【江島道】「見取絵図」に沿って(まとめ)

前々回までで「江島道見取絵図」に描かれていたと思われる場所を逐次的に見てきました。仔細にやるとどうしても長くなりますね(汗)。改めて、ここまでの記事を一覧にします。



そして、「江島道見取絵図」のルート図を改めて掲げます。
江島道見取絵図のルート(再掲)


元々、「江島道見取絵図」に描かれた道をつぶさに追ってみる切っ掛けになったのは、この絵図に描かれた道筋のある種の「不自然さ」からでした。最終的に江の島に行かない道なのに、何故対岸の砂浜を経る道筋なのか、また何故鎌倉まで通しの道筋になっているのかを考える上で、絵図に描かれたものを一通りチェックしてみる必要を感じた訳です。

これは言い方を変えれば、「江島道見取絵図」が描かれた目的を考えるということでもあります。「五海道其外分間見取延絵図」に「江島道」がこの様な形で含められたのは何故なのか、という問でもあります。


この絵図の作成に携わったのは江戸幕府の道中奉行所です。つまり、この絵図を作成された街道は道中奉行所の管轄下にあったということでもあります。その観点では、「江島道見取絵図」に描かれたもののうち、特に幕府の重視しそうな施設としては、「その4」で出て来た「大筒稽古場」を挙げることが出来るでしょう。「その7」の「大筒稽古場定杭」や「鉄砲台」もそうですし、江島道から直行する訳ではありませんが「その6」で指摘した様に遠方に辻堂の「大筒稽古場」があることをわざわざ書き留めてあったのも、それだけ幕府にとって重要な施設であったからでしょう。

江島道見取絵図:大筒稽古場定杭付近
江島道見取絵図:大筒稽古場定杭付近(再掲)
こうした稽古場が街道付近にあれば、当然それらの稽古場で使用する武器が東海道や江島道を経由して運搬されることになります。その上、大庭村や辻堂村、羽鳥村といった東海道周辺の各村は、これらの稽古場に訓練に訪れた武士たちの宿泊や賄いを行ったり、武器の運搬や保管管理といった役務を負わされていたことが、「藤沢市史」資料編に収められた史料の数々から窺えます(差し当たりこの件について俯瞰するのであれば、こちらのサイトに年表などがまとめられています)。その点では「江島道」が幕府の直轄とされる理由の1つとして、これらの稽古場の存在を考える必要は確かにありそうです。

しかし、稽古場への移動の目的だけであれば、藤沢宿から江の島対岸までの区間だけが必要だった筈です。江戸から稽古にやって来る武士たちが使う道筋としては、藤沢宿までの東海道と、そこから各稽古場までの江島道だった筈で、鎌倉からわざわざ稽古に向かうというのは想定外になるでしょう。浦賀奉行所から鎌倉経由で…という可能性も考えたくなるところですが、そもそも、これらの稽古は幕府の鉄砲方や大筒役といった専任の役人の指示の下で行うものでしょうから、その様な大掛かりな稽古を現地集合で行うというのも不自然です。また、浦賀奉行所には別途鉄砲稽古場があったことが「浦賀道見取絵図」に描かれていますから、少なくとも鉄砲の稽古は奉行所内で賄うことが出来ました。つまり、この目的が主であれば、「江島道見取絵図」に江の島〜鎌倉間を含めていささか不自然な形で描いた理由が見えにくくなります。


やはりこの道が道中奉行所管轄に含まれたのは、その名に含まれる「江の島」が目的だったのでしょうか。確かに「江島道見取絵図」には、島の中に展開する弁天を中心とする数々の宮や塔が網羅的に記されています。また「藤沢市史」には

江の島弁財天の信仰が江戸の庶民の間に盛んになった契機は、徳川家康が慶長五年(一六〇〇)六月に関東に下向したとき、藤沢から江の島参詣を行って以来のことであったといわれる。そしてそれ以後代々の将軍の祈祷所となったことや、大奥および諸大名からの信仰が多くあったことなどによるとみてよいだろう。

ことに五代将軍綱吉は、杉山和一検校によって病気が平癒した関係もあって、江の島弁財天の信仰に力を入れた。

(「藤沢市史 第5巻」625〜626ページ「二、江の島道」より)

と記され、また

雪下を中心として金沢八景・鎌倉・江の島を結ぶルートは、江戸近傍屈指の遊覧コースとして知られ、参勤交代の大名や勅使として下向(げこう)した公家たちも、多くこのコースを遊覧した。また、毎年日光東照宮の大祭に朝廷から派遣される日光例幣使(れいへいし)の場合、帰路の旅程にこのルートを組み入れることを慣例化している。

