【旧東海道】その15 箱根・湯坂路と畑宿(その2)

前回は、江戸時代以前に使われていた「湯坂路」が畑宿経由の道に切り替えられるに至った経緯を考えるに当たり、まず箱根山の成立過程を見るところまでのお話でした。今回も引き続き、地形面の、特に利水面に注目してお話を続けます。


現在の湯坂路ハイキングコースの
湯本側登り口(ストリートビュー
かつての湯坂路の登り口とは異なる場所にある
湯坂路は、現在のハイキングコースから考えると、湯本の登り口から芦之湯に到着するまで、約2里弱(7km)の距離の間に約750m程の高低差があります。芦之湯が中世に継立場の様な役目を果たし得たかどうかは実ははっきりしないのですが、少なくともここまで来れば水が得られるのは確かです。この問題について去る郷土資料館の学芸員の方に相談したところ、この程度の距離ならば、水の補給なしでも何とか湯坂道を通過出来るのではないかという意見を戴いたことがあるのですが、私は恒常的な街道の運営を考えた時には、やはりそれは難しいのではないかと見ています。


中世の紀行文などに登場する貴族や武士などの場合は、単身やごく少人数での道中ということは考え難く、最低でも荷物を携行する使用人が数名は同行していたと思います。ですから彼らの場合は湯坂路に入る前に携帯する水を補給すれば良く、紀行文中ではわざわざその点に触れることは基本的になかったのでしょう。具体的にどの程度の量を携行すれば良いかは季節等による差もありますから一概に言えませんが、水1ℓで1kgであることを考えれば、それだけ荷重が増えることは考慮しなければなりません。また、馬を連れている場合には人間以上に水を飲みますから、その分を増やしてやらなければなりません。

これに対し、荷物運搬の事業である継立では、人馬の運搬効率を少しでも上げる方向を目指していた筈だと思います。少なくとも江戸時代の継立では、道中で必要となる水などを携行することは基本的にありませんでした。その分が「死重」になってしまうからです。必要な水は立場などで補給して、その分肝心の荷物運搬の方に最大限力を発揮してもらうという考え方の中では、そういう補給地点が適切に配置出来るかどうかが重要な課題になってきます。

さて、箱根山が全体としてはその地下に豊富な地下水を溜め込んでおり、それが芦ノ湖や温泉などの水源となっている点は前回見た通りです。しかし、それならば箱根山中では何処でも水が比較的容易に得られるのでしょうか。

湯坂路ハイキングコース:鷹巣山付近
湯坂路ハイキングコース:鷹巣山付近
この辺りでは比較的尾根が広く、ススキが生い茂る
一般的には、尾根筋は水捌けが良いために足場が安定するとされるものの、いざ水を得ようと思った時には近場に適切な水場を得難くなるということをも意味しています。但し、一口に「尾根筋」と言ってもその形態はまちまちであり、具体的な地形や地質面等も含めて、水の確保の難易度を検討する必要があります。実際、ここでは詳しく触れませんが、三島側の箱根西坂も基本的には尾根筋道ではありましたが、こちらの途上では山中新田をはじめ、笹原新田、三谷新田、市野山新田、塚原新田の計5ヶ所の新田村が整備されて、曲がりなりにも立場などを営んでいました(実際は相応に苦労はありましたが、井戸水を得ることは出来ていました)し、中世の山中関所跡とされている所では自噴する井戸があって関守の貴重な水源になっていました。単純に「尾根筋だから」と考えてしまうのは早計です。

もっとも、かつての湯坂路とされるハイキングコースを歩いていてすぐに気付くのは、水場と呼べる様な場所が皆目見当たらないことです。尾根筋なのだから当然と言えば当然なのですが、鞍部と呼ばれる幾らか水が寄って来そうな地形の場所でも、ハイキングコースが通行者の圧力で掘れて雨天時の涸れ沢になっている様な場所を見つけるのが精々で、常時水が流れる沢は道の周りにはありません。しかし、水を得る手段は地表水だけではなく、地下水に頼ることも考えられます。


