箱根では名産になっていても、他の地域では見向きもされていない存在だったということなのか、それともごく限られた山村の人たちの間でだけ知られていて、その情報がお互いに共有されることがなかったのか、あるいは、伊勢参りで西へ向かう村人も増えていた時代だけに、その際通過した箱根の店先の「名物」が、実は故郷の村でも見られるものと一緒だったと考えた人がいなかったのか、などということも考えてみたいところです。まぁ、干物になってしまったものを見て、生きている時にはどんな姿なのか、すぐに思い浮かべるのもなかなか難しいことではありますが、こうした生き物にまつわる知識が当時どの様な人々に共有されていたかを考える、ひとつの手掛かりになるかも知れません。


箱根湯本・三枚橋から箱根宿入口までのルート(再掲)
トゥーンベリもシーボルトも
このルートを外れることは許されなかった
「箱根の文化財 第四巻」にある「タイプローカリティ」とは、学名制定の基準になった標本の原産地のことですが、何にせよハコネサンショウウオの「タイプローカリティ」とは、こうした多分に歴史的かつ政治的な「制約」に裏打ちされたものではあった訳です。もしも出島の外国人にもう少し国内の旅行の自由があったら、あるいはもしもオランダ商館の一行の江戸への往復が東海道ではなく中仙道であったら、この標本は日本の別の渓流で採集され、和名もその地名を冠していたかも知れなかったのです。外国人の日本国内の旅行の自由は江戸幕府の時代には十分に実現されることはついになく、明治政府による解禁を待つことになります。基本的には生息域を冠すると思われ勝ちな種名が、こういう歴史的な制度の影響を受けているという事例も、なかなか面白いと思うのでした。シーボルトの方はその後出国に当たっていわゆる「シーボルト事件」に巻き込まれ、獄死者まで出てしまったので、「面白い」では済まないかも知れませんが…。

そして、背中の朱いこの出目の生き物を、当時から既にイモリやトカゲと区別して「山椒魚」と呼んでいた当時の現地の人のことを考えると、一九のネタもあながち「頓珍漢め」と切り捨てる様なものでもないという気もするのです。



追記(2014/05/06):「アクト・トト ぎふ」に問い合わせたところ、ハコネサンショウウオを常設展示していないのは展示スペースの制約によるものであり、現在もバックヤードで引き続き飼育を続けているのだそうです。飼育が難しいと上記で書きましたが、現在は飼育技術の蓄積も進んでいる様です。それであれば、やはり「箱根」の名を冠する同種を常設展示する水族館がいつか神奈川県内に現れて欲しいとも思います。

PS(2014/05/01):ブログ村の山に関するブログトーナメントは5月2日より投票受付開始です。現時点で参加者35人まで増えました。



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