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ラフカディオ・ハーン「江の島行脚」を巡って(その1)

以前「江島道見取絵図」を検討した際に、ラフカディオ・ハーンの「江の島行脚」を幾度か取り上げました。今回はその際に紹介できなかった部分を見て行きたいと思います。

江の島行脚」は明治27年(1894年)に出版された「日本瞥見記(原題:“Gilimpses of Unfamiliar Japan”)」の第4章に当たります。明治23年(1890年)日本に上陸して最初に滞在した横浜で知り合ったアキラと共に、鎌倉・江の島へと出掛けた日帰り旅行の記録という位置付けで、「日本瞥見記」中ではそれまでハーンは横浜界隈の寺などを人力車に乗って巡るのみでしたから、記録されている限りではこれがハーンが日本国内で横浜以外の土地に出掛けた最初の機会だったということになるでしょう。

その書き出しはこんな風になっています。

鎌倉。

木の茂った低い丘つづき。その丘と丘のあいだに、ちらほら散在している長い村落。その下を、ひとすじの堀川が流れている。陰気くさい、寝ぼけた色をした百姓家。板壁と障子、その上にある勾配(こうばい)の急なカヤぶき屋根。屋根の勾配には、何かの草とみえて、緑いろの()がいちめんについている。てっぺんの棟のところには、ヤネショウブが青々と繁って、きれいな紫いろの花を咲かせている。暖かい空気のなかには、酒のにおい、ワカメのお(つけ)のにおい、お国自慢の大いダイコンのにおいなど、日本の国のにおいがまじっている。そして、そのにおいのなかに、ひときわかんばしい、濃い香のにおいがただよっている。
――たぶん、どこかの寺の堂からでもにおってくる抹香のにおいだろう。

(「全訳 小泉八雲作品集 第五巻」平井呈一訳 1964年 恒文社 96ページより、ルビも原文通り)


前年の明治22年に、現在の東海道線は既に神戸までの開業を果たし、更に大船から分岐する横須賀線が横須賀まで開通していました。但し、この時点では中間駅は鎌倉と逗子のみに設けられ、円覚寺前の北鎌倉駅はまだありませんでした(昭和2年開業)。人力車だけでは到底横浜から鎌倉・江の島を周遊して日帰りすることは出来ませんから、やはり途中までは鉄路を使い、そこで人力車を雇ったと判断するのが妥当なところでしょう。しかし、「江の島行脚」はいきなり人力車に乗って鎌倉近辺を走行している様子から始められており、具体的に何処まで鉄道を利用したかの記述がありません。


円覚寺門前を横切る横須賀線
ストリートビュー
それだけではなく、一行はこの後円覚寺に立ち寄って境内の複数の堂宇を廻るので、その境内を横切る横須賀線の鉄路を当然目にしている筈ですが、それについてさえ触れられていません。後年のことではありますが、ハーンの妻となった小泉節子の手記に

電車などは嫌いでした。…汽車も嫌いで焼津に参りますにも汽車に乗らないで、歩いて足の疲れた時に車に乗るようにしたいと云う希望でしたが、七時間の辛抱と云うので汽車に致しました。汽車と云う物がなくて歩くようであったら、なんぼ愉快であろうと申していました。

(「思い出の記」1927年 青空文庫2011年版より、…は中略)

などと書かれる程の人が、少なくとも境内を横切る鉄道に全く無反応だった訳はないでしょう。

「江の島行脚」で鉄道が出て来るのは話の締め括りの部分です。藤沢宿の庚申堂で石碑や掛軸など様々な庚申を見ているところからの記述に当たります。

その懸物をみているうちに、わたくしは、自分のまわりに大ぜいの人が集ってきているのに、はじめて気づいた。――野良仕事からやって来た、日に焼けた、気だてのよさそうな顔をした百姓だの、赤ん坊をおぶった母親たちだの、小学校の生徒だの、草夫だのが、なぜおれたちの拝む神さまを、異人めがおもしろがっているのかと、みんな怪訝(けげん)に思っているらしいようすである。このぐるりからの圧迫は、きわめて穏やかな、ちょうどぬるま湯につかっているような平穏なものであったが、それでも、さすがにわたくしはちょっと面くらった。わたくしはなにがしかの賽銭を上げると、古い懸物を堂守に返して、匆々に庚申の神と堂守とに別れを告げた。

