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「矢倉沢通見取絵図」と「根府川通見取絵図」

先日の「江島道見取絵図」が一段落した所で、ネタ切れと言うか、準備しているものがまだ公開出来る所まで書き上がっていないので、ひとまず予告めいたものでお茶を濁します(汗)。これも続きが出せるかどうかわかりませんが。

先日の「まとめ」の際にも少々触れた「矢倉沢通見取絵図」と「根府川通見取絵図」は、その作成された目的が比較的わかりやすいと言えるでしょう。まずはこの2本の道筋を、例によって「ルートラボ」上に描いてみました。特に静岡県側の道筋の検討がまだ十分に出来ていませんので、細かい部分に不備がある可能性があります。飽くまでも参考程度に見て下さい。


矢倉沢通見取絵図のルート



根府川通見取絵図のルート


参考:旧東海道・小田原〜三島間のルート
根府川通の分岐から三嶋大社の前まで
今回は「動かせる地図」の方を貼りました。下に標高グラフを表示しましたが、矢倉沢通の方は足柄峠の辺りで標高740m程、根府川通では熱海峠付近で標高630m程まで上がります。旧東海道を行くと箱根峠で標高840m以上まで登りますので、それに比べれば若干低い所を通過することにはなるのですが、それでもかなりの登り下りがあることには変わりません。その上、各ルート地図に見えている様に、矢倉沢通で約56km、根府川通では約47km、これは同じ区間を旧東海道沿いに行った場合の「8里」、つまり約32kmに比べるとかなりの「遠回り」であることがわかります(右のルート図では約30kmに収まっていますが、こちらも作図上の誤差が多少あります)。

古代の東海道は当初足柄峠を迂回していましたので、「矢倉沢通見取絵図」に描かれた道筋に近い箇所を進んでいたと考えられています。そこが富士山の噴火によって埋まったために箱根山を通過する道が仮に使われ始めたのが、箱根越えの道の歴史上の記録の最初とされ、その後も長らく足柄峠越えの道と併用され続け、江戸時代まで下って最終的に「箱根八里」が本道とされるに至った、と解説されることが一般的です。実際その通りではあるのでしょうが、この距離差や標高差を見ていると、この道筋の選択の解釈もなかなか一筋縄のものではないとも感じます。根府川通に含まれる熱海道が、海沿いを行くとは言え崖地を進む関係で崩落しやすい箇所が多いなど、地形や地質面も含めて比較してみる必要があると感じています。因みに古くからの由緒という観点では、「根府川通見取絵図」に含まれる熱海道は、源頼朝が「二所詣で」で伊豆山権現(現伊豆山神社)に参拝する際に使われた道筋に該当し、絵図にも伊豆山権現の様子がかなり詳しく載せられています。

これらの道筋に関連する記述を「新編相模国風土記稿」の足柄上郡・足柄下郡各図説から拾うと、
  • 卷之十二 足柄上郡卷之一:

    …脇往還二條を通ず、一は小田原宿より、甲駿信三國への往來にて甲州道と稱す、按ずるに、足柄下郡早川村、海藏寺藏、永祿十一年七月、北條氏より傳馬の事を下知せし文書に、宛所小田原より甲府迄、關本透宿中とあるは、此道の事なり、透の字は卽通の字の義なるべし、足柄下郡北ノ久保より郡中沼田村に入、矢倉澤村より駿州駿東郡竹下村に達す、道程四里許、幅二間、又千津島村の傳に、往昔は足柄下郡國府津村より西大友村に至り、夫より郡中下大井・金子・金手等の村を經て、十文字を渡り、吉田島・延澤・千津島・怒田・苅野等の村々に掛り、矢倉澤御關所前にて、今の道に合す、是を甲州古道と云、一は矢倉澤道なり、大住郡千村より四十八瀨を越え、郡中松田惣領に達し、四十八瀨水溢の時は、大住郡澁澤村より本郡篠窪村に入、神山村にて本道に合す、此道を富士往來とも云、十文字渡を越え、和田河原村に至て、甲州道に合す、行程一里三十町許、幅九尺より一丈に至る、

