【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(その3)

前回は、江戸時代以前に使われていた「湯坂路」が、利水という観点では相当に不利な位置にあり、特に継立の観点では不適な側面があることを解説しました。今回は湯坂路や畑宿経由の道の江戸時代以前の歴史を追います。

湯坂路が何時頃から通されたのかははっきりしません。一説には古代足柄道が富士山の噴火で埋まって箱根経由の道に切り替えられた天平の頃から、既にこの湯坂路が使われていたのだとも言われますが、史料上の裏付けがある訳ではない様です。ただ、(その1)で見た様に極めて複雑な地形になっているこの山の中では、人間が歩く道筋を付けられる場所は限られており、取り敢えず箱根山を貫く街道の道筋としては、この箱根山に端を発する川の本支流間の尾根筋は、比較的無難な選択であったことも確かでしょう。

湯坂路ハイキングコース:濃霧に包まれる芦之湯側入口
天候が急変し、濃霧に包まれる
芦之湯側の湯坂路ハイキングコース入口
「鎌倉古道」と記されており
中世には成立していた道と見做されている
ただ、中世に入ると(その1)で紹介した様に「湯坂」の地名が古文書に見られる様になりますから、特に「吾妻鏡」の「治承」という年号から見ても、遅くとも平安時代末期までには湯坂路が確立していた様です。その後鎌倉幕府が箱根権現・伊豆山権現に定期的に詣でる様になったことで、箱根山中の道筋の整備が進んだのは確かでしょう。それまで足柄路と箱根路の双方が箱根越えの道として併用されていたものが、やがて箱根路へとメインルートが移っていったことと、この街道整備の間にどの様な因果関係があるかははっきりしませんが、少なくともある程度整備が行き届いていなければ利用者が増加することはなかった筈です。但し、今はこの点に深入りしません。

問題は、中世の後半、室町時代の紀行文に、既に畑宿を経由したことを示唆するものが見つかっているということです。湯坂路も相応に整備されていたと思われる頃に、早くも別のルートが開発されていたことになります。


『麓のちり』は、京都のある僧の富士遊覧の旅行記である。記述によれば、永享三年(一四三一)九月十四日に都を出立、富士見物を果して三島の知人を訪ね、更に藤沢を経て鎌倉に赴いている。鎌倉からは下総に至り、黒髪山(日光男体山)の霊場参拝を計画するが、年末となり、文章もここで途切れている。三島からの箱根越えの様子は次のように記されている。

あくれははこね山にかかる。あし(芦)河といふ所をハ過て、彼等のふもとにとゝまりぬ。入堂参社のためなりき。その砌にのそめハ、神社はいと神さひて、僧房ハことゝにきハゝし、まへにハ湖水湛々として、かたはらにハ土峯巍々たり。深更にいてゝミれハ、たちまちの月いとしろくして天と水わくかたなし。

水のえにあらぬ物から浦嶋か

はこねの海そ月にこほれる

あかつきかけて立いて侍しほとに、はた(畑)もとゆもと(湯本)なといふ所をハ、月に乗してこえハてぬ。

(山岸文庫蔵「なくさみ草・麓のちり」解題・翻刻『実践女子大学文芸史料研究所年報一一号』)

この紀行文によると、この僧は三島から箱根を越える時、芦川を通り箱根権現に詣で、月あかりに乗じて畑、湯本へと下っている。即ち元箱根(箱根権現門前町)から畑・湯本へという須雲川沿いの道を下っているのである。室町時代中期の永享三年という年に新期外輪山の峰越えの道ではなく、畑・湯本という須雲川沿いの道を下ったこの紀行文は、中世畑宿を通るいま一つの箱根越えの道があったことを実証し、興味深い。

(「中世の箱根山」 岩崎宗純 神奈川新聞社・かなしん出版 1998年 25〜26ページより、強調はブログ主)



現在の畑宿(ストリートビュー
現在も寄木細工の木工場が多く並ぶ
今のところ、中世に畑宿経由の道を通ったと記している紀行文はこれ1点が知られているのみの様です。元の年報は参照していませんので、この紀行文の由緒は私自身は未確認ですが、「小田原市史」でもこの紀行文は取り上げられていましたので、相応に信頼出来る史料であろうという前提で以下進めます。

