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【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(その5)

前回は、江戸時代の箱根宿の成立の経緯や、それに関連する畑宿経由の道の整備について見てきました。今回は、その後間の宿となっていく畑宿の歴史を見ていきます。

これまで見てきた茅ヶ崎・南湖や梅沢の立場に比べると、中世には宿場を営んでいたと思われる畑宿の方が歴史があることになりますから、江戸時代初期の道中記などに早々とその様子が描かれているのはある意味当然ではありました。元禄3年(1690年)の「東海道分間絵図」の該当箇所(リンク先の写真では左側、一里塚の右隣)には変体仮名で「はた」と記された右隣に「ちや屋数々」と明記されています。中世に「畑宿」だった集落が「畑」とのみ記されていて「宿」が添えられていないのは、伝馬朱印状を受け取った「正式な」宿場ではなくなったからでしょう。

また、万治年間(1658〜61年)に出版されたとみられる「東海道名所記」(浅井了意著)にも畑宿の様子が書かれているのですが…。えー、取り敢えず引用します。

湯本(ゆもと)の地蔵は、海道(かいだう)の右にあり。…(はた)

楽阿弥申すやう、「畑村(はたむら)は、はこねたうげの坂口なり。(たうげ)までは一里なれども、難所(なんじょ)なれば、草臥(くたびる)る也。茶やに立より、ゆるりとくつろぎて(のぼ)るべし」といふて、家につれて立よる。茶やに女あり。茶をうしろむきてたて(はべ)り。「おすがたをみれば、如意輪観音(によいりんくはんをん)ほど、うつくしうおはしますが、うしろむき給ふこそ、心得ね」といへば、楽阿弥(らくあみ)がいふやう、「これも、いはれあり。三十三(じん)の外に、むかしより、(しり)くらひくはんをんとて、これ有」といふ。さかわ・沼津より、大なる(あゆ)を出して(うる)(すし)常にあり。餅・団子(だんご)・酒、みな、よそよりは、ことの外、値段(ねだん)たかし。さればにや、茶やみなきれいに、人がらもよし。はこねの坂をまへにかゝへて、坂のおかげが、つようおはします。楽阿弥、かくぞつぶやきける、

()ともにはこねは(はた)のこやしかな

(この)坂は、あまりに難所(なんじょ)なれば、いかなる旅人もくたびれて、(くそ)をたるゝ故に、はこねといふらん。古き歌に、

四里(しり)のぼり谷より谷にへめぐりて二里(にり)二里(にり)くだるはこねやまかな

と、よみけるぞかし。きたなき坂のやうに聞ゆ。

(冨士昭雄校訂 国書刊行会版 48〜49ページより、ルビも原文通り、…は中略、強調はブログ主)

後半何だか急にスカトロな雰囲気になってしまっていますが(笑)、「箱根」の「はこ」が古語で「大便」を意味するので、そこから「畑のこやし」に引っ掛けてこういうネタにしている訳ですね。「4里」をわざわざ「2里2里」と割っているのも…まぁ、声に出して読んでみればおわかりでしょう。十返舎一九は江戸時代末期の人ですが、江戸時代初期にも結構こういうことを書く人がいたんですねぇ。

ネタ噺はさておき、この頃の畑宿はまだそれ程の評価がされていなかったのかも知れません。物資の乏しい山中で何でも外から運び上げなければならない手前、止むを得ないこととは言え、それが商いの価格に跳ね返ってくるのはこの時代も一緒でした。丁度足を休めたい場所に位置する故の賑わいはあっても、値段の割にこれと言って見るべき物が無かったのが、こういう言葉遊びへと流れざるを得ない理由だったかも知れません。

それが、江戸時代も中頃を過ぎた頃の紀行文ではこういう表現に変わってきます。

湖水は漫々として海のごとし 山の絶頂にかく水有べしとはおもひよらず驚かれぬる 猿すべりかしの木坂などさのみ険しからねど石多角数十里を過こし好僕等脚つかれ気うみてあゆみなやめり 山の中甚寒く雲の行かふ手にとるごとく綿衣など着まほしきほどに覚ゆ 此辺に山せういばら多し 十姉妹の花咲みだれたり 箱根うつぎと名づけしがこゝに多きゆへとしられぬ 時鳥数多啼侍るもあはれぶかし 畑の茶店は殊に賑しく色よきめの声をそろへ旅人をよぶ 芦原雀の鳴が如し

