相模国の柴胡について

先日下鶴間宿について紹介した際に、渡辺崋山の「游相日記」を取り上げました。矢倉沢往還を進む日記ではあるものの、周辺の景観を考えるのに適切と考えたため、道中で詳しく記述される養蚕についての話を併せて紹介しました。

この「游相日記」で、下鶴間宿を出発して西へ向かった辺りで、この一帯が「柴胡が原」と呼ばれていることを紹介しています。先日の記事中でこの「柴胡」についても併せて紹介しようかとも考えたのですが、滝山道のテーマの中ではやや余談に属する話が増えそうだったので、その時には触れずにおきました。今回はその「柴胡」について、相模国やその周辺に範囲を広げて考えてみたいと思います。

ファイル:Bupleurum falcatum1 eF.jpg - Wikipedia
ミシマサイコ
("Bupleurum falcatum1 eF".
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「柴胡」とは漢方の生薬で解熱・鎮痛作用があります。「ミシマサイコ」というセリ科の植物の根からエキスを抽出して使用するのですが、崋山の記すところに従うなら、下鶴間宿の西側、つまり相模野一帯はこのミシマサイコが多く見られる地ということになります。

しかし、神奈川県の2006年版のレッドデータブックでは、ミシマサイコは「絶滅危惧IA類」に分類されています。これは「ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの」という意味で、実際に神奈川県下ではなかなかその姿を見掛けることはなくなっています。「山渓カラー名鑑 日本の野草」(1982年 山と渓谷社)では1982年10月に、また「山渓ハンディ図鑑1 野に咲く花」(1989年 山と渓谷社)には1986年10月に、どちらも三浦半島で撮影したという写真が掲載されています。どちらも20年以上前の記録であり、現在でも同地でミシマサイコの生息を確認出来るのかどうかは不明です。なお、後者は2013年に増補改訂新版が出版されていますが、ミシマサイコの項には大きな変化はなく、使用されている写真も同一のものです。

この相模野の柴胡について、「相模原市史」の「第1巻」(1964年)では次の様に解説されています。

渡辺崋山の「遊相日記」天保二年(一八三一)九月二十二日の条に

「鶴間原(に)出づ、この原、縦十三里、横一里柴胡多し。よって、柴胡の原ともよぶ。諸山いよいよちかし」

と記している。おそらく附近にいた人々よりの聞き書であろう。以上(注:この引用の前で芭蕉の句碑などが検討されている)相模野を柴胡の原と呼んだという諸例は、みな文化文政以降の幕末で、それ以前の文献はいまのところ見られない。想うに相模野を柴胡の原とよんだことは、比較的新しい時代、それも俳諧などに多く用いられたもので、古くはそうよんだことはなかったのではあるまいか。現在相模野からは柴胡を見つけだすことは、きわめてまれで、採集することはほとんど困難な状態になっている。柴胡の原とよばれたというところから、かつてはたくさんあったものが、今日ではなくなったと考えられているが、あるいは始めよりこの相模野には柴胡は少かったのではあるまいか。

それが近い時代に柴胡の原とよばれるにいたったという原因は、延喜式典薬寮の諸国進年料雑薬の相模国から貢納した薬種のうちに、前胡があり、それと柴胡とが混同されたものであろう。しかし延喜式では両種ははっきりと区別され、その貢納する国は別箇になっていて、柴胡を納める国は、尾張・美濃・丹波・播摩・備前・安芸・阿波の七国である。前胡の方は十七国にわたり、尾張・丹波・播摩・安芸の諸国は両種を納めている。前胡の方が各地に所在して、得られ易かったもののようである。

柴胡も前胡もその一名を「のぜり」と称し、但名では両種ともに「のだけ」といわれている。そしていずれもその根を採って解熱剤としたものである。

(上記同書336〜337ページ、第三編第三章「平安時代の相模原」より)

古代の史料に見える相模の貢納品の妥当性についてはここでは論評を控えますが、それらに典拠して相模野の風景のイメージが俳諧によって形成されたもので、実態を表したものとは必ずしも言えないのではないか、ということになります。