他に史料がない以上、この頃の畑宿経由の道がどの程度整備されていたか、断定的なことは言えません。ただ、この紀行文に従うならば、僧侶の一行が月明かりで山下り出来る程度には道は整っていた筈だということになるでしょう。富士遊覧から鎌倉への道中を後のために書き記す様な旅路ならば、山中のか細い獣道を敢えて夜陰に紛れて進まなければならない様な、世間から身を隠さなければならない境遇だった筈もありません。少なくとも湯坂路と対等に選択できる程度の道が整備されていたと考えなければ、こういう道中は成立しないのではないでしょうか。

実際は、中世の紀行文で箱根山中を抜けたことが明らかなものでも、「湯坂」とは明記していないものも多数あります。こうした紀行文の場合、実は湯坂路ではなく畑宿を経ていた可能性も考えなければならないのではないか、とも思います(勿論、書かれなかったものについてはどちらのルートを経ているかを判断することは出来ません)。

しかも、この畑宿という集落は、北条氏が箱根を含む相模国の支配を確立した頃に、「諸役御免」の権利を得ていることもわかっています。

戦国時代たけなわの弘治二年(一五五六)箱根山中の畑宿から突然住民がいなくなった。この地方を治めていた北条氏は驚き、その理由を尋ねると、つぎのとおりであった。

畑の宿人、連々たいてんいたし候間お尋ねの処、早雲寺殿様(北条早雲)諸役御免許御判形(はんぎょう)下し置かれ候へ共、近年左様の儀も不入に候間、たいてんいたす由申すに付いて、三ヶ条の御一ツ書を以って、諸役免許、ごき(合器)御分国中何方(いずかた)に於いても、商売(つかまつ)るべく候由、仰せ出され候御判形・御印判社頭(しゃとう)ニ入れ置くべく候、小家ニをき候事無用に候、よこあい非分(ひぶん)申し懸けニ付ては、交名(きょうめい)をしるし、急度(きっと)申し上げべきもの也、()って(くだん)の如し

弘治二年丙辰

三月十九日 石巻(家貞)(花押)

畑宿 源左衛門

九郎右衛門

孫右衛門

(相州文書)

(読み下し筆者)

この北条氏の郡代石巻家貞副状によると、畑宿の住民が退転(たいてん)した原因は、早雲寺殿様(北条早雲)が、かつてこの宿に諸役免許の御判形を下されていたが、近頃はその約束も反古(ほご)同然になり、ごき(合器=挽物)商売も自由にできなくなったので、止むを得ず退転したというのであった。

(「箱根細工物語 漂泊と定住の木工芸」岩崎宗純 1988年 14〜16ページ「早雲と畑宿」より引用、史料引用箇所適宜字下げ)


これは、箱根一帯が北条氏の支配下に入る頃までに、既に畑宿に相応に地力が付いていたことを意味していると考えて差し支えないと思います。大した影響力のないか細い集落に「諸役御免」を与えても、領主には何の得にもならないからです。挽物の商いで領内を潤してくれれば、その見返りが何らかの形で期待できるからこそ、領主も進んで免状に印を押す気になるのでしょう。なお、この結果畑宿の「諸役御免」は改めて確認され、北条氏(この頃の当主は3代目氏康)からその旨の朱印状を勝ち得ることに成功しています。勿論畑宿の村人はその後村に戻って来ました。

また、ここまであまり意識せずに「畑宿」と書いてきましたが、この史料に「畑の宿人」「畑宿」と、この地が宿場であることを窺わせる表現が含まれている点も注目です。この文書が書かれた時点で「麓のちり」からは既に100年以上が経過していますが、この頃にはこの集落を抜ける道を行く旅人が相応に存在し、宿を営むことが出来る程の通行量になっていたことを裏付けていると言って良いのではないでしょうか。「新編相模国風土記稿」の畑宿の項でも、この点を根拠に当時は宿場であったという見立てをしています。

因みに、この時期に箱根路の普請を遠く伊豆半島の村に命じたと思われる朱印状が残っています。

小田原北条氏の箱根竹についての史料の初見は、天文五年(一五三六)二月二日の北条氏虎朱印状である(読み下し筆者、以下同じ)。

巳年の箱根竹未進に候、急度人夫越し候て切る可く候、

駿符(府)御屋形御越、さ様の普請彼是入り候間、

早々越して候て切る可べき者也、仍って件の如し、

[天文五]丙申(虎朱印)二月二日

那賀之郷

百姓中

(松崎町土屋文書)