    …◯御關所四 河村川村山北の屬、 谷ヶ村谷ヶ村の屬、 仙石原仙石原村の屬、矢倉澤矢倉澤村の屬、以上大久保加賀守忠眞預れり、

  • 卷之二十二 足柄下郡卷之一:

    …脇往還二條、一は熱海道なり、或は伊豆往來とも云、小田原山角町にて、東海道の大路より南に分れ、早川村より海岸を通じ、土肥門川村に至て、豆州加茂郡走湯山領に達す、道程四里四十四町九間、道幅一間より三間に至る、一は甲州道なり、是も小田原宿高梨町にて、東海道より北に分れ、荻窪村に出北行して北ノ久保村に至り、足柄上郡沼田村に達す、道程一里十五町許、道幅二間、或は三間半に至る、

    …◯關所二 箱根、箱根宿の屬、 根府川、根府川村の屬、 并大久保加賀守忠眞預れり、

(何れも雄山閣版より、…は中略、強調はブログ主)

何れも「甲州道」「矢倉沢道」、あるいは「熱海道」の名前で呼ばれており、各村の記述まで含めても「矢倉沢通」「根府川通」の記述は見ることが出来ません。これらは飽くまでも絵図上での名称と言うべきでしょう。


旧東海道では箱根宿の江戸方に関所があったことが有名ですが、脇道を利用する旅人のために全部で6箇所に関所が設けられていました。その「新編相模国風土記稿」の記述も上記に併せて載せましたが、何れも「大久保加賀守」、つまり小田原藩の管轄になっていました。このうち、旅人の通行が大筋で認められていたのは箱根のほか矢倉沢と根府川で、「矢倉沢通見取絵図」と「根府川通見取絵図」が東海道の脇道で関所を含んでいることから作成の対象になったことはほぼ確実でしょう。因みに、「新編相模国風土記稿」上の矢倉沢関、根府川関の記述はこの様になっています。
  • 矢倉沢関(卷之二十一 足柄上郡卷之十 矢倉澤村の項):

    ◯御關所 小名關場にあり、惣構二十間許、領主大久保加賀守忠眞預りて番士を置く、當頭一人、當番二人、先手足輕一人、中間一人、總て五人を置て守らしむ往來繁き時は番頭一人、先手足輕一人を加ふ、建置の始詳ならざれど、土人の傳に據れば、大庭又五郎と云もの、天正小田原落去の後、始て常番人となると云、村内江月院の鬼簿に、又五郎の法名を錄して、慶長十五年八月死すと見ゆ、其子又五郎慶長十九年、小田原御城番頭近藤石見守秀用の手に屬し、寳曆の頃に至り、子孫大久保氏の藩士となりしとぞ、全く御入國の時、始て置れし所と見ゆ、小名本村西方の山道に、裏番所あり、常番一人を置く、又足輕一人本番所より兼勤す、

  • 根府川関(卷之三十一 足柄下郡卷之十 根府川村の項):

    ◯根府川御關所 熱海道にあり、西方は山に據て設け、東方は海濱に至るまで、柵木を設て結界をなせり、小田原より道程二里、世々小田原領主の預る所にて、番士を置、警衞の固とす、建置の初は、元和元年御代官中川勘助支配せし頃と云、…

(以上雄山閣版より)



実はまだどちらのルートも殆ど自分の脚で確認していないので(汗)、仔細な検討は行ってみてからということになりますが、何分どちらの道筋も山中の区間を含んでいて、予めきちんと計画して臨まないと厳しそうです。また、特に根府川通の方は関東大震災による崩落や熱海峠付近の新道建設などに伴って消失した区間があるなど、元の絵図との照合に際して難題となる箇所が幾つかあります。神奈川県民としては静岡県に属する伊豆国や駿河国の史料に触れる機会が少ないのも制約になりますね。

とは言え、この2つの絵図と「東海道分間延絵図」を重ね合わせると、当時の小田原城下の様子がほぼ網羅されるだけでなく、熱海や三島の様子も描かれているので、そうした観点からも興味深い絵図だと思います。何れ読み込みが進んだら「江島道見取絵図」同様に逐次的に紹介してみたいと思っています。
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