(「吾妻の道芝」松平秀雲 寛保元年(1741年)より、「近世紀行日記文学集成 一」津本信博編 1993年 早稲田大学出版部 247ページより引用、強調はブログ主)

山の峠をこえて東に下るは羊腸として嶮峻なる事山の陽の類に非ず 左右に高山(そばだ)って道の傍に深谷あり 然れ共治まる世の(シルシ)とてかゝる深山絶倫の処迄も行客の為に酒肆茶肆を設ふけていこはしむる処かぞへがたし 中にも川畑(注:この「川畑」は須雲川村のこと、西から進んできているので、順序としては畑宿の方が先に来る)などいへる処は箱根峠の宿にも劣らず声おかしくも人呼ぶ女の額のきはに髪を高々と結び上げ時知らぬ冨士の高峯の雪よりも白々と顔にぬりたるさまなどいとおかし

(「東武遠遊日記」訥斉先生[江村訥斉] 寛延元年(1748年)より、上記同書 337ページより引用、強調はブログ主)

江戸中期頃には大分客引きが喧しくなっていた様ですね。特に「東武遠遊日記」の女性がかなり濃い化粧をしている所から見ると、この頃は他の立場同様に「色仕掛け」に傾きつつあったのかも知れません。

更に時代が下った頃の紀行文を見ると、

(注:四月)廿四日…湯本などを過て日がくれかゝりぬれば畑といふ山里にやどりぬ この家はおのづからなる山を庭にいとをかしうつくりなしてやがて谷川の水をもせき入たれば山の中より滝おちて軒ちかくながれゆくもいと涼しければ人々おりたちてむすびあけ手あらひなどす

たちよりてくる人ごとにむすぶかなのきばにおつる滝のしらいと

廿五日の暁松ふくかぜに夢たえたるをりしも例の郭公の鳴ければ

二声も三こゑもきゝつほとゝぎすはこねの山のあけがたのそら

とことはにながるゝ山水の音は雨のふるやうなれどけふも日はよし

(「草まくらの日記」本居大平 安永二年(1773年)より、上記同書 542ページより、…は中略、強調はブログ主)


畑宿本陣茗荷屋跡(2009年当時のストリートビュー
旧東海道:畑宿茗荷屋跡ガイド
畑宿茗荷屋跡ガイド
店の裏に、山中の借景を巧みに取り込んだ庭を作り込んで、訪れる客に堪能させている訳ですね。こうして見ると、その間に畑宿が街道内での地位をしっかり確保していた、とも考えられます。

ところで、「草まくらの日記」では投宿した宿の名前を明記していませんが、ここまで立派な庭を作り込んでいたことで知られているのは、恐らく「茗荷屋」ということで間違いないだろうと思います。ここは南湖や梅沢の「松屋」同様、「茶屋本陣」として知られる店でした。今では建物はなくなってしまっており、跡地であることを示すガイドなどが立っているだけですが、かつては豪勢な庭が整えられ、浮世絵の題材にまでなりました(歌川芳虎 東海道名所絵 箱根畑 文久3年)。

「茗荷屋」が何時頃から茶屋本陣を名乗る様になったのかは梅沢の「松屋」同様不明ですが、この主人である「畑右衛門」について、「新編相模国風土記稿」は次の様に伝えています。

◯名主畑右衛門 家號を茗荷屋と稱す、往來の諸家此家を休憩所とせり、傍ら湯本細工挽物塗物を鬻ぐ、先祖は九郎左衛門と稱し、弘治二年北條氏の文書に…載る所、則其人なり、夫より子孫連綿して當所に住し、世々里正たり、中頃九兵衛が時、貞享中大久保加賀守忠朝、小田原入部の時、畑右衛門と名を與へしより、代々通稱とす、