那賀之郷百姓(静岡県松崎町)宛のもので、巳年(天文二年)の箱根竹が未進である。この度駿府御屋形(今川氏輝(うじてる))がお越しになる、そのための普請に彼是必要なので早く切って供出せよ、といった内容である。

かれこれ普請に入用とあるが、この普請とはなんであろうか。北条氏とは親密な関係にあった氏輝が小田原に来遊するにあたって、北条氏は歓迎の意味を込めて何らかの建物を普請したのであろうか。

しかし、この朱印状が発給された三日後の天文五年二月五日、氏輝は小田原に来遊し、北条氏の歌会に出席している(『為和集』)。箱根竹が氏輝のための建物普請に使われるものとしたら間に合わなかったのではなかろうか。むしろ箱根竹は、氏輝が箱根山を越えて小田原に向かう時に通る箱根道の道普請に使われたのではなかろうか。二月という厳冬期、箱根道は、雪や霜で泥道化する時期でもあった。那賀郷の百姓が供出を命ぜられた箱根竹は、箱根道の泥道化防止に使われたのではなかろうか。

(「箱根路歴史探索—街道と温泉秘話—」岩崎宗純 2002年 夢工房 57〜59ページ「小田原北条氏と箱根竹」より)



静岡県松崎町の位置
この村の位置は伊豆半島の先端に近いと言って良く、ここから三島まででも直線距離で40km以上も隔たっています。それ程の遠方から納入する箱根竹を持参して3日後の今川氏訪問に諸々手筈を整えなければならないというのは、冬場という条件も加味すると相当な強行スケジュールであったことがわかります。本来納めるべきものが未納であるからとは言え、これ程遠方の村にその様な普請の要請が行く「不自然さ」は、確かにその理由を考えざるを得ないもので、岩崎氏の指摘はその点で的を得ていると言えるのではないでしょうか。

畑宿経由の道を含む箱根路は、石畳が敷かれる以前は竹を使って道を普請していたことが知られていますが、この見立ての通りであれば、竹による普請は江戸時代以前から、北条氏の統治の頃から既に行われていたもので、江戸時代の運用は単にそれを引き継いだに過ぎないというということになる訳です。この竹普請が湯坂路に対しても行われていたかどうかは定かではありませんが、どちらかと言えばこの様な普請が必要だったのは、ぬかるみやすいとされている畑宿経由の道だった筈でしょう。もっとも、後に石畳化された区間に尾根筋に当たる箱根西坂も含まれていることから考えると、あるいは湯坂路でも同様の普請を行った可能性は否定出来ません。

湯坂路ハイキングコース:鷹巣城跡ガイド
鷹巣城跡ガイド
実際はこのガイドのある地にあったのかさえ
確証が得られていない
それでは、何故北条氏が湯坂路と畑宿経由の道の両方を維持していたのか、という問題がまだ残っています。実際、北条氏は湯坂路の上に鷹ノ巣城と湯坂城という2つの城を構えた訳ですから、決して湯坂路を軽視していたのでもないことは確かです。その一方で、「麓のちり」の年代を考慮すると、戦国時代に入る以前から湯坂路を通らない道筋が求められていたことになり、とすれば戦国風の防衛論では充分な説明が出来ないことになります。

その点ではやはり、前回解説した利水面の問題は一考に値すると思うのですが如何でしょうか。特に商業流通の点では、あまりリスクの高い経路は流通コストを押し上げる要因になりますから、より安定した陸運を実現するのに適した道筋が早い時期から望まれていたのだとしても不自然ではないと思います。山深い中では維持管理のための手間もなかなか思う様に掛けられないので、特にぬかるみの酷い時期には湯坂路が使われるなどの使い分けはあったのかも知れませんし、戦国時代に入ると湯坂路の要害地形が重視されたのも確かでしょう。しかし、その頃には既に商業流通向けの通路として畑宿経由の道が確立していれば、寧ろ軍道と商用の道が分離されることにも繋がり、却って都合の良い面もあったのではないかと思います。

勿論、こうした考えが妥当かどうかは、今後更に史料が発掘されることに期待するしかありません。

さて、比較的早い時期から栄えていた畑宿が、そして箱根山中の東海道が江戸時代に入ってどうなったのか、次回からはその辺りをまとめたいと思います。



追記(2015/08/17):ストリートビューを2009年時点のもので固定しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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