1707 富士山宝永噴火報告書(内閣府防災担当)

前回は内閣府防災担当の元禄地震の報告書を紹介しました。その最後で、「歴史災害の教訓報告書・体験集 - 内閣府」というページに、江戸時代以降の各種災害の報告書がまとめられていることも併せて記しておいた訳ですが、折角なのでその中から他の報告書も読んでみることにしました。

元禄地震のわずか4年後の宝永4年(1707年)に富士山の宝永噴火が起こり、その結果として東海道筋の元禄地震の記録が少なくなってしまったという記述を前回引用しましたが、その宝永噴火についてはこちらのページに掲載されています。

報告書(1707 富士山宝永噴火)


こちらは前回の報告書とは異なり、各章毎にPDFファイルが分割されています。14ファイルの容量の合計は約19.3MBあります。日付は平成18年、従って元禄地震の報告書より7年前にまとめられたことになります。

富士山の噴火という、現代ではもはや体験者のいない現象を扱うことになるため、第1章では過去の富士山噴火の記録を俯瞰するところから始められています。特に有史以降の富士山噴火の記録の性質やその頻度を予備知識として読者に共有してもらうことが目的かと思います。

第2章以降の組み立ては、元禄地震の報告書がどちらかと言えば地域毎にまとめられていたのに対し、時系列にまとめられています。つまり、
  • 第2章が噴火そのものに関する史料や噴出物、遺跡について
  • 第3章が噴火当時の時代背景と噴火当時の人々の動き
  • 第4章が噴火直後の被災者への救済措置や復興事業など
  • そして第5章がその後の二次災害とその対応
といった流れになっています。これは噴火の鎮静後も火山噴出物によって周辺の村々が治水面で長期にわたって苦しめられ続けたことを反映したものと言えるでしょう。

特に酒匂川の治水に関しては「小田原市史」や「南足柄市史」等にもかなり紙面を割いてまとめられているのですが、この報告書はそれらをより俯瞰的に眺めるのに手頃と言えるでしょう。より詳しく知りたい時には巻末の参考文献のリストが手掛かりになります。なお、酒匂川が富士山の噴出物によって川が埋まってしまった件については、主に第5章で取り上げられていますが、併せて酒匂川以東の各地域の降砂量や被災状況もまとめられています。

ところで、元禄地震との関連では、この報告書に以下の様な記述があります。

『蔵人日記』にも、

「小田原中ニ壱人ひとりも無之。津殿(波ヵ)参まいり候とてそう動(騒動)仕候。其内女壱人有之家有之故」

とある。小田原の住民は津波を恐れていたようで、資材・雑具を土蔵や穴蔵に入れてどこかに逃げ去り、各家に1~2人の番人を残していた。強い空振によって戸が外れ、暗闇の中、噴火雷の稲光がひっきりなしに輝く不気味な情景が描かれている。…

小田原は、元禄16 (1703)年の元禄関東地震で大きな地震動と津波の被害を受けた。その後、宝永4(1707)年の宝永地震でも、津波の被害こそ報告されていないが、地震動による多少の被害を受けている。そのわずか49日後の宝永噴火の開始であり、噴火初日から小田原で空振、噴煙による暗闇、噴火雷、降灰が記録されている。その初めて経験する異常な状況に、恐らく人々は津波の再来の前兆を感じ、夜通し寝ずに恐怖していたのではないだろうか。

その3日後の11月26日(12月19日)になって、近江屋文左衛門子息の平八が箱根を越えて小田原にたどり着いた。平八は26日の小田原の状況を『伊能勘解由日記』に、

「廿六日夕小田原ニ泊候処ところニ、町中男女并ならびに旅人共ニ、津浪入候事無心許こころもとなく存、夜中ふせり不申候由」

と書いている。23日から3日を経てもなお、小田原の住民が津波を恐れて夜通し起きていたことが記されている。

(同書65ページ)


現在であれば、海底で何らかの地殻変動が起きていない限り、富士山の噴火と津波は直接には結び付かないものという理解が比較的共有できているため、直ちに海からの避難が必要になるとは考えないでしょう。しかし江戸時代にはまだ、津波がどの様なメカニズムで起きるのか、殆ど知られておらず、ほんの数年前に大規模な被害を出した震災が富士山の噴火に際しても連想されていたことが窺えます。小田原藩側もこうした町民のパニックを沈静化するため、津波襲来が見えたら知らせる旨周知している記録が残っています(報告書第3章:75ページ)が、津波襲来のメカニズムの理解については町民側と同様であったと言って良いでしょう。


小田原・滄浪閣跡の土塁(ストリートビュー
小田原城総構に由来するもので、その位置から
潮除堤を兼ねていたと思われる
もっとも、4年前の元禄地震では、小田原では1600人余りの死者を出したことが「元禄地震報告書」の方に記載されていますが(第8章)、当日は地震後に小田原城から出火して街の広い範囲を焼いたため、

限定付ではあるが、やはり地震直後の火災が死者数を増やしたと考えられ、地震後の火災を防ぐことによって救助できた人命のあったことは明白である。「竹木に押さえられ、人出会い候らわばまかり()で申すべきと存じ候ところ、焼け来たり、生きながら焼け死に申す者、通りの人、または土地の者ども数は相知れ申さず候。親打たれ、子は押さえられ候らえども、火の手早く参り候ゆえ、見ながらも出だし申さず候」(「先年大口大破旧記之写」)というのは、事実を物語っているといえる。

(「元禄地震報告書」230〜231ページ)

としているものの、この死者が家屋の倒壊などによる圧死によるものか、火災に巻き込まれて焼け死んだものか、それとも津波による溺死なのか、内訳については具体的に明らかにはなっていません。恐らくは生き残った町民によって犠牲者を数え上げ、弔うのが精々であったのでしょう。特に津波の被害については、当時既に存在していたと思われる小田原の潮除堤は果たして機能したのかどうか、小田原の元禄地震の津波が4mと見積もられている点と併せて気になるところです。


宝永噴火の場合は特に相摸国一帯への影響が大きかったことから、こちらの報告書も今後適宜参照していくことになりそうです。



追記(2016/01/13):ストリートビューを貼り直しました。
スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :