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相模国の雪中行2題

関東地方は先週・今週と週末に雪に見舞われる天気となりました。それならば、ということで今回のブログも「雪」に因んだ話を2つほど。

まず、最近取り上げる回数の多い「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」に収録された95点の紀行文・道中記のうち、雪の道中を書いたものがどの位あるかを調べてみました。江戸時代の伊勢参りが冬場に行われることが多かったことを考えると、道中雪に降られるケースは割とあったのではないかと思ったのですが、意外にも見つかったのは幕末期の嘉永3年(1850年)の今泉辰助「東武下向諸事記」の1本だけでした。

この人は美濃千村氏の家老で、この文書は江戸に滞在中に(したた)められた日記です。正月に休暇が貰えたのか金沢・鎌倉・江の島を数日かけて巡っているのですが、生憎とその際に雪に遭ってしまったのでした。この日記からは以前七里ヶ浜について記した際に舟に乗った事を記した箇所を引用しましたが、今回はこの時の行程全般がわかる箇所を引用します。

同(注:正月)六日 今朝、金沢・鎌倉・絵之島え出立、ほとかや宿入口新町ニ泊、此夜風強雪降六七寸積ル

同七日 今朝も風雪厳敷、四時止ム、出立まいこ橋并旅茶屋ニて昼支度、金沢能見寺ニて八景を遠目かねニて眺望、鎌倉八幡前角屋某ニ泊

同八日 今朝、八幡宮・建長寺・円国寺(注:恐らく円覚寺の誤り)等え参詣、夫より長谷大仏同観音え参詣道甚悪敷故、七里浜伝ひ難儀ニ付、由井浜より船雇ひ絵ノ嶋着眺望よし代三百文也、江戸屋忠五郎方二て昼支配壱人ニ付弐匁極ニて取極置、夫より百文ニてあん内を取参詣尤岩屋迄参ル、…、夫より茶屋へ帰り支配瀧ノロ参詣、藤枝(注:藤沢の誤り)に出、戸塚ニ泊ル、

(上記同書71ページ、…は中略)


20cmほど積もる雪が降って足元が悪かった割には、七里ヶ浜を行くのが困難なために舟に乗った以外の区間では、通常と殆ど変わらない道筋を辿っている様です。駕籠の利用があったかどうかがわかりませんが、能見台や朝比奈切通など比較的道の険しい箇所があったと思われるにも拘らず、そちらよりも七里ヶ浜が敬遠されている辺りに、当時と今の雪道に対する考え方の違いが窺える様です。



さて、雪の相模国ということで私が強い印象を持っているのは、「徳川実紀」中の記述です。家康が慶長16年(1611年)に江戸を出て駿府へと向かう途上の記録なのですが、11月中旬(新暦に直すと12月中旬頃)と初冬の時期に珍しく吹雪に遭っています。

○十六日  大御所御道すがら鷹狩し給ひて。けふ神奈川にいたらせ給へば。江戶よりも御所ここにならせ給ひ御對面ありて。逸物の白鷹幷鷂を献ぜらる。…この夜兩御所には金藏寺にとまらせ給ふ。…(駿府政事錄。)

○十八日  …此日風雪はげし。大御所雪をおかし鷹つかはせ給ひながら藤澤にいたらせ給ふ。…(駿府政事錄。寬永系圖。)

○十九日  大御所けふは若鷹もて白鳥を得給ひ。御けしきうるはしく。中原にとまらせ給ふ。…(駿府政事錄。)

○廿日  大御所御道すがら狩し給ひ。鶴三。雁三十。鴨廿得給ひて小田原につ かせ給ふ。城主大久保相摸守忠隣は子の喪にこもりたれば拜謁せず。(駿府政事錄。)

(「台德院殿御實紀卷十七 慶長十六年十月に始り十二月に終る」より、「J-TEXTS 日本文学電子図書館」より引用、…は中略、強調はブログ主)



家康はこの道すがらで鷹狩をしながら少しずつ先に進んでいるので、かなりゆっくりとしたペースになっています。17日の記述が抜けているのは神奈川宿にそのまま滞在したからでしょうか。神奈川宿には将軍宿泊用の御殿があったのですが、この時にはどういう事情かそちらを使用せず、金蔵寺(現・神鏡山金蔵院)に秀忠と共に宿泊したことが記されています。


藤沢御殿のあった辺り(ストリートビュー
現在は藤沢公民館などになっている
問題は18日の記述で、家康はこの吹雪の中を藤沢へと向かいながら、何とその道中でも鷹を放ったというのです。神奈川から戸塚を経て藤沢に向かう間であれば、原宿の辺りが比較的広い平坦な畑が広がっていたと考えられますので、家康が放鷹したくなりそうな場所は恐らくあの辺だったでしょう。あるいは雪の上を歩く獲物が見えたのでしょうか。雪の吹きすさぶ中で視界も悪かろう中で放たれる鷹も、また獲物を捕らえた鷹の跡を追って回収しに雪中走り回らされることになったであろう家臣も、随分といい迷惑です(笑)。この日捕らえた獲物についての記述は特にありませんが、多少なりとも成果はあったのでしょうか。

家康以降、徳川幕府の歴代の将軍の放鷹は必ずしも嗜みというだけのものではなかったと一般には解説されています。特に、将軍から下賜される獲物を拝領することには、支配関係の点で大きな意義があったとされる点については、確かにその通りと私も思います。実際、「徳川実紀」でも