(卷之二十七 畑宿の項より、雄山閣版より引用、…は中略だが村民退転の際の文書が引用されている、強調はブログ主)

(その3)で引用した畑宿の村民退転の際の文書の奥付を見返して戴ければ、この意とするところが理解出来ると思います。北条氏から得た「諸役御免」確認のための退転の一件の、首謀者3人のひとりの末裔が、こういう商いをする様になった訳ですね。

また、この風土記稿に記されている通り、元が挽物商だけにその後も土産物として木工細工を販売し続けていた訳で、これが今の箱根細工に繋がることになります。その意味では畑宿の茶店は挽物商のショールーム的な存在でもあって、土産物だけではなく時には受注生産も行っていた様です。その点では、畑宿は南湖や梅沢の様な立場とは若干違う性質を持っていたということが出来ると思います。

(注:安永3年4月、箱根の)山の高所にのぼって、また四分の一里ほど(くだ)り、そこからさらに箱根の村まで旅を続け、そこで昼食をとった。また帰路に備えて二、三の漆器や他の貿易品を注文した。そして広大な山の高い地点にある、この見晴らしの良い場所での眺望を楽しんだ。

(「江戸参府随行記」トゥーンベリ/高橋文訳 1994年 平凡社東洋文庫 150ページより引用、ルビも原文通り、強調はブログ主)

五月二七日、我々は箱根山を越えたが、そこで往路と同じような事柄に出会った。箱根村で昼食をとり、往路に注文しておいた品物を受け取って、その支払いをした。

(同書197ページより)

これはオランダ商館の江戸参府一行の往来の際の事例ということになり、また注文を出したのは箱根の宿内で、ということになりますが、そういう観点では箱根の一帯が木工品の生産・販売拠点として機能していた様です。茶屋というショールームを使って、旅人から注文を受け取って帰路までに仕上げる、という商売が成立していた様ですね。だからこそ、幕末に海外との貿易が解禁された時に、畑宿茗荷屋の主人が、逸早く箱根細工の輸出を目論んで来日した外国人相手に商売を始める、という動きが出来た訳です。

もっとも、時にはこんな失敗事例も記録されています。

(注:文政七年3〜4月)…萬づ挽ものゝ細工は畑村を以最上とす、即湯本より西へ壹里、小田原よりは二里といへり、家居も多く又粒立し挽物賈ふ賣店若干なれば、職人も又此處に集えり、依て挽物類を注文しあつらへなば、當所を第一とす、但し樹の性により又は天日風雲にさらして能からしたるこそ能れ曝前方(サラシマイカタ)たるは挽上て後、或は(ソリ)又はひづみ破る事(マゝ)あり、予三月晝此畑村に憩ひ、樹の性を吟味し茶事に用る大圓盆寸法の如く申付、日限いついつと約諾し、五月十一日婦路の砌立寄て仕揚し挽物を見るに、樹厚からざるに反ありて用ひがたければ、又敢てあつらへ申(ツケ)たり、諸木澤山なれば甚下料たり、只樹の性と能からしたると、職人の好惡によるべし、當所より萬の挽物小間物類毎月兩三度づゝ、小田原より便船あれば注文可ならんかし、

(「遊歴雑記」十方庵敬順 五編卷の上「拾壹 箱根宿川田が湖水の景望」より、「江戸叢書 巻の七」1964年 名著刊行会 33〜34ページより引用)

往路で特注したお盆を帰路に受け取ろうとしたら、反りがあって使い物にならないので再作成を命じた訳ですね。敬順は余程気に障ったのか、同じ事を帰路の項(「第五十四 箱根畑の挽物御茶壺の警固」)で再び書いています。まぁ、注文した物が思い通りにならなかったのを見て気分の良い人はいませんが、野点(のだて)が趣味の十方庵にしてみれば、これで上物が手に入ると期待しながら長い帰路を歩いて来ただけに、落胆も大きかったのでしょう。たまたま悪い職人にあたってしまったということで敬順も理解はしていた様です。


