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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(その6)

前回は、江戸時代の畑宿の実情を、紀行文などを中心に見てみました。今回は、その畑宿での宿泊を巡る状況を追います。

以前、梅沢の立場での宿泊を巡る状況を見た時には、宿場以外の宿泊は制度上は御法度「ということになっていた」ものの、実際は立場每に事情に合わせた対応が採られていたことを示唆しました。その際に、藤沢宿の役人職にある旅籠の主人が、伊勢参りの道中畑宿に宿泊していることも紹介しました。そこで、今回は「畑宿の場合」をもう少し追ってみようという訳です。

参考:御伝馬之定、桑名宿の場合

一、三拾六疋、相定候事

一、上口ハ四日市迄、下ハ宮、船路之事

一、右之馬数壱疋分、居屋敷五拾坪宛被下候事

一、坪合千八百坪居屋敷を以、可被引取事

一、荷積ハ壱駄卅貫目之他付被申間敷候、其積ハ秤次第たるへき事

右之条々相定上相違有間敷事也

伊奈備前(印)

慶長六      彦坂小刑部(印)

丑正月    大久保十兵衛(印)

桑名年寄中

(「箱根八里―難所東坂を登る―」箱根町立郷土資料館編 2001年より)

小田原宿と三島宿は慶長6年(1601年)に伝馬朱印状を受け取っていますが、この際一緒に「御伝馬之定」という、伝馬役の規定が記された書状を受け取っている筈です。生憎両宿の「御伝馬之定」は今に伝わっていませんが、東海道の各宿で現存するこの定書は、何れも内容が大筋で共通であることから、恐らくは現在に「御伝馬之定」が伝えられていない各宿でも、同様の内容の定書を受け取っていたであろうと考えられます。

しかし、この定書には右の例の様に伝馬で常備すべき馬の頭数、隣の宿駅や馬1匹に載せる荷物の重量の上限などが記されていますが、宿泊に関する定は含まれていません。宿泊施設に関して東海道上で規制が行われたのは、この伝馬朱印状の配布とは別のことであったと思われます。


畑宿の場合、これまで見て来た通り、北条氏の支配していた時代に宿場を営んでいた可能性が大ですから、江戸時代に入って何処かの時点で宿場の営業を「禁じられている」筈です。その時点で中世までの宿場施設を解体し、茶屋としてのみ営業できる施設に切り替えたのでしょう。しかし、これまで見てきた通り、箱根越えの道筋が流動的であったり、箱根宿の成立が遅れたりしている状況下では、長距離で険しい箱根山中の宿泊を無碍には規制出来なかったのではないか、と思われます。その後数十年ほど経過した頃に書かれた、前回引用した「東海道名所記」をはじめとする各紀行文・道中記では、「畑」について「宿」という言葉は使われなくなっていますから、箱根宿の成立以降遅くともその頃までには、宿泊機能を潰している筈と考えられますが、その時期や事情を具体的に裏付けることは今のところ出来ません。

従って、畑宿での宿泊が「復活」したのが何時頃かも定かではありません。しかし、後で紹介する様な規制が取り沙汰される頃には、既に宿泊は行われていた可能性が高く、畑宿での宿泊が「行われなかった」時期はあまり長くはなかったのではないか、という気がします。場合によっては、看板を取り外すなど表向きの対応だけで、裏ではこっそりと宿泊客を受け入れ続けていたのかも知れません。

間の宿の宿泊規制が幕府から触書の形で明文化されて通達された記録は意外に遅く、正徳5年(1715年)の「伝馬宿の外にて旅人宿泊制禁之触書」(小田原宿・片岡文書上での表題)が最古になる様です。それに先立つ延宝8年(1680年)には、茶屋の出店規制や営業時間の規制など、最初の間の宿への規制が具体的に示されますが、そこではまだ宿泊規制は明確化していませんでした。この延宝8年の触書では店の女性の着物や化粧についての指示などが盛り込まれているので、「色仕掛け」に傾いていた茶屋の風紀是正が先に念頭にあった様ですが、営業時間を規制することで結果的に宿泊を制限することを期待していたかどうかは定かではありません。ただ、正徳5年にこの様な御触が改めて出されたということは、少なくとも暗に仄めかす程度では宿場以外での宿泊が止むことはなかったのは確かでしょう。

その後享保8年(1723年)に同様の触書が再度出された後、文化2年(1805年)に三度同様の趣旨の触書が出されました。結局、正徳5年の御触も期待した通りの効果を上げられなかった、あるいは少なくとも効果が長続きはしなかったということです。

