【旧東海道】その14 小田原宿と小田原城と海嘯(その4)

前回は、小田原城と小田原宿の成立の歴史を、「小田原市史」に書かれているところに沿ってご紹介しました。その過程で、「小田原大海嘯」の歴史を見た後では疑問を感じる様になった箇所があることも記しました。今回はその箇所を取り上げます。

前回の引用文中、私が問題ありと感じたのはこの箇所です。

そうした経緯で形成されてきた小田原の宿・市町は、海辺に近い箱根道に沿って展開し、もっとも古い中心は松原神社前にあたる宮前(みやのまえ)町(市内本町付近)であった。宿町は室町・戦国時代を通じ、ここを中心として北東の新宿(しんしゅく)(同浜町付近)の方向へ、西は大窪(おおくぼ)(市内板橋)方面へと次第に長い街村をかたちづくっていったのである。

(「小田原市史 通史編 原始・古代・中世」 630ページ「戦国初期の小田原」から、強調はブログ主)


小田原宿のおおもとの中心を松原神社周辺としていますが、ここで改めて、「小田原大海嘯」の時に水を被った地域を思い起こして下さい。その中に、「松原神社・宮前町」が入っていたことにお気付きでしょうか。

中世から近世にかけての宿場の歴史を追っていくと、宿場が海の水を被ることに対しては、意外なくらいにナーバスに反応し、その地を捨ててしまったり、より安全な地へと移動していったりするのが一般的なのです。時にはそれによって街道の道筋に影響が出た例もあります。小規模なものは別として、宿場全体が潮を被ってもなお同じ所に留まり続けた例は、湊町としての機能を兼ねていない限り、少なくとも私には思い当たる節がありません。それなのに、小田原宿は台風による高潮を被りかねない場所に、当初から宿場を展開していた、としてしまっています。これは考え難いのではないか、というのが私の疑問点です。

そこでまず、津波・高潮を被った宿場の歴史をいくつか見てみましょう。まず、中世の浜名湖の南には、橋本宿という宿場があり、ここで夜の宴が持たれたことが当時の紀行文にも屢々書かれています。しかし、この宿場は明応7年(1498年)の地震と津波によって壊滅的な破壊に遭い、その後の歴史から忽然と姿を消してしまいます。この消失に際して浜名湖周辺の地殻変動がどの様に生じたかについては、「中世の東海道をゆく」(榎原雅治著 2008年 中公新書)で諸説あることが解説されていますが(第三章「湖畔にて—橋本」、79〜108ページ)、ここでの話で大事なことは、この宿場が災害の後に再建されずに破棄されてしまったことです。

新居関所跡の位置
現在は周辺の埋め立てによって内陸になっている
東海道五十三次 (浮世絵) ~新居宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」
新居宿(保永堂(ほうえいどう)版)

その代わりに、江戸時代には浜名湖口に新居(今切)の関が設置され、その隣に新居宿が設けられるのですが、新居関もまた津波や高潮と無縁ではありませんでした。慶長5年または6年(1600年または1601年)に現在「大元屋敷」と呼ばれる場所に設置された後、元禄12年(1699年)の暴風雨で「中屋敷」と呼ばれる場所へ移転し、宝永の大地震(宝永4年・1707年)の後の移転でようやく落ち着くことになります。新居宿もその都度関所と共に壊滅的な被害を受けては、関所に付随して移転を余儀なくされていますが、要害地形を選ぶ傾向のある関所に隣接している上に新居自身も廻船が出入りする湊町でもあった関係で、思い切って高台に上がってしまうことまでは出来なかった様です。その分、潮を被って移転する回数が増えてしまう結果になりました。

元禄3年(1690年)刊行の「東海道分間絵図」には、まだ「大元屋敷」に関所があった頃の姿が描かれていることになり、過去の経緯についての記述は特にありませんが、渓斎英泉の「東海木曽両道中懐宝図鑑」(天保年間、「天保懐宝道中図で辿る 広重の東海道五拾三次旅景色」人文社 所収)では

此所上古ハ陸地なり/しとぞ明応年中/大地震して湖水/なり又其後元禄/年中地しんして海/路あしく成しゆへ/宝永の比今切に杭を/打て海波をよけて/より舟行安穏也

(上記書86ページより、改行「/」に置き換え)