また、幕末になって来ると、

(注:文政9年(1826年))骨のおれる道を進んでわれわれは美しい木製品で有名な畑村(Hata)に着き、とくにそのために建てた家の中で、これらの製品が陳列してあるのを見たが、値段は非常に高かった。大抵は家具か贅沢品で、象眼をしたもの、編んだもの、漆を塗ったものがあり、生の樹皮や貝がらを使ったものがあって、要するにこの国の人々の本当の趣味を表わしていた。

(「江戸参府紀行」シーボルト/斎藤信訳 1967年 平凡社東洋文庫 183ページより)

ファイル:Muku Obon of Hakone Yosegi.JPG - Wikipedia
箱根寄木細工の丸盆(Wikipediaより)
と、購入するのを断念させてしまう程の価格になっていた様ですが、これが「箱根ブランド」が確立して高級品化したことの現れとみるか、それとも幕末日本のインフレの亢進によるものかは何とも言えないところです。シーボルトは結局駿府で木工細工を買い求めていますので、どちらかと言えば箱根細工の相場が上がったことの代償だった様にも見えますが…。因みに、箱根の寄木細工は畑宿の石川仁兵衛が始めたとされていますが、シーボルトが「象眼」と見立てたものは時期的に見て寄木細工でしょう。今では「箱根細工」と言えば真っ先に寄木細工が連想される程になっていますが、この頃の箱根細工にはまだ寄木細工以外の手法も様々使われていた様です。


さて、梅沢では鮟鱇が名物となっていましたが、畑宿を含め箱根山中は飲食の点では相変わらず分が悪かった様です。何しろ田畑のものも海のものも全部、山の麓から持って来なければならないのですから、値段も鮮度も他の地とは勝負になりません。畑宿で雑煮を出していたと十返舎一九が書き記していますが、あとは茶漬け程度で取り敢えず腹を満たしてもらうこと優先のお品書きにならざるを得なかった、というところでしょう。山中に多数点在していた甘酒小屋も、その点では山中での手っ取り早い糖分補給のためのスタンド、という面が強かったのではないでしょうか。

そんな中で川魚はどうだったのか、ということになるのですが、芦ノ湖で獲れる魚について紀行文に現れるところを見てみると、

箱根の峠にてうる魚は湖中にて捕る 其形あゆに似てあゆにあらず 一種の物なり 気味いかゞ食せんとせしに所の者のいへるは甚味あしく人を害すと制せしかば止にき

(「吾妻の道芝」松平秀雲 寛保元年(1741年)より、「近世紀行日記文学集成 一」上掲書 所収 247ページより引用)

(箱根権現に参拝し、曾我兄弟の祠などを見て廻った後、)それより杉はやしの中を通りて家居六七軒あり、こゝにて酒飯を商ふ。湖水の産赤はら魚もあり、此魚持帰りて后食して見れは油臭く美味ならす、又山椒魚も見ゆ。

水にすむいもりの虫によく似たり

山椒の魚に赤はらの魚

(「木賀の山踏」竹節庵千尋 天保六年(1835年)より、「神奈川県郷土資料集成 第六集神奈川県図書館協会編 1969年 413ページより引用)

山椒魚については別項を立てますが、少なくとも食膳に乗る性質の食材ではありません。寧ろ強壮剤や疳の虫の薬といった位置付けのものです。それにしても「赤はら」の方は不味いし(下手をすると)(あた)るから止めとけと言われただの、持ち帰って食べたら油臭かっただのと、散々な書かれ振りです。

この魚の正体ですが、

(熱海から北上し日金山を越えて)程なく箱根の駅にいづ。かごより下りて、物くわする家にてしばしいこふ。湖に舟見ゆれば、

「何の舟ぞ」ととへば、

「すなどりにいづる舟なり。腹赤(はらか)(いふ)うを(魚)ゝ多くとる」

といふ。彼つくしより奉る腹赤のうをは、今(さけ)といふうを也。このうみにもありや。

「其うを見たし」といへば、

「これなり」と(くし)にさしたるを出すを見れば、江戸にて「うぐひ」、沼田にて「くき」と云うをなれば、

「げに物の名も所によりて替るなり」

と打笑ひて、爰をいでゝ(関所へ向かった)