また奥の景勝御追討の時御路すがら軍議をば後にせられ。たゞ鷹のことばかりに御心とめられしさまなれば。本多中務大輔忠勝あまりの御事なりと申せば。いやとよわがかくたはれたる樣するは。汝等をしてよき幸得させむがためなりと仰られき。また常に人に御物語ありしは。おほよそ鷹狩は遊娛の爲のみにあらず。遠く郊外に出て下民の疾苦。土風を察するはいふまでもなし。筋骨勞動し手足を輕捷ならしめ。風寒炎暑をもいとはず奔走するにより。をのづから病など起ることなし。 その上朝とく起出れば宿食を消化して。朝飯の味も一しほ心よくおぼえ。夜中となれば終日の倦疲によて快寢するゆへ。閨房にもをのづから遠ざかるなり。これ ぞ第一の攝生にて。なまなまの持藥用ひたらんより。はるかにまされりとの仰なり。されば御好の深くおはしませしは。元より遊畋に耽らせたまふにもあらず。 一つには御攝生のため。一つには下民の艱苦をも近く見そなはし。山野を奔駈し身躰を勞動して。兼て軍務を調練し給はんとの盛慮にて。かの晋の陶侃といへる が。甓を運びしためしおもひ出ていとかしこし。(中泉古老諸談。)

(「東照宮御實紀附録巻二十四」より、末尾に「此卷は御鹿狩御鷹野等の事を示す」とある。引用元は上記に同じ)

という記述が見られます。

しかし、いくら何でも視界の効き難い吹雪の中でまで放鷹したというのであれば、これは視察などといったレベルではとても説明が出来ません。やはり家康は鷹狩に相当に「ハマっていた」と見るのが妥当ではないでしょうか。先程の引用も、読み様によっては、周囲のたしなめに対する家康の苦し紛れの言い訳にも聞こえます。まぁ、慶長16年には家康は数え年で70歳になっていましたから、それでも吹雪をもろともしないでいられるだけの健康体であったのは確かなのでしょうが…。

なお、家康は元和元年(1615年)の12月にも、

○六日  …大御所は稻毛より中原にいたらせ給ふ。此日大雪。(國師日記。駿府記。)

○七日  大御所中原に鷹狩したまふ。…(駿府記。寬政重修 譜。)

○八日  大御所中原に滯留し給ふ。(駿府記。)

○九日同じ。此日小十人頭稻垣權右衛門某。狩塲に於て鷹を毁傷しければ誅せらる。(駿府記。)

○十二日  大御所は猶中原に泊狩し給ふ。(駿府記。)

○十三日  大御所中原を出まし小田原に着せ給ふ。(駿府記。)

(「台德院殿御實紀卷四十 元和元年八月に始り十二月に終る」より、引用元は上記に同じ)

中原小学校前の中原御殿蹟碑
中原御殿蹟碑(再掲)
と、雪の平塚・中原に長く滞在して連日鷹狩に勤しんでいます。中原の北側、豊田本郷の辺りには広大な水田地帯が広がり、家康の鷹狩もこの辺りで行われていた様で、付近には「鷹落橋」など家康の鷹狩に由来すると伝わる地名が幾つか残っています。恐らくはこの水田が広大な雪原と化した中で思う存分に鷹を放ち続けたのでしょう。この後家康は駿府に終生留まることになるので、結局これが家康の中原滞在の最後ということになるのですが、家康自身がそのことを暗に予感していたかどうかは定かではありません。



今回は他の紀行文集などを参照していませんので、たまたま雪中の記録が少なくなっているだけなのかも知れません。とは言え、ここまで事例が少ないとなると、あるいは何か相関性があるのか疑ってみたくなってきます。出来ればもう少し様々な記録を漁ってみたいところではあります。



追記(2016/01/10):ストリートビューを貼り直しました。
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この記事へのコメント

- イッセー - 2014年02月15日 22:00:52

東大和市も尾州の御鷹場があったので、興味深く読ませていただき
ました。
鷹は目が良いとは言いますが、そんな吹雪の中でも獲物が追える
ものなのでしょうか?
先日と今回の雪かきでヘトヘトのワタクシには、御鷹役人のご苦労
が偲ばれます。

- kanageohis1964 - 2014年02月15日 22:10:25

こんにちは。コメントありがとうございます。

どうでしょうねぇ、鷹狩に用いられるハヤブサやオオタカが、そもそも吹雪の中でもそんなに狩りをする習性なのかどうか…。それに、後の代の将軍や大名の鷹狩と違って、予め色々と手筈を整えて行うものとは違いますから、遥かに現場対応を強いられることにもなりますし、その上に雪とあってはかなり大変だったでしょうね。

- くまドン - 2014年02月17日 23:36:25

面白い話ありがとうございました。
慶長16年というと、関ヶ原の戦いの勝利して、豊臣家がまだ存続している状態で、江戸幕府の基礎固めをしている時期ですね。こんな時期に雪の中で鷹狩りとは、家康は本当に鷹狩り好きで健康体だったのですね!
戦は時と場所を選びませんが、走り回っている家臣は凍傷になりかねないですね・・・・

- kanageohis1964 - 2014年02月18日 07:09:30

こんにちは。コメントありがとうございます。

当時雪の中を行く際にどの様な防寒をしていたんでしょうね。それで長距離を移動しながら鷹を放って…ですから、体力の消耗が半端ではなかったでしょうね。家康も「良く眠れる」などと言っていますが…。

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