1703 元禄地震報告書(内閣府防災担当)

先日、浦賀道(鎌倉道)の「貝殻坂」について取り上げた際に、元禄16年(1703年)の元禄地震について記した「祐之地震道記」(梨木祐之著)という道中記を取り上げました。この道中記についてはそれ以前にも、梅沢の立場の成立時期を推定する際に取り上げました。

「3.11」から3年経過という節目の日に、もう少しこの「祐之地震道記」について読み込んでみようかと考えて、何か資料がないかと検索してみたところ、内閣府防災担当がまとめた資料がPDF化されて公開されているのを見つけました。

1703 元禄地震 報告書:平成25年3月(PDF:12.2MB)


日付に見える通り、昨年3月に公開された比較的新しいものです。全部で283ページに及ぶボリュームのある報告書で、この地震についてかなり詳細にまとめられています。

最初に元禄地震の性質(震度分布や震源域など)が分析され(第1章)、その影響による地形変化が紹介された後(第2章)、続く第3〜8章ではこの地震やそれによって生じた津波・火災による被害の度合いがまとめられています。最後の2章では関東大震災との比較や(第9章)この震災から読み取れる教訓(第10章)がまとめられて締め括られています。やや専門的な部分もありますが、地元の史料が多数紹介されており、元禄当時の各地域の様子を知る上でも良い資料になりそうです。

ここで取り上げられている地域から、この地震の被害の及んだ範囲は房総半島・三浦半島や相模湾を中心に、江戸や甲州東部に及んだことがわかります。マグニチュードは7.9〜8.2、平塚宿や馬入などで最大震度7に達したと推定されています(同報告書6ページ、以下同じ)。

ただ、その割にこの地震に関して主な被害地のひとつであった、相模湾沿いの東海道筋の被害の実態を伝える史料があまり残っていないことが、「第6章 相模湾沿岸部の被害」で指摘されています。

元禄地震に関する相模湾沿岸部の被害を記録する史料は極めて少ない。理由の一つは、元禄地震4年後に発生した富士山宝永噴火(1707年)によって、相模湾内陸部、沿岸部一帯が火山灰の大きな被害を受けたためである。宝永噴火による砂降りは田畑に壊滅的打撃を与えただけでなく、酒匂川など河床の上昇が絶えざる洪水の危険をもたらしたため、相模湾一帯の河川は流路変更を余儀なくされた長い苦闘の歴史がある。そのためであろうか、当時の記録においても、後世の歴史書においても、富士山噴火の火山灰被害の記憶によって、元禄地震の被害がマスクされてしまう傾向がある。その傾向は特に内陸部の土砂災害の場合に強いように思われる。

(183ページ)

その富士山の宝永噴火の直前には宝永地震も起きており、こちらは南海トラフ由来の地震であることから関東地方の揺れは震度4〜5程度で収まっていると考えられているものの、これだけ天災が続けばその被害を識別し難くなっていくのも仕方がないところでしょう。


鎌倉・円応寺前(ストリートビュー
元禄地震の津波で壊滅的な被害を被った閻魔堂が
この地に移転してきた
以前、酒匂川の渡しが宝永噴火の影響によって徒渡に切り替えられたことを紹介しましたが、これも厳密には元禄地震の影響も背景にある可能性を考えるべきなのかも知れません。実際、馬入川河口では地震と津波によって川底が上がってしまい、須賀湊が埋まってしまったため、須賀村から代官に普請の願上が提出されていることが、この報告書の第6章第2節で紹介されています(193ページ〜)。実際にこの普請が実施されたかどうかについてはここで明らかにはされていませんが、こうした影響が相模湾沿いで起きていたとすれば、酒匂川河口でも当初同様の影響があったとも考えられます。元禄地震の際の津波の被害については、この馬入川の他にも大磯で沖合の船が磯に打ち上げられたり、小田原で宿場から浜に逃げ延びた人が津波に攫われたこと、熱海でも町がほぼ全滅したこと、あるいは鎌倉でも「あらゐのえんま」が津波によって壊滅的な被害を受け、建長寺の付近に円応寺として移転したことなどが紹介されています(第6章〜第8章)。

もっとも、結局はその後の富士山噴火による火山噴出物の影響の方が印象として大きくなってしまい、また渡し場を運営する立場からはどちらの影響にせよ渡しの方法を変更せざるを得なくなったことに変わりがないので、「富士山焼砂降リ積」とのみ記す様になったのでしょう。

