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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

鎌倉の麦畑:明治初期の紀行文から

現在の「鎌倉市史」は、昭和30年代に刊行された古代〜中世の6冊と、昭和60年(1985年)から平成6年(1994年)にかけて刊行された7冊から構成されていますが、幾つか他の市町村史にはない特徴を持っています。例えば、著作権所有者こそ「鎌倉市」になっているものの、発行者は「吉川弘文館」になっており、同社のサイトISBNも確認できます(但し何れも品切れ・重版未定)。多くの市町村史がその市町村の出版物になっていてISBNを持っていないのに比べると、これは興味深い特徴です。それだけ同市の市史が全国レベルの出版物流に載せるだけの価値があると見做されたからこそ、出版社が手掛けることになったのでしょう。勿論その背景には、鎌倉という地が日本の武家政治の中枢として長く機能していた歴史によるものと思います。

また、その13冊の中には「近世近代紀行地誌編」と題された1冊が含まれています(昭和60年刊)。近世編には別途史料編が存在するにも拘らず、敢えて独立して本編を編纂した理由については特に明記されていませんが、鎌倉が近世以降の著名な観光地であったために多数の紀行文が著され、また「新編相模国風土記稿」の様な体系立った地誌が存在することから、その分量を考慮して独立させたのでしょう。

内訳としては、江戸時代の紀行文が31編、明治大正時代の紀行文が43編、そして地誌編として「風土記稿」の鎌倉市域分が収められ、巻末に解説が付されています。但し、何故か「皇国地誌」草稿(手広村、津村、腰越村のみ、地元で保管されていた草稿)が地誌編ではなく紀行編の方に組み入れられています。鎌倉郡の皇国地誌がまとめて東大総合図書館で見つかって神奈川県図書館協会から刊行されたのが平成2年のことですので、鎌倉市史編纂時には間に合わなかったのでしょう。また、特に明治大正時代の紀行編には観光案内の様なものが多数組み入れられているのも特徴です。

この明治大正時代の紀行文に、明治9年の「鎌倉紀行」が収録されています。同年の4月2日に新橋から汽車に乗って神奈川まで行き、そこから人力車に乗り継いで東海道を藤沢まで、そして徒歩で江の島に渡って一夜を過ごします。翌日江の島から江の島道筋に沿って七里ヶ浜から長谷へ、更に鶴岡八幡宮や建長寺・円覚寺を見物して、帰路は「日野坂」を経由して横浜駅へと向かっています。


著者の「平野栄」という人について、同書の解説では「明治政府の官員と思われるが、経歴については未詳」としています。ただ、

品川を過ぎ川崎に至る。轍道のかたわらなべて菜花の麦浪にうちまじりて、おのづからに野色を粧ひたるさままたいとおもしろし。此辺梨架(なしたな)多し。皆矮樹にて、其枝縦横に聯絡纒繞(つらなりまとはり)りたる状、例の偃曲法とかいふに良く似たり。こは多年の実験に出たることなんめり。…津田氏(津田仙)の唱ふるホーイブラン氏の草樹偃曲法といふものは、梨の類にほどこさば必ず効験あるべけれども、…

(上記同書415ページ、…は中略)

この文に見られる「津田氏」に傍注されている「津田仙」について、解説は

旧佐倉藩主、慶応三年(一八六七)に特使小野友五郎の随員となって、福沢諭吉らと共にアメリカ各地を視察し、農業の重要性を痛感し、明治八年には東京麻布に、日本最初の農学校といわれる学農社を創立し、『農業雑誌』を発行している。津田梅子の父でもある。

(上記同書622ページ)

などと紹介しています。つまりこの人は、農業に関する当時の最新の知識に逸早く触れることができる官職にいたか、もしくはその様な志を持った活動をしていたかのどちらかではあるでしょう。このためか、この紀行文は全編にわたって道中周辺の農地や関連施設について非常に細かく記述されており、当時の農業の様子が詳しく窺える異色の紀行文になっています。

今回はその中から、平野が麦について触れた箇所を取り上げてみたいと思います。彼はこの紀行文の途中3箇所で、周辺で栽培されている麦について触れています。最初は神奈川を出て権太坂に上るまでの間で取り上げられています。

○此辺麦の勢よし。されど我郷里の習ひに比ぶれば、畦間(うねあひ)距離(へだて)いと狭密(せまき)に過ぐるかとおもはる。我郷にては大約(おほむね)一尺五寸を隔てゝ疎に播種く通則なり。収穫は反て多しと聞けり。いづれか優れりや、良農に問はまほし。おのれおもふには、播種疎らならば、空気よく通ひて虫なてふのうれひもなく、根株おもふやうにはびこりて、土中の養分をよく吸ひとるべき理あれば、我郷里の法こそ習ふべけれ。されどそは土質にもよるべきか。西洋にてはすべて疎播を良法となし、播法に孔播・畦播・撒播のミありとぞ。且つおほくは播種機械を用ゆといふ。

(上記同書416ページ、ルビも同書に従う)


旧東海道:神奈川〜保土ヶ谷間
この区間の明治時代初期の主な耕地は帷子川の河口を埋め立てた水田であったと考えられ、実際に迅速測図で確認しても大半が「水田」と表記され、畑は殆ど見当たりません。あるいは別の地で見た畑をこの区間と勘違いして順序を入れ違ったのかも知れません。ただ、江戸時代も水田によっては冬場に麦を植える二毛作を行う事例もあったので、あるいは彼が見たのもその様な「水田の麦」だったのかも知れません。