と記されています。


白須賀宿・潮見坂を上がったところが
宝永大地震後の白須賀宿
現在は坂の上に「おんやど白須賀」がある
東海道五十三次 (浮世絵) ~白須賀宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」
白須賀宿(保永堂版)
汐見坂が描かれている

宝永の大地震による津波で壊滅的な被害を受けたということなら、新居宿の西隣の白須賀宿も挙げる必要があるでしょう。こちらは新居宿の様な「縛り」がなかったためか、震災後はあっさり「汐見坂」の上の段丘へと逃れることになりました。この坂が歌川広重の保永堂板「東海道五十三次」でも描かれています。かつての宿場町には「元町」という名前だけが残っています。こちらも「東海道分間絵図」ではまだ汐見坂の下にあった頃の白須賀宿が描かれているのに対し、「東海木曽両道中懐宝図鑑」では

此宿元禄年/中潮見坂乃/下より此所/にうつる

(上記書88ページより、改行「/」に置き換え)

と宝永の地震ではなく4年前の元禄地震である旨記されていますが、元禄地震の被災地が相模湾側に集中していて駿河湾より西側では軽微であったことを考慮すると、これは誤記と考えるべきでしょう。江戸近傍では元禄地震の方が被害が大きかった故に渓斎英泉が取り違えたのでしょうか。新居宿の「又其後元禄/年中地しんして海/路あしく成しゆへ」についても同じことが言えそうです。


吉原宿の位置
東海道五十三次 (浮世絵) ~吉原宿(保永堂版)- Wikipedia
歌川広重「東海道五十三次」
吉原宿(保永堂版)
左富士の道筋が描かれている

江戸時代初期の宿場移転の事例としては、吉原宿が比較的有名かも知れません。この宿場は最初は田子の浦の近くの、砂丘の裏側に位置していました(元吉原宿)。ところが寛永16年(1639年)に潮を被って大きな被害を出し、和田川を遡上した場所に新たな宿場を設けます(中吉原宿)。それがまたしても延宝8年(1680年)に潮を被る被害を出し、翌年最終的に現在の場所(新吉原宿)まで宿場が移転したのです。この時に付け替えられた道がやや東へと向いている場所があり、そこが「吉原の左富士」と呼ばれる名所になったのでした。その後も吉原宿の和田川沿いでは水害に遭うことが度々だった様ですが、宿場の本体は水害から守られる様になったのです。

なお、この吉原宿の被害については「津波」と解説されているものが多いのですが、関連する地震などが確定されていないことから、これを「高潮」とするものも見られます。どちらが妥当なのかは現時点で確認出来ていませんが、その地形の特徴からかなり内陸まで潮が入り込みやすく、最終的には相当に遠回りする道筋にならざるを得なかったということになりそうです。

平塚・黒部宮
現在の黒部宮(再掲)
小田原宿の近隣では、以前にも見た平塚宿の例を挙げることになるでしょう。この宿場が「新編相模国風土記稿」のための「地誌取調上帳」に書き記したところでは、かつては黒部宮とともに南の砂丘列の上に宿場があったものの、やはり潮を被ったために現在地に移転して来たとしています(この場合も津波か高潮か特定は出来ていません)。この宿場からの説明は「風土記稿」には採用されることなく、結果として宿場の記録としてのみ残ることとなってしまいましたが、これが果たして史実であるか否かはさておき、大事なことはこの「地誌取調上帳」を記した江戸時代後期の宿場の役人相互の間では、この説が受け入れられていたということの方だと思います。つまり、江戸時代後期になっても宿場にとって高潮や津波はやはり「避けたいもの」であったが故にこそ、こうした説が確かなこととして受け容れられ、受け継がれていたのではないでしょうか。江戸時代も終わりが近い頃になっても、高潮や津波は相変わらず宿場の存続にかかわる重大な災害だった、ということです。

無論、高潮や津波は現代でも深刻な被害をもたらす災害に違いありませんから、殊更に宿場だけがこれらを不安視していた訳ではないでしょう。しかし、中世の街道筋が時には波打ち際を進むことがあった様に、他に適切な道筋が無ければ波に攫われるリスクも厭わなかった点を重ねると、かつての街道筋は自然界からのリスクに対してもっと「メリハリ」をつけて臨んでいたのではないかと思えて来ます。江戸時代にはリスクのある道筋を選ぶことは少なくなりますが、宿場の高潮や津波には相変わらず移転で対応していたのは、上記の例で明らかです。