「祐之地震道記」は、そういう中で当時たまたま戸塚宿に宿泊していた京都の神官による信頼できる記録として評価されています。この第6章の第1節では「祐之地震道記」の抄訳や関連地図が紹介されていますので、その概略を知る手引として読めると思います。後半ではその記述から窺える東海道筋の被害率が検討されています。それらの中では、馬入から平塚・大磯にかけては建物が全て倒壊していると記しており、最も被害が大きかった地域ということになりそうです。他方、小田原では地震後に火災が発生して城も宿場も全焼してしまっているため、地震による建物の倒壊による被害と火災による被害のどちらが大きかったかは不詳ですが、元より城下町で人口の集中が大きかった分、死者数1500~1600人と人的被害が大きくなった様です。


江の島・旧漁師町付近の地形図(「地理院地図」より)
中心十字線の標高が4.5m
ここから数m道沿いに東へ移動すると
2.9m程度まで急に標高が下がる
他方、この地震による地盤隆起に関しては、特に房総半島南部で最大隆起量が6mにも達したことなどが詳しく紹介されていますが、相模湾沿いでは江の島で地盤隆起が起こっていることがコラムの形で紹介されています(55〜56ページ)。

流石に各段丘面の標高差が1m未満ということになると、地形図でも等高線の形で現れて来ないので、なかなか気付かれることはないのでしょう。また、現在はこの狭隘な「段丘面」に家がびっしりと建ってしまっていて、人間による改変も相応にあると見られるので段丘面を正確に見極めるのは難しそうです。が、このストリートビューの向かいに見える駐車スペース周辺の地形を見ると、確かに傾斜していることが窺えます。

※後日記(2016/01/13):ストリートビューから該当箇所が削除されてしまったため、「地理院地図」で代用することにしました。下の「△」をクリックするとコンテキストメニューが表示され、十字線の示す地点の標高が見られます。初期に表示される地点の標高は4.5mを指していますが、ここから道沿いにわずか数m移動させるだけで、標高が急激にさがるのが見られます。


こうした隆起は三浦半島でも1.3〜1.8mに及んでいたことが示されていますが(47ページ)、相模湾岸の隆起量を特定できる痕跡が江の島の他で見つかっておらず、仮に起こっていたとしても関東大震災の際の隆起量以下であろうと推定されています(49ページ)。上述の須賀湊の砂埋まりも、あるいは津波の影響だけではなく隆起量の影響も考えられるのかも知れず、その点は酒匂川でも同様でしょうが、その点を裏付けるのは今のところ難しそうです。


今のところは自分の住む神奈川県域を中心に部分的に読んだに過ぎませんので、今後更に興味を惹かれる箇所が見つかったら取り上げてみたいと思います。また、「歴史災害の教訓報告書・体験集 - 内閣府」のページには、江戸時代以降の主要な大震災についての報告書が掲げられています。編集方針の差や残存する記録の多寡の影響か、報告書の厚みに多少差はありますが、それぞれの地震に関する史料の手掛かりとして活用することも出来そうです。



追記(2016/01/13):円応寺前のストリートビューを貼り直しました。また、江の島のストリートビューについては削除されてしまったため、「地理院地図」に置き換えて記事を追記しました。

スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- イッセー - 2014年03月18日 12:05:47

地震などの防災を考えるとき、地元の歴史を当たってみるというのは非常に重要なことだと思います。神奈川は地域によって津波災害も考えられますから、過去の被害状況を念頭に置いておくことは避難の大きなヒントに繋がりますね。
しかし、富士山の噴火で、それ以前の災害がマスクされてしまうというのには、考えさせられました。そのような事情で記憶が薄れてしまうケースも全国で多いのでしょうね。

- kanageohis1964 - 2014年03月18日 12:50:45

こんにちは。コメントありがとうございました。

今の様に地震や津波を観測してそれを連綿と記録する様な体制が出来る前の話ですしね。飽くまでも「こんな『被害』があった」という報告と、それに対しての援助の申し出といった形でないと記録がなかなか残らない中では、これだけの頻度で災害が来てしまった中では止むを得ないことではあったでしょう。
おまけに富士山の「焼砂」には噴火後数世代に渡って苦しめられることになるので、尚更のことだったと思います。

トラックバック

URL :