御伝馬宿之外間々村々煮売茶屋ニ而、猥旅人休泊之宿いたし又ハ茶立女等差置旅屋等も仕馴、近在之駄賃馬等雇荷物付送りいたし候処有之、本宿之障り成段相聞候間、向後子細有之ハ格別、軽き旅人たりと言とも猥成義有之(ニ脱)ゐてハ宿致候ものハ不及申、其所名主年寄り迄可曲事趣、正徳五未・享保八卯年相触候処、近年猥相成、諸家之通行も於間々村々休引受候も有之哉相聞候、立場人足休足迄之義ニ而旅人食事等之休ハ間々村々ニ而可引受筋無之条、間々村方休之積り、若先触有之節ハ前後宿方之内最寄之方究置、其宿ゟ前日通行之向可申立候、尤行懸り旅人たりといふとも右准し可相心得候、

(「箱根町立郷土資料館館報 第15号」 1999年 左開き2ページより、強調はブログ主)


この史料に時折見える「(みだり)」という一語や「向後子細有之ハ格別」という言葉が案外大事ということについては後で触れるとして、まずはこの触書の結果どうなったかを見ておきましょう。

この点を考える上で、気になることを記した道中記が存在する様です。箱根町立郷土資料館がまとめた「「街道」関係資料調査報告書」(2001年)には、箱根を経由する道中記類が74点、解題と共に紹介されています。その中に「西国巡礼道中細記」(斎藤覚右衛門、宝暦13年・1763年)という道中記が紹介されているのですが、解題によれば

前(板)橋、風祭、三枚橋、湯本、畑、山中、元箱根は「皆宿也」とあり、間の村での宿泊を伝える。…箱根〜三島間についても、山中・笹原・三つ屋・一(市)ノ山「皆宿也」と間の村の様子を記している。

(同書14ページ、…は中略)

とのことです(未出版の様なのでこれ以上の情報がありませんが)。


甘酒茶屋付近(ストリートビュー
江戸時代の道は現在の茶屋の裏手にある
斎藤覚右衛門はここでも
宿を密かに営む甘酒小屋を見たのだろうか

「神奈川及箱根山江尻龍華寺景図」の甘酒小屋
「神奈川及箱根山江尻龍華寺景図」に描かれた甘酒小屋
(「箱根八里―難所東坂を登る―」より引用)
この図の通りなら、木賃宿としても不十分な
小屋でしかなかった様にも見えるが…
覚右衛門自身はこれらの間の村に泊まった訳ではなく、きちんと箱根宿に泊まっているのですが、この書き方では箱根八里の沿道の村々は事実上何処でも宿泊客を受け入れていたということになります。「畑」の隣に「山中」がありますが、西坂にも「山中」があることから、これは出現順の混乱ではなく別の集落を指している可能性もあり、位置関係から考えると甘酒茶屋があった笈の平辺りを指しているとも受け取れます。そうすると抜けているのは須雲川村位ということになりますが、須雲川村にも茶屋があった点との整合性を考えると、これもあるいは書き漏らしただけなのかも知れません。

無論、この一例だけで当時の状況を推察するのは無理があります。ただ、こうしたことが本当に可能だったかを考えてみる価値はありそうです。いくら当時の旅行客が増加傾向にあったとしても、正式の宿場である小田原・箱根・三島や、比較的施設が揃っていそうな畑宿、更には湯治場の各集落に匹敵する様な施設を、こうした間の村の民家が何処でも備えていたとは到底考えられませんし、そこまでの宿泊者を集めていた様にも思えません。それでもこうした実態があったとすれば、こうした間の村にあったのは専ら「木賃宿」だった、ということになりそうです。特に江戸時代中頃であれば、木賃宿本来の形式である、「食料は自前で持ち込み、木賃のみ支払い」という形態の宿もまだ多かったと考えられるので、それならば茶屋程度なら勿論のこと、更には特段の施設のない普通の民家でも、宿泊客向けの食材などを余分に準備しなくても、薪だけ不足がない様に調達すれば客を泊めることは充分可能だった、ということは言えそうです。

覚右衛門が記録したのも、こうした間の村に「事実上の木賃宿」が散在する状況だったかも知れません。宿泊禁止の触書が出された手前、道行く旅人にどの様に宿を貸す意思表示を出していたのかは不明ですが、本来の稼業の片手間に一夜の宿を貸す家が、箱根山中では一時期至る所にあったのかも知れません。