しかし、同じ「相模原市史」でも約45年後に編纂された「自然編」(2009年)では、この「第1巻」の記述には触れることなく、近世までの乱獲によって激減したのであろうとしています(432ページ、第13章「19 柴胡が原のサイコは、今」)。執筆担当者や時期の違いがあるとは言え、同じ市史内で異なる見解が併存する形になっている訳です。

もっとも、この「自然編」では引き続いて次の様な指摘がなされています。

はたしてミシマサイコは、いつ市内から絶滅してしまったのだろうか。そのカギとなる標本が、少なくとも1968(昭和43)年までは現存していたのである。

その標本は、農業学校の教師で郷土史家でもあった金井茂(1906-1977)が1934(昭和9)年に相原で採集したものである。1968年頃、相模原にゆかりのあるサイコを育てて広めようという運動が起こった。この時、市長から相談を持ちかけられた金井が、自宅に眠っていた古い標本を出して市長室に飾ったと書き残しているのである(金井、1968)。昭和初期、すでに少なくなっていたとはいえ、ミシマサイコは確かに相模原にあったのである。しかし残念ながら、その標本の所在は現在わかっていない。地域植物相の歴史を語るこの貴重な標本は今、どこに眠っているのだろう。

(上記同書432ページ)

つまり、相模原市内でもミシマサイコの発見事例があることを指摘することで、暗に「第1巻」の記述へのアンチテーゼとなっている様にも見受けられます。また、境川を挟んで相模野に隣接する地域でも、「新編武蔵風土記稿」上で

農耕の暇に蠶桑(さんそう)を事とし、春は原野に生ずる所の柴胡を採て餘業とす、これ當國の内に生するものながら鎌倉柴胡とて世に用る所なり、

(卷之九十 多磨郡之二 根岸村の項、雄山閣版より、ルビはブログ主)

という記述が見られます。「相模原市史 第1巻」では、上記の引用箇所の手前で「新編相模国風土記稿」を引用した上で

相模からも産したことにはなっているが、それもだいたい南部に偏し、相模野からでたことにはなっていない。

(上記同書335〜337ページより)

と指摘しているのですが、これは必ずしも当たっていないということになるのではないかと思います。

そこで、「新編相模国風土記稿」中の柴胡についての記述を洗い出すと、次の様になります。まず、第3巻の「山川」で相模国の産物の1つとして、

◯柴胡大住郡東西田原村、足柄上郡虫澤・矢倉澤・三竹山三村、同下郡久野・底倉二村高座郡龜井野村等に産せり、是を鎌倉柴胡と云ふ、又三浦郡城ヶ島村にも産せし事ありしとなり、古風土記殘本にも、當國の土貢とす、

(以下、引用は何れも雄山閣版より)

と産出地が並べられています。これを手掛かりに各地の記述を見ていくと、
  • 足柄上郡:
    • ◯柴胡虫澤・矢倉澤・三竹山三村に産す、古風土記殘本にも、本郡の産とす、

      (卷之十二 足柄上郡卷之一より)

    • 村内柴胡・紫根を産せり、

      (卷之二十一 足柄上郡卷之十 矢倉澤村の項より。なお、虫澤村(卷之十七)と三竹山村(卷之十八)には柴胡に関する記述なし)

  • 足柄下郡:
    • ◯柴胡、久野村の産、古風土記殘本にも、足輕郡の産物とす、

      (卷之二十二 足柄下郡卷之一より。底倉の名が含まれていない)

    • 産物には柿實・梨子・柴胡・蕨の類多し、

      (卷之三十四 足柄下郡卷之十三 久野村の項より)

    • 産物には唐藥俗にせんぶりと云、・柴胡・紫根等、山中に生ず、

      (卷之三十 足柄下郡卷之九 底倉村の項より)

  • 大住郡:
    • ◯柴胡東西田原二村に産す、

      (卷之四十三 大住郡卷之一より。なお、東田原村と西田原村(共に卷之五十二)には柴胡に関する記述なし)

  • 高座郡:
    • ◯柴胡龜井野村邊に産す

      (卷之五十九 高座郡卷之一より)