湯坂山の位置。
湯坂城址はここから東へ1kmほど下った辺り
湯坂路ハイキングコース:湯坂城址
湯坂城址ガイド
この道の途中には湯坂城や鷹ノ巣城といった、戦国時代の城趾が存在しています。特に湯坂城は小田原北条氏よりも前に一帯を支配した大森氏の手によって設置されたとされていることから、途中ブランクはあってもそれなりに長期間使用されていたことになります。当然そこでは一定期間人が詰めて生活する訳ですから、そのためには水の供給は欠かせません。こうした施設が利水面にどの様に対応していたかは、この街道の運営を考える上でも重要なヒントになると思います。しかしながら、残念ながらこれらの城趾は発掘調査が行われたことがなく、地表からの観察でわかる範囲での調査に留まっています。一応、「小田原市史 別編 城郭」には湯坂城についての遺構調査の結果がまとめられているものの(413〜418ページ)、そこに見える範囲では利水に関連しそうな遺構は見当たりません。

外輪山には同じ時期の山中城趾があり、こちらは既に発掘調査の上で城趾公園として整備されています。そこでは大規模な堀などと共に「箱井戸」「田尻の池」等、利水のための施設が大規模に設けられていたことがわかります。これに対し、湯坂城の平面図を見る限りでは、山中城ほどの規模の利水施設を想定するのは厳しそうで、湯坂城では果たしてどの様にして水を賄っていたのか不思議に思えて来ます。出来れば一度発掘調査を望みたいところですが、ここは国立公園の中ですから、大掛かりな現状変更を伴う発掘調査は難しいのでしょう。せめて井戸が掘られていたか、くらいのことがわかると良いのですが…。もっとも、湯坂城はこの尾根筋の最も低い場所(標高275m)に設けられており、あるいは利水面を考えた時にはこの標高が限界だった可能性もあります。また、ここから湯本の本郷までは直線距離で500m足らずしか離れておらず、170m近い標高差があるとは言え、本郷を補給拠点として城を維持する方が現実的だったかも知れません。ただ、立場を設置するには湯坂城址の位置では近過ぎるので、尾根筋をもっと登った所、例えば湯坂山付近を選びたいところでしょう。


では、この尾根の下の地下水はどの様になっているのでしょうか。一応、箱根山の地下水についての論文なども当たったのですが、基本的には温泉水に関する調査が主で、湯坂の尾根筋の下をどの様に地下水が流れているかについて調べたものは見つけられませんでした。ただ、この湯坂路が通っていた尾根の南側の中腹からは、何本かの沢や滝が流出しています。そこでこれを手掛かりに、この尾根筋に、中世から近世にかけて実現可能な程度のな深さの井戸で掘り当てられる地下水がありそうか、考えてみましょう。



鎖雲寺対岸の唐沢付近の地形図
(「地理院地図」上で
『火山基本図「箱根山」(陰影段彩)』を重ねて表示)
これらの沢の中で、比較的規模が大きく、位置的にも「有望」なのが左の地図で「大天狗山神社」の傍らに見えている沢です。国土地理院の火山基本図「箱根山」では、この沢は「唐沢」と名付けられています(リンク先地図左端、図外に「-86」と記された付近)。東海道筋に鎖雲寺がある辺りの須雲川の対岸に位置しますが、付近には現在はバンガローなどが存在します。「東海道分間延絵図」にはこの沢の存在は描かれておらず、その近くに「売滝(東京美術版解説では「殻滝」)」が描かれていて、降雨後のみ現れるので酒匂川の渡しの川閊えの目安になっていたとされています。「唐沢」の名はその伝では「涸れ沢」が転じたものなのかも知れません。

この沢を火山基本図上で辿って行くと、浅間山の南側斜面に複数の筋の急峻な谷を抉っている沢であることがわかります(リンク先地図右端、図外に同じく「-86」と記された辺りから)。湯坂路はこの深い谷を迂回する様に北へと逸れながら尾根筋を経て浅間山へと登っていきます。この地形から考えると、やはり地表付近の地下水もこれらの沢筋に沿って流れて沢へと湧き出ている可能性が高そうです。また、この地図上で湯坂路に近い沢は標高700mより低い場所までしか描かれておらず、その地点から尾根筋からの標高差は50m程度あります。この状況から考えると、やはり尾根筋で利水に適した水脈を期待するのは難しそうです。