こうした状況がいつ頃まであったのか、他に類のない指摘なので何とも言えませんが、後にこれらの間の村のうちで畑宿など限られた村だけが問題とされる様になったことと考え合わせると、それ以外の間の村での宿泊は最終的には消滅してしまったか、存続していたとしても小田原宿や箱根宿にとって問題視されることのない程度の希薄な商いだった、ということにはなるでしょう。また、覚右衛門が実際にこの状況を見た頃のこれらの村々での売上も、殊更に槍玉に上がる様なものではなかったのかも知れません。

裏を返せば、それだけ畑宿での宿泊が小田原・箱根両宿にとっては「目立つ」ものであった、ということは言えそうです。勿論、先程の触書にも拘らず、畑宿での宿泊は相変わらず行われていたことになります。因みに、上記「「街道」関係資料調査報告書」中では、畑宿の宿泊が最初に記録されているのは賀茂真淵の「岡部日記(上記書では「真淵紀行(岡部日記)」と記されている)」ということになりそうです。これは元文5年(1740年)江戸から岡部へ里帰りした時の紀行・日記です。

夕つけて箱根山にかゝる。関まではくるしとて、はたといふ所にやどる。いとはや夜さむなれば、ねもいらぬに、瀧の音・鹿の声うちこめたる山の秋風聞きあかされて、立ち出でぬ。

(「遠江資料叢書 七・賀茂真淵 岡部日記 訳注」後藤悦良 1989年 浜松史蹟調査顕彰会 17ページより、強調はブログ主)

「関所に(閉門時刻までに)辿り着くのが難しくなったので」と一応事情が記されている点は、この問題を考える際のポイントでしょう。また、日付が正徳5年より25年ほど後のことである点も念頭に置く必要があります。

ところで、先程の文化2年(1805年)の触書を契機に、箱根宿が小田原宿に呼び掛け、畑宿と湯本での宿泊取締を道中奉行所に訴え出ています。この経緯については、以下の論文が詳細に解説をしています。以下、この論文に従って話を続けます。

「間の村と湯治場にとっての「一夜湯治」」 大和田公一

(「交流の社会史—道・川と地域—」小田原近世史研究会編 2005年 岩田書院 所収)


2宿からの訴えに対し、畑宿の方からは次の様な回答が道中奉行宛に差し出されます。

一、大久保安芸守領分相州足柄下郡畑宿名主畑右衛門・組頭久兵衛奉申上候、畑村之儀東海道往還筋ニて、登り箱根へ壱里八丁、下り小田原三里在之義ニ御座候、従先年一膳食煮売いたし渡世往来之旅人助益を以取続罷在、尤小田原宿ヨリ箱根迄四里余之継合、殊ニ東海道第一之難所ニ而、従往古御大名様方御小休み被仰付、御湯漬御飯差上候義在之、猶又前後両宿御用宿差支候節ハ不時ニ御用宿御受申上候義も御座候、且正徳五未年御伝馬宿之外間々村々煮売茶やて猥りニ旅人休泊為致間敷旨御触御座候ニ付、別取調御諸家様方御休泊ハ勿論自余往来之旅人ニ至迄引受候儀決不仕、尤山坂大難所之義ニ付、旅人足痛其宿相願候も、成丈ケ前後宿方罷越候様相断候得共、当所之儀ハ箱根御関所前ニ而登り旅人及暮ニ候得ハ御関所越兼、其上足痛ニハ何分歩行難相成、達止宿之儀相願候節ハ右之旨一札取之、役人共ヨリ宿申付候儀間々有之、…

文化二乙丑年八月

大久保安芸守領分

相州足柄下郡畑宿

名主 畑右衛門

組頭 九兵衞

道中御奉行所様

(上記書87〜88ページより、…は中略)

長くなったので途中で切りましたが、上記の正徳5年の触書が出た後、箱根山中の険しさで足を痛める旅人や関所の閉門時間を配慮して畑宿での止宿を容認する様に願い出て、条件が揃えば宿泊させても良い旨許可を得ていることが記されています。省略した後段では、更にその後再三の御触れに際しても同様の趣旨で許しを得ているのだから、今回の道中奉行からの御触に関しても同様に認可を戴きたい、ということが書いてあります。要するに相応の事情があって認可を得て既に久しいのだから、という訳です。賀茂真淵もこの条件のもとで畑宿に泊まったということになるでしょう。