立ち去るわたくしのことを、憎げのない、目じりの上がった目が、みんなして見送っている。わたくしはその時、御鏡のない神壇や、色のあせた提燈や、荒れるにまかせた境内の欠けくずれた石の像や、がらんとした埃だらけの朽ちかけた堂や、それと黄ばんだ軸を手に持ったまま、わたくしのうしろ影をなごり惜しそうに見送っている、親切な堂守などをあとに、こんなにも慌しく別れて行くことに、一種の悔恨に似た気持を感じた。その時、汽車の汽笛がピーッと鳴って、時間がちょうどきちきちであることを、わたくしに警告した。この原始的な平和境をも、すでに西洋文明は、縦横無尽な鉄路の網目をもって侵蝕しているのである。おお、庚申よ、ここはもう、おまえの道路ではなくなった! 古い神々は、灰がらの撒きちらされる路のはたで、いまや死に瀕しつつある!

(上記同書149〜150ページ、強調はブログ主)

こうした記述にハーンが西洋文明と東洋文明にどの様な眼差しを持っていたかが良く窺えると思いますが、冒頭で鉄道に触れなかったのは、こうした対比への演出をハーンがある程度意識していた可能性はありそうです。


明治36年の北鎌倉の地形図(「今昔マップ」より)
※円覚寺周辺だけ地図が抜けている
鎌倉道(戸塚):十王堂橋
十王堂橋(再掲)
とすると、何処で人力車を雇ったかということになるのですが、最初の書き出しで「長い村落」や「ひとすじの堀川」と記していること、そしてその後の道順から考えると、これは小袋谷川沿いの鎌倉道(浦賀道の鎌倉付近の区間で紹介しました)の様子と思われます。ここを経由して最初の目的地である円覚寺へと向かっているので、それであれば、恐らくは大船駅から人力車に乗り、水堰橋や十王堂橋を経て一路円覚寺へ向かっていた、と考えるのが妥当なところではないかと思います。今ではこの周辺に耕作地を見出すことは出来ませんが、明治時代の地形図でも周辺は水田記号で埋め尽くされており、ハーンが農村らしい家屋を描写しているのと良く合います。

因みに、既に記した通り鎌倉駅も開業済みでしたから、ここを鎌倉観光の起点とするということも出来る様になっていました。ただ、その場合は大船駅で横須賀線に乗り換えなければならなかった訳ですが、行き先によって乗り物を乗り換えるというのは、このまだ新しかった交通手段特有のものではありますから、当時の人には不慣れで戸惑う元になったのではないかと思います。実際、ハーンが鎌倉へ訪れたのと丁度同じ頃の旅行記にこんな記述が見られます。この筆者は現在の岩手県二戸市の人で、明治23年3月当時では日本鉄道(後の東北本線)は宮城県の塩竈までしか達していませんでしたから、恐らくは鉄道を利用するのはこれが最初の体験だったのだろうと思います。

廿四日。雨天ナリ。前六時五十分ニ汽車へ乗。大船停車場ニテ鎌倉行ハ乗替可成処、不案内ノ為メ藤沢へ参り、同処停車場ニテ此訳ヲ申談タル処、不得止ヲ、九時過ギノ汽車ヲ待テ大船ニ戻り夫より鎌倉へ参ベシト談合ニ付、九時ニ藤沢ヲ発大船ニテ鎌倉行へ乗替、十時二十分ニ鎌倉へ至り、直ニ鶴岡八幡参拝シテ社内茶屋ニ休ム。然ルニ大風雨ニテ歩行難成、旧跡モ見不能。十二時ニ至り、裏門口ノ宿や丸屋冨蔵方へ案内ニ従一休、昼支度ノ一泊卜決スタル。雨頻ナリ風烈しキ。

(「養蚕地視察并諸所物産・名所見聞記」明治23年 菅治平、「藤沢市史料集(31)」より、強調はブログ主)

まだ今の様に東海道線の列車本数が多くなかった時期の話ですから、誤乗してしまうと時間のロスがかなり大きかったことが窺えます。こうした乗り過ごしは鉄道の開業当初から起きていたことの1例と言えそうです。その意味では、ハーン一行の様に大船で鉄道から人力車に乗り換えてしまう方が、要らぬ混乱を避ける意味でも良かったと言えるのかも知れません。