(「玉匣両温泉路記」原正興 天保十年(1839年)より、「江戸温泉紀行」板坂燿子編 平凡社東洋文庫 173ページ「23、湖水眺望」より引用)

ファイル:Tribolodon hakonensis-2011.jpg - Wikipedia
婚姻色の出たウグイ(Wikipediaより)
腹が赤い魚というので鮭かと思ったらウグイで、場所によって魚の呼び名が違うんだなぁという話ですね。ウグイは産卵期が近付くと婚姻色である赤色に染まるため、箱根ではそこから「赤腹」「腹赤」などと呼んでいました。普通に調理したのでは臭みがある魚で食べようという人は少ないみたいですね。漁師がウグイを串に刺していたのはこれを干して保存食に加工する準備をしていたのであって、干しウグイになれば旅行客向けの膳にも出せる様になったのですが、「木賀の山踏」ではそれを何故譲って食べさせてしまったのでしょうね。ともあれ、箱根宿まで行くと芦ノ湖で獲れる魚を調理して出していたのは確かな様です。

ところで、畑宿からは東海道を逸れて芦之湯へと向かう道がありました。(その2)で紹介した「飛龍の瀧」へと向かう「瀧坂」と呼ばれる道です。鉄道・バスの発達した現在の箱根にあっても、険しい道を上り下りしなければ到達出来ない場所にあるため、箱根観光の「穴場」的存在の一つになっていますが、当時もそれは同じだった様です。

湯もとを過て畑にいたる道のかたへ正眼寺といふに、応永の石灯籠あり、石のはたへあらひてすりとりかたし、畑のすくの中程北のかたに坂路ありてのほる、蘆の湯へ行へし、名を滝坂とよひて、いとけはしともけはしき坂路也、二十八町とはいへとさまてはあるましくやあらん、けはしさにいとつかれたり、十三年むかし源躬之をともなひてこの坂の紅葉見にとふりはへて来しことありき、其比はこの坂路今よりもさかしく、冬のはしめなりしに、汗あえてあへきあへきのほりしそかし、その時長哥よみしこともありき、滝は高ねよりこゝかしこの上に落くるこゝちす、今日は坂路の中程よりわたくし雨と□ふりいてゝいとゝくるしさをそへぬ、日くるゝほと、からうしてあしの湯なる勝間田かりつきぬ、

(「箱根日記」清水浜臣 文化十年(1813年) 「神奈川県郷土資料集成 第六集」 389ページより引用)

東海道分間延絵図:畑宿村付近
「東海道分間延絵図」畑宿付近(再掲)
左上に芦之湯へ向かう道筋が描かれている
箱根七湯に滞在している湯治客が、時折外出して散策するコースの中に、この瀧坂が入っていた様です。この紀行文では以前に紅葉狩りに訪れたことがある旨記されており、その頃から紅葉の穴場になっていた様で、それは今に至るまで受け継がれています。茗荷屋の庭もそうですが、やはり食よりも風景が「売り」の地であった、ということになるでしょう。

さて、畑宿の江戸時代の様子について色々と見て来ました。梅沢の立場は同地での宿泊に関して大磯宿から再三に渡って抗議を受けていましたが、畑宿の場合はどうだったのでしょうか。その辺りの事情を次回見ていきます。



追記(2014/07/10):Googleストリートビューの更新に伴い、畑宿茗荷屋跡の位置からずれてしまったため、調整し直しました。なお、かつてはここに「畑宿本陣茗荷屋跡」と彫られた榜示杭風の標柱が道路に面して立っており、以前のストリートビューでもその状態が見えていたのですが、その後この標柱が撤去されてしまい、現在は駐車スペースの奥にガイドが1つ残っているのみになっている様です。
(2015/10/30):再びストリートビューを張り替え、2009年当時のまだ標柱が残っていた頃の様子が見える様にしました。

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