結局この件は基本的に畑宿の側の主張が道中奉行に受け入れられ、畑宿と箱根宿・小田原宿の間で「規定書」を取り交わすことを条件に以後の宿泊も認められることになりました。ところが、その規定書の文言を巡って箱根宿と小田原宿の考え方の相違が表面化してしまい、結局畑宿と個別に協議を重ねる様になってしまいます。最終的には小田原藩まで調停に乗り出して調印に漕ぎ着けますが、その調印も小田原宿、箱根宿と別々に取り交わす格好になりました。

旧東海道:箱根関所跡を江戸方より見る
箱根関所跡を江戸方より見る
箱根宿は基本的に関所の三島側にあったが
江戸方には数軒の茶屋があり
関所が締まるとこちら側でも宿泊は出来た
話を最初に持ち掛けたのが箱根宿だったことからも窺える様に、少しでも畑宿に規制を掛けたかった箱根宿に対し、小田原宿の方は畑宿についてはそこまでとは考えていなかった様で、それが両宿が持ち寄った規定書文案に違いとして出てしまったために、調整の結果畑宿にはそれ程のダメージにならない所で落ち着いたのでした。その点では、箱根宿にとってはあまりおいしくない結果になった、ということになるでしょう。

この2つの宿場の「温度差」は、やはりそれぞれの宿場の立地に関係があるでしょう。このケースでは一番山の上に位置する箱根宿が最も不利な条件下にあり、関所の閉門時間も絡んでどうしても客が宿場まで来にくい状況があるため、少しでも規制を強めて客を誘導したいという発想になりやすかった、という側面はありました。対して小田原宿の方は湯本での一夜湯治の影響の方が大きく、それに比べれば山の中腹まで行ってしまう畑宿の客にはそれ程未練を感じなかった、という差はあったでしょう。

その点で、やはり宿場以外での宿泊の問題は、個別の事情を加味して是非を判断する方向が強く、一律化することが難しかったのでしょう。梅沢の時も訴えを出していたのが専ら大磯宿側だった、という事情と共通していると言えそうです。

他方、畑宿の宿泊は元からかなり大目に見られていた傾向があったことが、この一件でも窺い知ることが出来ます。それは何よりも「箱根山中」という、東海道の他の区間には滅多にない悪条件下の道中である点が、最大限配慮されていることによるものでしょう。間の村の宿泊禁止の廻状を再度出したばかりの道中奉行の下でも方針が覆ることがなかったのも、この配慮の大きさを表していると言えますし、その程度の柔軟性を持った宿泊禁止令でもあった、という言い方も出来ると思います。その柔軟さを含ませた一言が、触書に出現する「(みだり)」という一語であり、「向後子細有之ハ格別」、つまり「特別の事情があれば別として」の一言ではなかったでしょうか。伝馬朱印状を渡した宿場が困窮を訴える様な状況になっては困るけれども、程々であれば事情次第で容認するに(やぶさ)かではなかった、という辺りが江戸幕府としての「落とし所」だったのかも知れません。


現在の湯本本郷付近(ストリートビュー
今も温泉宿・茶屋が並ぶ
因みに、小田原宿の方は畑宿よりも湯本での「一夜湯治」と称した宿泊の方を何とかしたかったのですが、後日改めて湯本での宿泊の規制を狙って道中奉行に訴え出ています。しかし、こちらも元々認められている宿泊形態である上に、湯本の湯治場が東海道からは外れた位置にあって間の村でさえないという点が重なって、敢えなく訴えが退けられてしまいます。何しろ相手は「温泉」という他に代え難い魅力のある地ですから、容易に太刀打ち出来ないのは止むを得ないところですが、既に宿場財政が疲弊していた小田原宿としてはこれで他に打つ手がなくなったという見解に至り、「飯盛女」の設置認可の申請へと動くことになります。


畑宿の宿泊がその後も「肥大化」してしまい、以前も見た様に伊勢講中の定宿に畑宿が入ってしまう程になっていたとなると、いくら「規定書」を取り交わしたところで有名無実化していたと言わざるを得ません。その点は宿泊客を思う様に増やせない箱根宿としては何とも歯痒いところだったでしょうが、それもこの「天下の剣」の下を行く旅人たちの手前、如何ともし難いと半ば諦めていたのかも知れません。そのくらい、「箱根越え」は旅人にとって「難事業」であった、という意識が当時の人々の間で共有されていたことの表れだったと言えるでしょう。

次回、余録を1回挟んでこれまでの話をまとめたいと思います。



追記(2016/01/15):ストリートビューを貼り直しました。

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