    • ◯秣場 村の(ひつじさる)にあり段別凡百町高八十石の貢税を出す、此野に柴胡多く生ず、

      (卷之六十 高座郡卷之二 龜井野村の項より)

相模国の柴胡地図
「新編武蔵風土記稿」で柴胡が産出されると記された村々
この様になります。現在あまり一般に馴染みのない地名が多いので、Yahoo!地図上で大まかな場所をプロットしてみました(緑色のタグ)。また、併せて上記の標本が採集された相原と「新編武蔵風土記稿」に記された根岸村の位置も記しました(ピンクのタグ)が、これを見ても「新編相模国風土記稿」に従えば確かに相模国の南寄りに偏っている様に見えるものの、実際のミシマサイコの生息地が必ずしも南部に限定されていた訳ではないことが窺えます。

ただ、その具体的な生育環境について明確な記述があるのは、亀井野村の「秣場」程度で、他は概ね村の産物であることが記されるに留まっています。底倉村の「山中」という表記も、この村全体が箱根の山中にあることを考えれば、これだけでは生育環境を考えるには不十分です。

では、そもそもミシマサイコはどの様な場所に生えるのでしょうか。上記で取り上げた山と渓谷社の2種類の図鑑を含め、各種の植物事典等のミシマサイコに関する記述に大筋で共通するのは
  • 日当たりの良い地域に生える
  • 高さ(茎高)は30cm〜。高い方の記述は安定しないが概ね70cm~1m程度
  • 多年草
といった辺りの記述です。しかし、より詳しい生態については記述されているものが多くない様です。

他方、ミシマサイコの栽培方法から何かわかることはないでしょうか。この草が栽培される様になったのは、こちらの㈱ウチダ和漢薬のサイトによれば1955年、つまり高度成長時代に入ってからとかなり遅い時期であったとのことです。それまでは専ら自生種を探して採集していたということになります。まだ試行錯誤されている部分も多いことから見ても、ミシマサイコの栽培のために品種改良が行われている様な状況ではあまりなさそうですから、栽培時に観察された特性が概ねそのまま自生種にも適用可能と考えて良いでしょう。そこで、ネットや書物上の栽培体験記などを手掛かりにミシマサイコの生態を考える上でヒントになりそうなものを探ってみると、
  • 風通しが良く、湿気が抜けやすい地で良く育つ
  • 雑草に弱い
  • 連作障害がある
といった特徴が見えてきます。

特に雑草については
  • ミシマサイコを栽培するにあたって避けては通れない問題は、やはり雑草の処理だと思います。ミシマサイコは、発芽も遅ければ成長も遅い作物です。発芽までの間にも大量に雑草が発生しますし、発芽後、ミシマサイコが畝を占有するまでも数ヶ月を要するので、ミシマサイコの発芽より後に発生した雑草さえも、次から次へとその成長を追い抜く形となります。そのため通常は、初春の畝立てから夏真っ盛りの時期まで、複数回の除草作業が必須となるわけです。

    (「ミシマサイコ栽培の宿命。第3次雑草ウォー。 | 発光大王堂」より)

  • ミシマサイコはかなり野生の性質を残した薬草らしいですが、栽培となると雑草に非常に弱いとのこと。特に幼いうちはしょっちゅう草取りしてやらないと草に負けてしまうそう。

    (「八朔便り ミシマサイコ栽培」より)

など、複数箇所で触れられていました。これはミシマサイコの茎高が高くても1m未満と比較的低い植物であることと関係があるだろうと思います。それにも拘らず日当たりが必要で風通しの良い比較的乾燥した地を好むため、他の植物によって生息が妨げられない様にする必要が出て来る訳です。