平野はこの辺りの麦の畝の間隔が狭いことを気にしていますが、それがこの地の麦栽培の特徴であったと言えるかどうかは定かではありません。あるいは、狭い畑で少しでも収量を得ようとして無理をしているのをたまたま見掛けただけなのかも知れません。

次に平野が麦について取り上げているのは、戸塚を出て藤沢へ向かう区間に当たります。ここで彼が「焼餅坂」と書いているのは恐らく「大坂」の記憶違いでしょう。

○此辺の畠には、多く小麦を培養(つく)れり。相模の名産なるよし。肥料は重に糠・灰及び刈草を加へて用ふ。種子はすべて早生を播く。然るに近来糠の価貴くなり、金壱円を以て糠六斗に易ふ。小麦ハ三斗を以て一円に位る。一反に用ゆべき糠二俵、即ち一石弐斗なり。故に農夫は僅かに麦の稿(一駄二束価大約十二銭なり。一反にて五拾銭を得べしといふ)と、夏作(大小豆の類)を以て実益とするのみ。農家はなべて賈人の如く巨利を得べきものにあらず。唯糊口に過ぎず。されど近来はいづこの農家も、皆業を励ミて、怠懶るものは、いとまれになりゆきたりなど、車夫物語れり。さもあるべし。

(上記同書418ページ)


旧東海道:戸塚宿一里塚前
〜藤沢宿大鋸橋間
この区間で麦が植えられていた箇所として考えられるのは、恐らく原宿周辺ということになるでしょう。これも迅速測図で確認すると、街道の周辺にはかなり広い畑が広がっていたことがわかります。平野はここで施肥に必要となる糠の高騰で、麦の栽培が利益の上がらない耕作になっていることを指摘していますが、そのためか、大正10年測図の地形図ではこれらの畑は全て「桑畑」に置き換わっています。養蚕が日本の輸出品目の主流になっていくに連れて、こうした麦畑が桑の栽培へと転換されていったことがわかります。彼が書いている通り、江戸時代には「相州小麦」と呼ばれて相模国の主要な農産物のひとつであり、ここで生産された小麦が下総国野田へと運ばれて醤油の醸造に用いられたりしていたのですが、明治時代に入って実入りの少ない麦の生産が廃れていったのも、こうした経済を取り巻く情勢の変化が大きく影響したと言えるでしょう。明治初期の時点で既にその兆候があった、ということになるでしょうか。

さて、問題は彼が3番めに麦を取り上げた場所です。それは意外にも長谷の大仏から鶴岡八幡宮へと移動する区間でした。ここでは併せてこの地でスイカも生産されていることについても長々と記しており、休暇で鎌倉を巡っている筈なのに、まるで農場視察にでも来たかの様な論述に変わってしまっています。差し当たりスイカ等に関する記述は省略、麦に関する記述のみ引用します。

◯満疇小麦多し。土人云フ、種子ハ赤粰(あかかは)・白毛・オシヤラク等を蒔く。赤(ママ)とオシヤラクとは、粘少シと。肥料ハ十一月頃干魚(ほしか)へ海藻・裙帯(あらめ)菜ノ類を多く混合て用ふ。肥料の気猶地に遺存して効力甚だ大にかつ久し。

(上記同書426ページ)

江島道:盛久碑前の庚申塚碑と江島道
盛久碑前の庚申塚碑と江島道(再掲)
先日「江島道見取絵図」について紹介した際に、甘縄明神を過ぎると周囲が一面畑であったことを記しました。「畑」とのみ記されている場合には、どの様なものが栽培されているかは必ずしも特定出来ないのですが、少なくとも平野が通った時には周辺は麦が靡いていたのでしょう。日本では梅雨がある関係から入梅前に収穫を済ませる必要があることもあって、早生種が多く植えられていた様で(但し上記で平野が「専ら早生種を…」と書いているのが、この時目にしたものが出穂していたためにそう判断したものとは一概に言えません)、早ければ彼が旅行していた4月初旬には出穂が始まっていたかも知れません。盛久碑の塚も、六地蔵の芭蕉の句碑も、そうした麦畑の傍らに立っていたということになります。因みに、この地では肥料として海産物を混ぜて利用しており、効き目が良好であったことを記しています。

他方、夏場はどうだったのでしょうか。平野の書き方ではその時期にスイカを植える畑が多かった様にも読めますが、この辺りははっきりしません。一応「皇国地誌残稿」の長谷村の項も確認したのですが、残念ながら産品に関する欄が空欄になっていました。因みに、長谷村の「地味」の項には

黒壌土ニ繊砂ヲ雑ユルモノ居多其質中ノ上稲梁麦類蓏類蕃薯等ニ適ス水利不便ニシテ時々旱ニ苦ム

(「神奈川県皇国地誌相模国鎌倉郡村誌 神奈川県郷土資料集成 第十二輯」より)

とあり、利水の難しい面はあったものの麦などの生産には向いている土壌であったことを記しています。

こうした光景も、その後の地形図を見ると明治時代後期から大正時代にかけて、江島道の周辺に急速に街区が広がるのがわかります。鎌倉の農村風景が見られたのは明治時代前半くらいまでということになるでしょうか。

この「鎌倉紀行」で取り上げられた他の作物などについては、また触れる機会があれば取り上げてみたいと思います。




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