滝山道(八王子道)の3つの継立場(その1)


滝山道のルート(再掲)
このブログを始めた頃に一度取り上げた滝山道ですが、その際に掲載したルートラボの道筋に一部手を入れました。具体的には下鶴間宿付近から北の道筋を「大和の地名」(大和市教育委員会編 2005年)を参考に引き直し、各所にコメントを挿入しました。

序でなので、今回はこの街道についてもう少し追記してみようと思います。

藤沢宿の白旗神社の脇から、街道は少しの間台地の裾に沿って進み、そこから坂を登って相模原台地の上に出ます。この台地は南部の隆起量が大きいことから、坂を上がった辺りで標高50mまで達するものの、その先で亀井野の立場に達する辺りでは標高が35m前後にまで緩やかに下ります。左の地図をクリックするとルートラボの画面に移りますが、地図の下に表示される標高グラフでも亀井野の辺りがその前後に比べて幾らか標高が低くなっているのが確認出来ます。


六会・雲昌寺前(ストリートビュー
「新編相摸国風土記稿」では、亀井野村を通る滝山道について

八王子道係る幅三間此地繼立をなす南、藤澤宿へ一里九町、北、長後村へ一里を繼送れり、

(卷之六十 高座郡卷之二、雄山閣版より)

と記しています。この継立を行っていた立場は雲昌寺の付近にあったとされていますが、「藤沢の地名」(日本地名研究所編 1987年)では雲昌寺の北とする説と南の俣野原にあったとする説の2通りが紹介されており、必ずしも特定はされていない様です。

「甲州古道」のルート
他方、「新編相摸国風土記稿」の今田村の項には

又甲州古道と稱するあり、村内少許を經て今の街道に合す、

(上記同書より)

と記されており、「藤沢の地名」でも滝山道の東側に「古道」と称される道が残っていることを記しています。この道を辿ると雲昌寺の境内の東を経由していたことになるのですが、雲昌寺自体が慶長元年の水害によって今の地に移ってきたことを「風土記稿」が記しており、道筋や継立の場所が時代によって変遷してきた可能性が窺えます。但し、その順序がどの様なものであったかは不明です。

「藤沢の地名」には「中宿」など、この地が宿場であったことを窺わせる地名も掲載されているのですが、この地を経由した旅日記には

一是より鎌倉を離れ元の藤沢宿遊行寺前へ出ル同宿中程より武州八王子海道江這入ル

一亀の井(注:道順から「亀井野」の誤りであることは明らか)と申所二而一同空腹ニ成候得共茶屋等無之、無余義冷酒・真桑瓜・とふ茄子ニ而腹中を補ひ候事

(「富士・大山道中雑記 附江之嶋鎌倉」戌(天保九年か)〔甲斐国〕著者不明より、「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」より引用、太字はブログ主)

と、宿場はおろか茶店さえなく、空腹を満たすのに難儀したことが記されています。この日は早朝から鎌倉見物で歩きまわった挙句に空腹を抱えたまま北へ向かっていた様で、もう少し進めば長後でましな食事も出来たと思うのですが、結局有り合わせのものを腹に詰めた上で鶴間まで進んでいます。こうした事例から考えると、亀井野村の宿は少なくとも幕末までには廃れてしまった可能性が高そうです。


かつての長後宿南端(ストリートビュー
左手が滝山道、右は柏尾通り大山道
さて、「風土記稿」の亀井野村の項に記されている通り、継立は長後村まで1里の距離を運んでいました。この辺りは比較的短い距離で継立を行っていた様ですが、さほど足に厳しい訳ではない道筋でこうした運用がなされていた理由は不明です。

長後は滝山道と柏尾通り大山道の交わる場所にあり、双方の街道の継立を受け持っていました。「風土記稿」には

大山道八王子道係れり、當村繼立をなせり大山道は東鎌倉郡下柏尾村へ二里、坤方郡内用田村へ一里、八王子道は北下鶴間村へ二里一町四十八間、南龜井野村へ一里を繼送れり、

(卷之六十三 高座郡卷之五、雄山閣版より)

と記しています。また小名として「宿」の名が記されており、こちらは宿場として機能していた様です。「藤沢の地名」には「羽根沢屋」「古満屋」「角屋」といった宿屋の名前が記されており、今も同じ屋号を掲げた店が見当たりますが、直接関係があるものかどうかは確認出来ませんでした。

柏尾通り大山道は滝山道と辻になっていたのではなく、長後からの道は宿場の北側で滝山道と合流し、宿場の南で滝山道から分かれるという道筋になっていました。これだけを見ると、元からあった道筋は滝山道の方であった様に思えますが、「藤沢の地名」には「大山街道飛ぶ鳥は 羽が十六 目がひとつ」という手まり唄が紹介されており、江戸時代には大山詣での旅人が利用する関係で東西方向の往来の方が多かった様です。こちらも時代の変遷によって人の流れの変化があったことが窺えます。

次回は下鶴間周辺について取り上げます。



P.S. おかげさまでブログ村のトーナメントは初戦を突破出来ました。応援戴きました皆様ありがとうございます。現在(投稿日時点で)2回戦投票受付中です。
追記(2016/01/10):ストリートビューを貼り直しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

八王子道というのは・・・ - とことこ神奈川 ゆうき - 2014年03月07日 22:32:10

こんにちは。ツイッターでお世話になっております、とことこ神奈川ゆうきです。

滝山道・・・
無知な事に、八王子から青梅の方を繋ぐための山越えの道なのかと思い込んでおりました。
藤沢の方へと繋がっていた道だったのですね。
八王子と藤沢、現在では全く結びつかない地域同士が一つの道筋で繋がっていた時代があったのか・・・と想像すると、とても面白いなと思いました。

いつも深く掘り下げていて、すごいなあって思います。
(僕なんか単に食べ歩いて楽しんでるので)

また、来ます。

Re: 八王子道というのは・・・ - kanageohis1964 - 2014年03月07日 22:39:23

こんにちは。

そうですね、ちょっと紛らわしかったかも知れません。
江戸時代の道の名称の多くで「行き先」を使っているので、「八王子道」とだけ記してしまうと「何処から」が抜けてしまうんですよね。平塚から厚木方面へと向かう道にも「八王子道」という呼称が使われている例もあります。
今回取り上げている道は、元は滝山城と玉縄城の間を結んでいた道が、玉縄城の廃城で藤沢止まりの道になっていったと考えられるのですが、詳しいことがあまりはっきりとわかっていません。それで、少しでも記録されているものを書き留めておこうかと思った次第です。

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