ファイル:Kenchoji Sanmon 2009.jpg - Wikipedia
建長寺三門(山門)(Wikipediaより)
ハーンはこの三門や本堂の様式が円覚寺と
そっくりで「また円覚寺の境内へきたのかなと、
妙な錯覚をおこす」と表現している
ここから一行は円覚寺と建長寺でかなり時間を取って境内を廻り、更に円応寺(上記の訳書は「禅王寺」と訳していますが、順路や境内の記述から考えると円応寺と考えるのが妥当と思われます)へと向かって運慶作と伝えられている閻魔像を見ています。この辺りは鎌倉の観光ルートに乗った順番になっているのですが、この次がいきなり高徳院の大仏へと飛んでいます。普通の順序であれば鶴岡八幡宮が出て来そうなところですが、今と違って道筋も限られていますし、まして人力車に乗っていることを考えると源氏山辺りの急勾配を無理に越えたとも思えないので、恐らくは円応寺前からそのまま巨福呂坂切通を通っているだろうと考えられます。

鎌倉道(戸塚):巨福呂坂切通
巨福呂坂切通(再掲)

そうすると、一行は鶴岡八幡宮を素通りしたか、あるいは立ち寄ったのにハーンが書かなかったかのどちらかということになります。上記の「養蚕地視察并諸所物産・名所見聞記」では鎌倉駅に着いてすぐに鶴岡八幡宮に参拝していますから、境内の改装などハーンが立ち寄れなかった事情が鶴岡八幡宮側にあったとも考え難いところです。察するに、「江の島行脚」で辿った全行程を考えると、この後長谷観音を経て江の島へ向かい、そこで島の反対側の岩屋まで往復した上で、更に帰路で龍口寺七面堂と思われる鬼子母神に寄って最後は藤沢の庚申堂と、1日で巡るにはかなりの「強行軍」であったことが窺えますので、江の島で過ごす時間を長くするために鶴岡八幡宮を省略したのかも知れません。

次回、ハーンが江の島へ渡った辺りを中心に見たいと思います。



追記(2016/01/10):ストリートビューを貼り直しました。

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この記事へのコメント

- かず - 2014年02月07日 20:19:42

コメントありがとうございます。。
とても勉強になるブログですね^^
たまに寄らせてもらいます!!

- kanageohis1964 - 2014年02月07日 20:25:32

かずさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
こちらは写真はあまりありませんが、今後ともよろしくお願いします。

初めて知りました - 住兵衛 - 2014年02月16日 17:34:37

能天気なお話ですが、」フカディオ・ハーンが「江の島行脚」を
していたことを、今回初めて知りました。
また、詳しいお話があることを楽しみにしていますので、
今後ともどうぞよろしくお願いします。

Re: 初めて知りました - kanageohis1964 - 2014年02月16日 18:47:26

こんにちは。コメントありがとうございます。

私にしても、「江の島行脚」の存在を知ったのは「江島道見取絵図」の解説の中ででしたから、恐らくラフカディオ・ハーンを幅広く読み込んでいる人でないと知られていないのでしょうね。
ハーンはしばらく横浜に滞在した後松江へと移ってしまいますので、神奈川県下の様子を書いているのは「日本瞥見記」の最初の方だけなんですが、他に何か興味深いものを見つけたら書いてみたいと思います。

- 藪野直史 - 2015年07月07日 17:23:54

只今、ハーンの落合貞三郎訳「知られぬ日本の面影」の「第四章 江ノ島巡禮」を電子化注釈している者ですが、貴方のサイトを見出し、その素晴らしさに感動致しました。本日、貴方の推論を当該記事
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2015/06/post-75cd.html
追記させて戴き、こちらへのリンクも貼らせて戴きましたので、お知らせ申し上げます。鎌倉地誌を離れると、一瞬にして不冥に陷いる狭隘な人間でして、これからやろうと思っておりますハーンの江の島からの帰路のパートでも貴方の考証を援用させて頂こうと思っております。
どうぞ、今後ともよろしくお願い申し上げます。また、手掛けております鎌倉地誌以外にも、やはり作業中の「「日本その日その日」E.S.モース 石川欣一訳」
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/cat23535597/index.html
の江の島パートなどでも、トンチンカンな注を附しているやも知れません。お暇な折りにご笑覧戴き、御指摘頂けると幸いです。どうか、よろしくお願い申し上げます。

Re: 藪野直史 さま - kanageohis1964 - 2015年07月07日 18:00:51

こんにちは。コメントありがとうございます。また、貴サイトにてご紹介いただきまして誠に感謝致します。

後ほどお書きになったものを順次拝見させていただきたいと思います。こちらこそよろしくお願いします。

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