「初花の滝」付近の地形図
(「地理院地図」上で
『火山基本図「箱根山」(陰影段彩)』を重ねて表示)
旧東海道:鎖雲寺前付近から湯坂路の尾根を望む
旧東海道・鎖雲寺前付近から湯坂路の尾根を望む
緑が濃くなる季節には初花の滝は望めない
地形図上では、唐沢の東側500~600m程離れた辺りに「初花ノ滝」と記されています。かつての須雲川村の辺りから、須雲川越しに湯坂路の通る尾根の中腹に見える滝ですが、夏場は緑に覆われるために見出すのが難しく、その点で「冬季限定」の滝です。斜面が特に急であるためか、この滝の至近まで行く道は整備されていません。

水量はあまり多くなく、そのことを示すかの様に、この滝の上下には地形図上では沢が描かれていません。また、火山基本図の方にはこの滝は記されておらず、やはり沢は記されていません。地形図上では滝の標高は280m少々ですが、水の湧出はもう少し上であろうとは思います。また、その西側にはもう1本別の沢があり、そちらは標高320m付近まで描かれています。しかし、そこから尾根筋までは200m以上の標高差があります。


「飛竜の滝」付近の地形図
(「地理院地図」上で
『火山基本図「箱根山」(陰影段彩)』を重ねて表示)
旧東海道:須雲大沢の板橋
旧東海道・須雲大沢には現在は板橋が架かる
現在は下流側に堰堤が作られたので
風景が変わっている
ファイル:Hiryu Falls 04.jpg - Wikipedia
飛竜の滝(Wikipediaより)
先ほどの唐沢より1本上流の沢には「飛竜の滝」があります。滝頭の標高は700m弱あります。ここは「大沢川」あるいは「須雲大沢」と呼ばれる支流の上流で、この滝に因んでか「瀧沢」と呼ばれていたことが「東海道分間延絵図」で確認できます。それだけに「初花の滝」よりは水量が豊富です。すぐ脇を畑宿から芦之湯へと向かう道が並行する(地形図上点線で示されている)ので、「初花の滝」よりはアクセスはいい方ですが、等高線の混み方を見れば、そして滝付近の非常に細かいつづら折りの道筋を見れば、この道の傾斜が半端ではないことは明白でしょう。芦之湯まではここから更に150mほどの登り道になり、湯坂路へとつながっています。他方、須雲大沢の方はこの滝の上流側では傾斜が緩やかになり、芦之湯まで遡ることが出来ます。

芦之湯まで行けば、駒ケ岳から比較的豊富な水(と温泉)が下ってくるのですが、こうして見た限りにおいては、残念ながらその水が湯坂路の尾根筋を潤すことは、地下水脈を含めてなさそうです。ここまでの話は飽くまでも地表面から地下水の有無を推測したに過ぎませんが、一つだけ言えるのは、より高い位置の水源がなければ、その地点が潤されることはない、ということであり、湯坂路の尾根筋にはその様な水源が見当たらなかった可能性が高そうです。

因みに、畑宿経由の旧東海道はこの須雲大沢を石橋で越えます。現在は堰堤が設けられたために多少地形が変わっていますが、この沢を安全に越えるために多少傾斜の緩い下流側へと降りていることがわかります。


畑宿の水管式発電所の導水管
中心十字線の辺りで地表に出ている
(「地理院地図」より)
旧東海道:畑宿の発電所に向かう水管
畑宿の発電所に向かう水管
なお、川の水を尾根筋の上に「上げる」方法としては、「玉川上水」の様により標高の高い所で取水して、川よりも緩やかな勾配を付けた水路を掘って尾根の上まで水を導く方法があります。この手法自体は古代から存在するもので、相模国でも海老名の国分寺まで目久尻川の水を導いて舟運に使ったという「逆川(さかさがわ)」の存在が知られています。「玉川上水」は極めて大規模な例ですが、江戸時代当時にはごく普通に使われる導水技術で、箱根西坂の集落でもこの方法で川の水を導いています。