これは私の見立てですが、恐らく、宿場は道行く人馬への「補給敞(ほきゅうしょう)」として機能していたことが関係していると思います。宿場では食糧をはじめとする大量の物資を無事に備蓄し、道行く人馬の必要に応じて十分に供給出来る体制を整えることが何より大事な任務です。そのために備蓄した物資が水を被ってしまっては、量が多いだけに損害もまた膨らんでしまいますし、備蓄が元に戻るまで宿場が充分に機能しなくなるということでもあります。このため、高潮で水に浸かってしまう様な立地では宿場の役に立たない、と見做されてしまい、一度でもその様な経験をした土地は二度と宿場として使わなかったのではないか、という気がします。

そこで、小田原宿の問題点をもう一度整理しましょう。「小田原大海嘯」の被害は確かに大きなものではありました。しかし、その際の気象データを見る限り、この程度の規模の台風は割と普通にあるもので、進んだコースと高潮の時間帯の兼ね合いで潮位が極端に高くなった、と考えられるということを説明しました。ということは、中世まで時代を遡る時、この様な被害を出す台風にはその間に何度となく遭遇していてもおかしくありません。もっと大きな規模の台風ならば、多少コースが逸れていても、やっぱり街道筋まで潮が上がりかねなかったのではないか、ということでもあります。

片岡助役の書き残した通り、江戸時代には小田原藩主が代々手塩にかけて海岸の防潮堤を維持管理していたので、そうした被害は最低限に抑えられていたのでしょう。江戸時代の小田原宿の風水害の記録は特に見つかっていない様です。しかし、それは飽くまでも防潮堤が機能したからであって、もしも堤防が無ければ江戸時代にも同程度の規模の被害に度々遭っていた可能性が大いにあります。その意味で、江戸時代の小田原宿は、小田原藩・小田原城が無ければ維持出来ない状況になっていたのです。

さて、更に時代を遡るとどうでしょうか。戦国時代後期は後北条氏の築いた城が、特に最終期の外郭・総廓が形成された頃には完全に防塁の内に小田原宿が収まっており、この頃には既に実質的な防波堤として総廓が機能していたと考えられそうです。しかしそれ以前の、まだ小田原城がこれ程大規模ではなかった時代、更にはそもそも小田原城が出来る前ということになると、海から上がって来る潮を防いでくれる存在もまだなかったことになります。そうなると、城が整備される前に松原神社のある位置では、宿場が潮を被らずに長期に渡って維持出来たとは考え難いのではないか、という気がしてしまうのです。前回見た通り、小田原宿が成立してきたのが称名寺文書の示す西暦1300年頃、北条氏綱が本格的な小田原城築城に乗り出すのが1500年代はじめ、ということは約200年余りの期間は海岸の築堤を維持してくれる存在がなかったことになり、それほど長い期間、あの位置が高潮に遭わずには済まなかった筈だということです。


では、成立当初の小田原宿が松原神社の周辺ではないとするならば、何処に立地していたのでしょうか。次回はその点について私なりの見立てを示してみたいと思います。




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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- ●白雲 - 2014年04月03日 11:40:23

はじめまして!
「置き手紙」登録、ありがとうございます!
また、度々の御訪問、恐れ入ります。

貴Blog・・・日本史好きの私には 興味あるテーマなのですが、
現在 何かと忙しく、また、14日からは「Mook」での中世の講義が始まりますので、拝読するに至っていません。 申し訳ありませんが、今しばらくお待ちください。 貴URLを保存し、出来る限り、応援P★はクリックします♪(^^)

- kanageohis1964 - 2014年04月03日 12:02:08

こんにちは。コメントありがとうございます。

私も自然史に少なからず関心がありますので、その方面をテーマにしたブログにもお邪魔しています。私のブログは基本的に地方史に特化したブログですが、自然史的な部分にも多少なりとも触れられればと思いながら題材を選ぶ様にはしています。
今後ともよろしくお願いします。

- シニア・ナビ事務局 - 2014年04月03日 20:49:19

はじめまして。シニアナビ事務局と申します。
突然のコメントで申し訳ございません。

私たちはシニア向けのコミュニティサイト「シニア・ナビ」を運営しております。シニアナビは無料で登録が出来き、同世代の方々と交流をしていただけるサイトとなっております。
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- kanageohis1964 - 2014年04月03日 21:19:10

こんにちは。お誘い有り難うございます。登録するかどうかについては少々検討させて下さい。

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