ラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を巡って(その2)

前回に引き続いて、ラフカディオ・ハーンの「江の島行脚」から、今回は江の島を中心に見ていきます。

因みに「江島道見取絵図」について紹介する過程で「江の島行脚」を引用したのは次の3本の記事です。改めてリンクを置いておきます。


一行が江の島に近づいてきた辺りの描写は「その10」で取り上げましたが、ここでもう一度引用します。

…あれが江の島だ。海と美の女神の祀ってある神の島、江の島だ。ここから見ると、早くも、その急斜した斜面、灰色に散らばっている小さな町すじが見える。あすこなら、きょうのうちに、歩いて渡って行ける。ちょうど潮は引いているし、長いひろびろとした干潟が、いま、われわれの近づきつつあるこちらの岸の村から、土手のように長ながと伸びつづいているから。

江の島の、ちょうど対岸にあたる、片瀬という小さな部落で、われわれは人力車を乗り捨てて、そこから徒歩で出かける。村と浜のあいだにある小路は、砂が深くて、俥を引くことができないのだ。われわれよりもひと足先にきている参詣者の人力車も、幾台か、村の狭い往来で待ち合わしていた。もっとも、この日、辨天の社に参詣した西洋人は、わたくしひとりだそうだ。

われわれを乗せて引いてきたふたりの俥夫が、先に立って、そこの小路をつっきって行くと、まもなく、濡れた固い砂浜へだらだらと降りる。

(「全訳 小泉八雲作品集 第五巻」平井呈一訳 1964年 恒文社 125〜126ページより、強調はブログ主)


江の島シーキャンドルから片瀬海岸を望む
現在の片瀬海岸:江の島シーキャンドルから
ハーンはここで江の島まで続く砂嘴を「長いひろびろとした」と表現しています。明治20年代の江の島の砂嘴がどの程度の広さだったか、具体的に特定出来そうな写真がないか探してみたところ、長崎大学附属図書館の「幕末・明治期日本古写真超高精細画像」データベースに「江ノ島の入り口」という写真があるのを見つけました。生憎と撮影者と撮影年代がわからないのですが、海側から江の島の入り口を撮っている状況から考えると江の島まで渡る桟橋がない様なので(最初の架橋が明治24年、つまりハーンの江の島訪問の翌年)、それよりも前の、明治時代初期に属する写真だろうと思われます。リンク先ではかなり高精細に閲覧できるのですが、砂浜に立つ人物と比較しても砂嘴がかなり広くなっているのがわかります。今は人工的な改変の影響が色々とありますので単純に比較できなくなっていますが、当時は順調に砂嘴が成長していたことが窺えます。

続いて、江の島に今も残る唐銅づくりの鳥居を潜って江の島に「上陸」してからの様子を、ハーンはこの様に記しています。

見よ、今、われわれは、すでにもう江の島にいる。目の前に、一本の坂町が、胸つくばかりに高くのぼっている。町は、幅のひろい、石段の町だ。潮風にはたはたはためく、色とりどりの幟や旗、白い奇妙な文字を染め抜いた紺のれん、そんなもので往来が蔭のようになっている町だ。町の両側には、飲食店だの小さな店屋だのが軒をつらねている。わたくしは、その店屋の一軒ごとに、つい足をとめて覗きこまずにはいられなかった。日本の国では、見る物が何でも買いたくなる。ここでも、わたくしは、むやみやたらに買いこんだ。

(上記同書126〜127ページ)


これも同じく「幕末・明治期日本古写真超高精細画像」で探すと、「江ノ島神社の鳥居」という写真が出て来ました。こちらも撮影年代が不明であるものの、撮影者に「スチルフリード」の名前が記されています。この写真家について検索したところ、

スチルフリード Stillfuried, Raimund

?-? オーストリアの写真家。

明治2年(1869)来日し,4年横浜で写真館を開業。同年横須賀に行幸した天皇を撮影し,無断でうりだして物議をかもす。5年開拓使の依頼で北海道内各地を撮影,11年大蔵省印刷局雇い。武林盛一,北庭筑波(きたにわ-つくば)に写真をおしえた。18年帰国。

(「スチルフリード とは - コトバンク」より)

とあることから、撮影者の情報が正しければ、遅くとも明治18年までには撮影されたものであることになります。写真を拡大すると、確かにハーンが描写する通り鳥居に続く坂道は石畳が敷き詰められていることがわかります。人通りが見えないのは比較的早い時間帯だからでしょうか、良く見ると軒下などには地元の漁師や店番と思われる人の姿が写っています。

この写真でも基本的には坂の両側は和風建築で埋められているのですが、良く見ると1軒だけ、洋風のテラスを上層階に備えた建物が右側に建っているのに気付きます。残念ながらこの建物の看板は物陰に隠れていて全てを読めず、傍らの細かい文字が書かれている立て札も十分解読出来ませんが、宿屋なのでしょうか。下層階は和風と折衷スタイルになっている様ですが、明治初期に撮られたと考えられる写真にこうした建物が写っているというこことは、この頃には既に江の島にも新しい舶来の文化の影響があったことが窺えます(なお、先ほどの「江ノ島の入り口」にはこの建物が見えていませんので、時系列的には更に古いものであると考えられます)。しかし、ここでもハーンはこうした西洋文明の浸透については触れずに素通りしています。

