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【浦賀道】追記:長沼村の貝殻坂について

一昨年の記事にちょっと追記をします。他の史料も参照してから改めて、とも思ったのですが、ちょっとネタ切れということもあり(汗)、差し当たりのメモということでお許しを。

以前「浦賀道」を紹介した際に、その途上の「貝殻坂」についてはこの様に紹介しました。
鎌倉道(戸塚):貝殻坂バス停
貝殻坂バス停(再掲)

鎌倉道はこの辺から飯島に向けて坂を登り下りする道になります。この頂きに「貝殻坂」という名のバス停が立っています。丁度写真を撮っている時に話しかけてきた近所の御年配の女性がいらっしゃいましたので、この地名について尋ねたところ、この道をバスが通れる様に掘り下げた際に貝殻が多数出たことから付けられた名前だとのことです。検索してみたところ箱根の「生命の星・地球博物館」に当地で出土した貝殻が保管されている様で、恐らくは当地が海面下だった時代の地層を掘り当てたのでしょう。この坂が以前よりはなだらかになっていることが窺えると同時に、一帯の土地の成り立ちがわかる地名になっていると思います。

この時には、この「貝殻坂」の名称は意外に新しいものだという印象を持っていました。少なくとも「浦賀道見取絵図」には記載されていない名称であるため、それよりは時代を下った頃に付けられたものであろうと考えていたのです。

ところが、意外な所で「貝殻坂」の名前を目にすることになりました。「祐之地震道記」という道中記で、これは元禄16年(1703年)の元禄地震の際に、たまたま江戸から京都へ帰る途上戸塚宿に宿泊していた梨木祐之が、地震当日以降の街道周辺の様子を記した異色のものです。深夜に被災した祐之は翌朝江戸と京都に向かう飛脚に書状をそれぞれ託し、2日ほど戸塚で周辺の様子を情報収集しています。そこで祐之の随伴者だった「伊賀守」を鎌倉の様子を伺うために遣いに出し、帰って来て報告を聞くくだりに、「貝殻坂」の名前が出て来るのです。

是日伊賀守、鎌倉一見のために罷越て、申剋許に帰、語云。これより鎌倉までの在郷、悉家つぶれて見ゆ。貝がら坂の大切通は、山崩て道塞る。木の根などにとりつきて越たり。鎌倉の在所も人家悉顛倒せり。円覚寺の門前の在家弐百宇ばかりもあるとみえたり。悉たふれたり。

(「藤沢市史料集(31)旅人がみた藤沢(1)」4ページ、元は「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」より、強調はブログ主)



現在の貝殻坂の切通(ストリートビュー
実のところ「貝殻坂」の名称は様々な場所にあり、横浜市内では元町公園の近くに同名の坂があったりします。ですからこの名称が他の坂を指している可能性も考えてみる必要があるものの、大地震で崖崩れが起きている様な切迫した状況下で、戸塚から鎌倉まで視察に出掛けた遣いの者が敢えて主要な道筋を逸れて往復してきたとは考え難いものがあります。とすれば、この「貝殻坂」はやはりその途上の、長沼村の貝殻坂に比定せざるを得ないでしょう。

そうなると、江戸時代初期には既に「貝殻坂」の名称があったことになります。海から遠いこの地で貝殻が出て来ることにその名称が由来する点に変わりはないと思われるものの、「貝がら坂の大切通」という表現に見える通り当時既にここには切通しが設けられており、その際に縄文時代頃の地層まで掘り下げていたということになりそうです。「貝殻坂」の名称が「浦賀道見取絵図」に記されなかったのはたまたま、ということになるのでしょうか。

今は周辺をかなり大きく切り崩してしまっているため、当時の様子を窺うことは困難になっていますが、それでもこのコンクリートで固められた法面に多少面影が残っていると言えそうです。或いは当時はもっと深い切通しであったのでしょうか。当時は今の様に切通の法面を補強する様な施工は基本的にしませんでしたから、草木で覆われた法面の下に貝殻が覗くことがあったのかも知れません。



2014/02/14追加:ツイッター上でのやり取りで色々と情報を戴いたので、こちらに追加しておきます。猫綱(@nekotuna)さん、どうもありがとうございました。

まず、栄区の「広報よこはま・栄区版 平成21年4月号」中に「六人衆の道案内」というコラムがあり、その中で「長沼層」についての紹介が掲載されています。それによると、

長沼層の一部であるかいがら坂は、現在コンクリートで固められていますが、以前は地層が表に出て貝化石を見ることができたため、「はまぐり坂」とも呼ばれていました。昭和52年に愛称を募集した際「かいがら坂」と名付けられ、現在に至ります。

と、現在の名称が愛称の公募によって改めて決められたものであることが記されています。その一方で、この坂が古くは「はまぐり坂」という名称で呼ばれていたとしていますが、これについては「栄の歴史」(栄の歴史編集委員会編 2013年 横浜市栄区役所地域振興課)という資料の明治時代初期の記述中に

また天神橋付近、長沼村・飯島村間の蛤坂(はまぐりざか)でも地元民の負担で改修工事が行われた。

(ルビ一部省略)

という一文が見えますので、恐らくこの時代の現地の史料に「蛤坂」の名称とともに鎌倉道の普請に関する記述が残っているのでしょう。これも貝殻に関連する名称であることに変わりはありませんが、時代によって名称がまちまちであった可能性が窺えます。ただ、地名としては安定していなくても、「貝殻が埋まっているのが見える切通」という特徴に対する地元の人々の共通認識は、末永く受け継がれていたということは言えそうです。



追記(2015/10/29):ストリートビューを最新のもので張り替えました。
(2016/01/10):再びストリートビューを貼り直しました。
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