(「街道の日本史21 鎌倉・横浜と東海道」神崎彰利・福島金治編 2002年 吉川弘文館 100〜101ページより、ルビも原文通り)

と記している本もあります。当時描かれた浮世絵の中には、大名の奥方か大奥の参拝行列を描いたと考えられている「江のしま参詣の図」(「電子博物館 みゆネットふじさわ」より)の様な作品もあります。

特に大奥や公家の通行が慣例化していたとする指摘に従えば、やはり幕府としてもこの道筋を直轄下に置く必要を感じていたとしても不思議ではありません。また、それであれば龍口寺前の道ではなく江の島対岸の浜を通る道筋が描かれているのも、一応理解は出来ます。「五海道其外分間見取延絵図」では他に日光や伊勢といった、明らかに幕府や公家が参拝目的で訪れる土地への道筋が取り上げられていますので、その点では江の島や鎌倉への道も同様の理由で道中奉行所の直轄になった可能性も否定は出来ません。

けれども、それなら最終的に江の島へ渡る道筋について何ら記載がないのはやはり不思議です。江の島への道筋を記すのが目的ならば、潮が引いて徒渉出来る状態の図示なり、どの様な方法で島に渡るかの記述なりがあっても良さそうです。

また、大奥や例幣使の通行が主な理由ならば、「浦賀道見取絵図」に含まれている戸塚〜鎌倉間も「江島道見取絵図」の方に組み入れられている方が目的に沿っているでしょうが、実際は鎌倉の下馬で切り分けられて別々にまとめられています。元々「五海道其外分間見取延絵図」では適宜複数の道筋をまとめて1つの名称で呼ぶということがしばしば行われており、例えば「根府川通見取絵図」では小田原〜熱海間(熱海道)と熱海〜三島間(三島道)が、「矢倉沢通見取絵図」では小田原〜関本間(甲州道)と関本〜三島間(矢倉沢往還)がまとめられて、その間の関所の名前が付されているといった例が挙げられます。「浦賀道見取絵図」の戸塚〜鎌倉間と鎌倉〜浦賀間、そして「江島道見取絵図」の藤沢〜江の島間と鎌倉〜江の島間の道筋も世間的には別の道筋と考えられていることが「新編相模国風土記稿」の記述などからも窺えますので、これらが絵図作成の際にひとまとめにされたのは何らかの理由がある筈です。しかし結果として「浦賀道見取絵図」に戸塚〜鎌倉間が組み入れられたということは、そちらの絵図の作成目的(恐らくは浦賀奉行所への往来)の方に優先順位があったことになります。

この様に、江の島や鎌倉の参拝の道筋であったことを「江島道見取絵図」作成の主目的であったと考えると、出来上がった絵図に描かれなかったものをどう考えるかという問題が残ってしまいます。

江島道見取絵図:岩本院付近
江島道見取絵図:江の島・岩本院付近
現在の「岩本楼」に当たる

鎌倉・大石本陣があった辺り(ストリートビュー
現在の清川病院などの辺りに当たる


結局のところ、「江島道見取絵図」に関しては、その成立の目的として考えられる理由はいくつか考えられるものの、その目的に沿って必要な情報が漏れ無く盛り込まれたり、目的に沿った記述が成されているかというと、必ずしもその様にはなっていない箇所があり、その点をどう考えれば良いかという課題が残っている様に思います。この点を更に明らかにするためには、「江島道見取絵図」をはじめとする「五海道其外分間見取延絵図」が、具体的に幕府でどの様に用いられていたのかについて、もっと明らかにする必要があるのでしょう。



「江島道見取絵図」の成立事情についてはまだ判然としない面はあるものの、幕府がある時期に集中的に調査を行って作図したこの絵図は、結果としてみれば当時参拝客を数多く集めた江の島・鎌倉の江戸時代の様子を窺い知るのに重要な絵図の1つになっていることは確かでしょう。特に、街道周辺の景観を窺い知る上では他に類のない絵図であると言えます。

もっとも、個別の記述を追っていくと、明らかな誤記や疑わしい記述が紛れ込んでしまっているのも事実です。これまで「浦賀道見取絵図」と併せて見てきた限りの印象では、やはり寺社関連の記述に若干誤記が多い様です。他にも「極楽寺切通」を「朝比奈切通」と書くなど、調査に基づいての記述にしては若干精度が粗いと感じさせる箇所が散見しました。