サムエル・コッキング苑に残る温室の遺構の一部
サムエル・コッキング苑に残る温室の遺構の一部
同じことは、現在「サムエル・コッキング苑」として営業しているコッキングの植物園についても言えます。コッキングが江の島に別荘を購入し、その向かいの江島神社の所有地を買い取って庭園の造営を始めたのが明治15年(1882年)、3年越しで完成を見ています。江島神社の中津宮から奥津宮に向かう参道の途上にこの別荘と植物園がありますので、ハーンがこれらの宮を順に巡る途上でこの植物園の前も通過している筈です。しかし、やはりこうしたものの存在に敢えて触れてしまうと、主題として書きたいものの印象が散漫になるために割愛しているのでしょう。逆に言うと、こうした旅行記をその時代の修景に使う際には、そういう部分を割り引いて読む必要があることになると言えます。

出来れば、ここで当時の他の旅行記などと江の島の描写を比較できると、こうした記述者による表現のぶれをスクリーニング出来るのですが、今回手にした文献では適切なものを見つけることが出来ませんでした。もっとも、こうした風景の特徴などを仔細に表現するハーンの様な文体は、近代文学がこれから興隆しようという時期の日本人にはまだ真新しいものだったでしょうから、類似したものを見出すのはやや難しいことになるのかも知れません。



ところで、「江の島行脚」によれば、当時江の島には小学校があった様です。

石段をのぼって、高台の上へあがると、町の屋根が一望に見下ろされる。鳥居の両わきには、苔の蒸した、欠けた石の唐獅子と石の灯籠がある。高台のうしろは、樹木の茂った神社の山になっている。左手に、古色蒼然たる石欄があって、水草の一面にはえた浅い池をかこんでいる。池のはずれの岸の木立ちのなかには、漢字を一面に刻んだ、妙な形をした平石がひとつ、もっこりとすわっている。これは神石で、大きなガマの形をしていると信じられている。それで、「ガマ石」という名がついている。高台のへりには、あちこちにいろいろの石碑が立っていて、そのなかには、この辨天宮へ百回参詣したという人が奉納した記念碑などもある。右手の方に、またべつの百段があって、これをのばって行くと、さらに上の台地へでる。その石段の下のところで、竹の鳥籠をこしらえていた爺さんが、御案内をいたしましょうといって、自分から案内役を買って出た。

この爺さんのあとについて、上の台地へのぼると、そこに江の島の子供たちの小学校がある。そこに、またひとつ大きな神石があって、これは形も何もない石で、「福石」というのである。むかしは、参詣者がこの石を手でなでると、福が手に入ると信じられていた。だから、石は、無慮無数の人の手でなでられたおかげで、今ではすっかり角がとれて、つるつるになっている。

(上記同書 129〜130ページより)



福石の位置(ストリートビュー
手前に「江の島道印石」が保存されているが、
これは近年移されたもの
江ノ島分校はこの石の左の階段を
降りた辺りにあった
江の島に「江島学舎」が出来たのが明治6年(1873年)、その後「片瀬学校江ノ島分教場」となり、明治22年に江の島が片瀬村と合併して川口村に所属すると「川口村立小学校江ノ島分校」になりました。ハーンが訪れた時には、この川口村立の分校であったことになります。昭和36年に廃止された後に跡地は「江の島市民の家」になっていますが、このストリートビューで見てもわかる様に、現在の江島神社への参道からは「市民の家」は見え難い位置にあります。ハーンが参拝の途上で小学校の姿を見ていることから、当時はこの参道に門が面していたのではないかと思います。

また、ハーンが触れている「福石」は、杉山検校がこの石に躓いた際に手にした松葉から独自の管鍼を編み出したとされているものですから、位置関係として考えると検校の歩いた道に埋まっていたことになるのですが、現在は石が移設されたのか、参道が整備されて位置が動いたのか、今ひとつはっきりしません。「参詣者がこの石を手でなでると…」というのは、道案内をした老人の説明なのでしょうか。検校が躓く位置にあったものだとハーンが理解していたら、果たしてこういう説明になったかどうかは、少々気になるところではあります。



今回は、ハーンの「江の島行脚」を紀行文・道中記の1つとして、当時の修景作業に使えそうなポイントを探る観点で読んでみました。実際は、同時期の他の旅行記や風土記などの記録と相互に照合することで、筆者の記述上の特性を浮き立たせ、取捨選択する作業が必要なのですが、今回はそこまで踏み込むことは出来ませんでした。ただ、元は海外向けに紹介する目的で書かれたものですから、国内では当然視されて書かれ難いものが記述の対象になっているのが貴重な面があると思います。同時期の他の紀行文が手に入った際に、改めて「江の島行脚」等と読み比べる作業が出来れば、と考えています。



追記(2016/01/10):ストリートビューを貼り直しました。
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この記事へのコメント

- YUMI - 2014年02月08日 10:28:20

こんにちは。
先月江の島に行ったばかりなので、興味深く読ませていただきました。
自分の記憶もさだかではありませんが、私が子どもの頃と比べても、江の島ずいぶんかわったような気がします。

- kanageohis1964 - 2014年02月08日 10:35:28

こんにちは。コメントありがとうございます。

江の島は江戸時代から、どちらかと言えば庶民の信仰の場として栄えてきた側面の方が強かったのでしょうね。その分、昔から「流行りもの」に敏感で新しいものが入って来やすい部分があったのではないでしょうか。洋風の建物が当時既にあったというのも、そういう側面を良く表していると思います。

- kame-naoki - 2014年02月16日 07:38:26

こんにちわ。

小泉八雲が江の島を訪れていたのは知りませんでした。高校時代に「怪談」を読んだのを思い出しました。おそらく独特な表現方法なんでしょうね。面白そうです。

- kanageohis1964 - 2014年02月16日 09:01:14

こんにちは。コメントありがとうございます。

「日本瞥見記」、特に前半の横浜滞在中の様子は彼が初めて目にしたものをどう感じたかをつぶさに書いていて面白いです。もう少し新しい手に入りやすい本があればいいのですが、amazonで見るとオンデマンド版の高価なものしかなさそうです…。

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