とあれば、こうした植物はどちらかと言えばあまり遷移が進んでいない、人的あるいは自然による撹乱が強い生息環境をを好むということになるのではないでしょうか。

そこで「新編相模国風土記稿」の亀井野村の記述をもう一度良く見てみます。「村の坤」、つまり南西方面に位置していたというこの秣場は、現在の日大生物資源学部のキャンパスが広がる辺りということになるでしょう(上記の地図でもその位置をポイントしています)。ここは相模野台地の南端に近い地域で日当たりの良い平場になっています。百町歩、つまりおよそ100haほどの広さの秣場で毎年80石ほどの生産高があったことになり、これは秣場という非耕作地としてはなかなかの収量です。この秣場が柴胡の他にどの様なものを産出していたのかは明記されていませんが、そもそも秣場について別記している事例自体、「風土記稿」の記述としては比較的珍しいことです。恐らくそれは、この高い生産力故に特記事項として取り上げられたということでしょう。つまり、その程度にこの秣場は人間の強い介入があり、生態系に対する撹乱が強かったということになります。ミシマサイコは、その様な環境で多く出ていた、ということになりそうです。

また、「新編相模国風土記稿」に記された亀井野村以外の各村々も、地形は概ね南ないし東向きの斜面地が多く、そうした地形の中に同様の秣場があれば、やはり柴胡の産出に向いていたということになるのかも知れません。

こうした生息環境を考えると、このミシマサイコが遷移の進む植生の中で、優勢種としてある程度の広がりを持った地域に繁茂するといった状況は考え難くなります。その点では「柴胡が原」という言葉が示す様な「ミシマサイコのお花畑」が、自生種によって成り立つということは起き難いのではないかと思います。

相模野は江戸時代にはむしろ未開の地でした。「新編相模国風土記稿」では「相模野」について次の様に記しています。

郡の中程より北端に及ぶ迄一圓の曠野なり、東西一里半に餘り南北五里餘、過半草莽に屬し小松など生ぜし所あり、野の形狀を概していはゞ、東方上溝村と西方上矢部新田村の間、殊に狹まり徑凡二百間、土人此所をひくのろと呼惋もひさこの如し、四邊の村々は己が村名を以て接する所の野に名づく、鶴間野相原野の類これなり、北條氏の頃も此例ありしこと、當麻無量光寺所藏北條氏の文書に見えたり…今この邊の秣を苅取り、御料、私領各野永を貢ず上下鶴間・鵜野森・淵野邊・柏ヶ谷・栗原・四ッ谷・新田宿・座間・入谷・新戸・磯部・當麻・上下溝・田名・上下九澤・大嶋・上相原・橋本・小山等二十二村及武州多磨郡木曾・根岸の二村なり、往古の様を考るに、此邊より南方は總て原野にして、鎌倉將軍の頃大庭野…など稱せしもこの野に續きて、國中第一の曠野たるを以て、相模野の名は負しならん今も此邊數村に秣野多くあるも、皆原野の開墾せし村々なればかく空閑の地多きなるべし、されば往古は東西の邊に村落をなし、其他は大抵原野なりしと見えたり、もとより土地高く平坦にして、水利不便なれば當時よりやゝ開闢すと雖、猶曠野草莽の地多く、今も年々開墾の擧止まず、

(卷之五十九 高座郡卷之一より、…は中略)

こうした地域では、人里近い辺縁部は別として、全体としてみれば亀井野村の秣場の様には人的撹乱が起き難く、ミシマサイコが入って行き難い環境であったと言えそうです。

相模原市史」第1巻が指摘する「あるいは始めよりこの相模野には柴胡は少かったのではあるまいか」は、その限りにおいては妥当性があるのではないかと思えるのですが、如何でしょうか。

もっとも、古代まで遡った時に、より人為的な撹乱の激しい地でミシマサイコが多数採集される状況はあったのかも知れず、「鎌倉柴胡」という別称もあるいは鎌倉郡の土地利用がそうした状況にあったことを反映していると見ることが出来るのかも知れません。この辺りは同時代の史料を更に検討する必要がありそうです。



追記(2014/04/13):「『新編武蔵風土記稿』で柴胡が産出されると記された村々」で使用していたYahoo!地図の「スポットノート」サービスが2014/06/19でサービスを終了するとのアナウンスがあったため、この地図のスクリーンショットを取って注記を加えたものに入れ替えました。なお、サービス終了までは元の地図表示をこちらに残しますが、サービス終了後は見られなくなりますので御了承下さい。
(2015/01/07):「スポットノート」の地図が表示されなくなったため、撤去致しました。また、Wikimedia Commonsのライセンス表記を追加しました。


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