しかし、これが出来るためには、やはり導水する地点より高い所に川が存在する必要があります。この地形図には昭和16年(1941年)に設置された畑宿の水管発電所の導水路が描かれています。発電所の記号が描かれていますので、そこから北西に伸びる直線を見つけるのが早いでしょう。その上流側の点線が地下に埋設された水管で、その先を辿ると「朝日滝」の辺りを通って箱根新道や「七曲り」の坂ををくぐり、再び須雲川の本流に辿り着きます。ここに描かれた堰が発電所の取水堰で、取水地点の標高が480mくらいです。湯坂山の三角点は標高540mあまりを指していました。つまり、須雲川をここまで上流まで遡っても、湯坂路の上まで水を引くことはまず出来ないのです。もっと上流まで行けば湯坂山の標高を越えることは一応出来ますが、そんなに遠くから湯坂路の上まで、それこそ「玉川上水」張りの水路をこの急斜面に付けるのは至難の業でしょう。また、あまり上流まで行ってしまうと、今度は導水できる程の充分な水量が得られなくなってしまいます。

見方を変えると、それだけ須雲川や早川の谷が深く箱根山中を浸食しており、湯坂路の尾根筋との比高差が出来過ぎているのです。須雲川の流れは箱根火山の初期カルデラの形成された頃から既にあった様ですが、それだけに湯坂路の尾根の麓の下刻も相当に進んでいて、尾根筋から見ると水がますます「低く」なってしまっている訳ですね。湯坂路の尾根の上に比較的平場が見出せるのに対し、尾根の下の方が等高線が詰んでいて傾斜が険しくなっているのも、この谷が侵食で出来たものであることを物語っています。

東海道分間延絵図:畑宿村付近
「東海道分間延絵図」畑宿村付近
石橋が多数架かり、水路が貫流している
東海道分間延絵図:笈の平の甘酒小屋付近
「東海道分間延絵図」笈の平の甘酒小屋付近
ここでは「字大平」と記されている
さて、湯坂路が利水面ではかなり不利な一面を持っていることは、ここまで見て来た通りであろうと思います。対して畑宿経由の道では、畑宿自身がかなり大きな集落になっていますし、「東海道分間延絵図」では畑宿の中を多数の水路が通過している様子が確認出来ます。また、畑宿よりもっと標高の高い「(おい)の平」には、今も現役で営業する甘酒茶屋をはじめ、最盛期には4軒の甘酒小屋が並んでいたと言います。この4軒を含め、湯本を出てから元箱根に至るまでに、「東海道分間延絵図」上で10を越える茶屋や甘酒小屋を数え上げることが出来ます(江戸時代内でもこの数は上下していた様ですが、これは単に店の流行り廃りによるものでしょう)。これを見ても、この道筋では然るべき所では水が充分確保出来たことが良くわかります。

因みに、畑宿地区の上水道は、1976年(昭和51年)時点で地元の簡易水道組合が全量を賄っていましたが、水源は湧水によっており、これを見ても畑宿が利水では十分に恵まれた地点にあることが窺えます(「箱根カルデラの水収支調査報告書」箱根町 1978年)。

とは言え、これだけでは飽くまでも状況の比較を行っているに過ぎません。この2つの道の変遷をもう少し史料に即して見てみる必要があります。次回からは、江戸時代以前の2つの街道の歴史を追います。



追記(2014/04/28):飛竜の滝のWikipediaの写真を追加しました。
(2015/08/17):ストリートビューを2009年時点の画像で固定しました。また、「地理院地図」の地図の埋め込みの形式を変更し、1点を除いて『火山基本図「箱根山」(陰影段彩)』を重ねました(発電所の水管については、「火山基本図」を重ねると却って見難くなってしまうため、地形図のみの表示としました)。本文中の文面は「地理院地図」上で「火山基本図」が公開される前のものであるため、図示と若干噛み合わない部分が出来ましたが、こちらはそのままとしてあります。

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