江島道見取絵図:龍口寺付近
江島道見取絵図:龍口寺付近
「七面堂」の位置は採用できるか?
このことは、絵図に記載された内容を個別に取り上げる際に慎重に取り扱うべきであることを意味しています。少なくとも、可能な限り別の史料と照合して裏を取ることが必要になるのですが、それが出来ない場合は一定の留保が必要になってしまうということになります。例えば、龍口寺の七面堂については「その7」で引用した「江ノ島参詣之記書写」にもあった様に、幕末期には山の上にあったことが「新編相模国風土記稿」でも指摘されています。しかし、「見取絵図」に描かれた龍口寺の境内では、右に掲げた様に「七面堂」はむしろ山門に近い低い場所に位置しています。これが果たして「見取絵図」が描かれた寛政〜文化の頃の七面堂の位置と言えるのか、それともこれも「見取絵図」の誤記のうちなのかは、更に他の史料と照合する必要があるということです。

無論、複数の史料等によって過去の記述の確度を確保するのは歴史を研究する上では基本的な手法ですが、他に該当する史料が見出だせなかった場合に「見取絵図」に描かれたものをどう評価するのか、ということです。「五海道其外分間見取延絵図」の精度が全体としてはどの程度確保されているのか、誤謬が紛れている箇所にはどの様な傾向があるのかについては、残りの23本の街道についても一通り同様に検証した上でないと包括的なことは言い難いでしょう。勿論個人で全てを確認出来る量では到底ありませんので、特に遠方の地域の絵図についての検証については既存の成果も参照しないといけないかなと感じています。



江島道:龍口寺道印石と江島道
龍口寺道印石と江島道(再掲)
江戸時代の位置に最も近い場所で保存されているのは
これと西行戻り松の1体
江の島道に固有の問題としては、「江の島道印石」の設置場所の問題があります。「見取絵図」に「道印石」等と記された箇所ではなるべく都度紹介する様にしました。「道印石」と傍示がなかった西行戻り松の1体を含めて全部で14箇所を指摘出来ましたが、石上村に入る手前の1体が抜けてしまったので、合計15箇所が絵図上に記されていたことになります。

このうち、最後の方で2箇所ほど、道印石と書かれている箇所に別の石碑があった可能性が出て来てしまいました。どちらも現存する石碑が本当に「道印石」と書かれた場所にあったかどうかが問題ですが、仮にこれら2体も「江の島道印石」であったとしても、48体も設置されていたとされる道印石の1/3以下ということになります。

藤沢や鎌倉から江の島へ向かうメインルートになる筈の道筋に、江の島への道を示す道標がこれだけしか設置されていなかったとすると、他の江の島へ向かう道筋に設置された分を考慮に入れても、果たして本当に48体も存在したのだろうか、という点が少々気に掛かります。「見取絵図」が書き漏らしたり、「立石」などと表記された石碑が「道印石」と取り違えられている可能性も勿論あるにしても、それだけでは到底この差が埋まるとは考え難いと思います。この「48体」という数字については色々な場所で引用されているのを目にするのですが(東京美術版の解説でも触れられています)、意外に出典が掴み難く、また

杉山検校の発願にかかるこれら道しるべ石についての資料は、設置されてから数年後にあった江ノ島下之坊の火災(元禄八年〈一六九五〉二月)のときに失われてしまったのではないかといわれている。

(「江島道見取絵図」東京美術版解説4ページから)

とされているので、あるいは伝承される過程で何らかの理由で数が増えてしまった可能性も考えなければいけないかも知れない(仏教の「四十八願」に通じる数字であることもあり)と感じています。




江島道:藤沢庚申堂
ハーンが訪れた藤沢の庚申堂(再掲)
今回何度かラフカディオ・ハーンの「江の島行脚」を引用して、明治時代初期の江の島道や周囲の変化についても触れました。「江の島行脚」には他にも興味深い点が含まれているので、それについては別途まとめてみたいと考えています。彼独自の審美眼による記述を当時の修景に際してどう解釈するか、別の人による紀行文なども参考にしなければならない面もあると思いますが、比較的早い時期から人力車への対応が進むなど、江の島や鎌倉が明治時代に入っても有力な観光地のひとつであったことを窺い知ることが出来る資料と言えると思います。

また、明治35年(1902年)に開業した江ノ電の藤沢〜江の島〜鎌倉のルートも、大筋では「見取絵図」の道筋と付かず離れずの場所に敷設されました。地形の制約や人力車業者の反対の関係で、江島道から離れた場所をを通した区間もありますが、基本的には明治時代以降もこの道筋が江の島・鎌倉の観光ルートであり続けたことを裏付けていると言って良いでしょう。

今回の「江島道見取絵図」の検討はこの辺で一旦終了しますが、更に何か気付いたことがあれば再び取り上げたいと考えています。




追記(2015/07/08):「江のしま参詣の図」へのリンクが切れていたので修正しました。
(2015/11/22):ストリートビューを貼り直しました。なお、画像は2010年当時のもので固定しています。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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