【江島道】「見取絵図」に沿って(その13:長谷寺前から下馬まで)

前回は御霊神社の前まで来ました。今回で下馬の辻まで到達します。

江島道見取絵図:長谷寺付近
江島道見取絵図:長谷寺周辺


江島道:長谷観音・大仏方面に曲がる
長谷観音・大仏方面に曲がる
この交差点の位置
江島道が坂下村を通過する距離は短く、程なく長谷村に入って左折します。現在は「大仏」への案内標識が目印です。

「見取絵図」では「光明寺道」と記されており、現在も直進すると国道134号に合流して海岸沿いに光明寺(材木座海岸にある)へと向かうことになるのですが、この道は勿論江戸時代にはありませんでした。迅速測図でこの道を辿ると、「水無瀬川」を渡った先で内陸に向きを変え、その先で再び江島道に合流しています(現在の鎌倉彫寸松堂の前辺り)。そのまま浜伝いに進んでも滑川に橋がないため、光明寺まで行くためには何れにしても江島道に合流する道を行かざるを得なかった様です。敢えて「光明寺道」と表現したのは坂下村が光明寺との往来に使っていたということなのでしょうか。

江島道:江ノ電長谷駅
江ノ電長谷駅
江島道:長谷から極楽寺へ向かう江ノ電
長谷から極楽寺へ向かう江ノ電
この先に御霊神社の参道の踏切がある
「見取絵図」では長谷観音前に向かう途中で家並みが一旦途切れ、そこを流れる小さな川に「水抜」が設けられています。その少し先から御霊神社の参道と合流する細い道が描かれ、その傍らに「立石」があったことが記されています。

現在はこの様な小さな川は地上からは確認できないので(暗渠化されている可能性もありますが)、この「水抜」が何処にあったのかは不明です。「見取絵図」上では上記の「光明寺道」との分岐点と長谷観音前との丁度中間くらいに「水抜」が位置しており、この距離感で類推すると現在の江ノ電の線路の辺りに来そうです。「立石」の傍らの道は「迅速測図」や当時の地形図から判断すると、収玄寺北側の路地に相当するでしょうか。

前回取り上げた「力餅家」前の石碑ですが、石碑に刻まれた道案内は、この「立石」の位置にあっても矛盾なく収まります。もし「力餅家」前の石碑が江戸時代にはこの「立石」の位置にあり、「道印石」の位置には「江の島道印石」があったのであれば、全てが問題なく収まることになるのですが、そうすると「立石」が何故わざわざ現在地に移設されたのかが問題です。道印石の方は失われたものが多い中で、この石碑の方は何故保存されてきたのか、その経緯も含めて気になるところです。


江島道:長谷観音前交差点
長谷観音前交差点:右手が坂ノ下、左手が下馬
向かいに石の高欄が見えている

「長谷観音前」交差点の位置と稲瀬川
江島道:長谷寺山門
長谷寺山門
江島道:長谷観音前交差点越しに長谷寺を見る
長谷観音前交差点越しに
長谷寺を見る
ともあれ、現在の長谷駅から北へ200m程進むと「長谷観音前」交差点に出ます。江戸時代にもこの交差点が長谷村の中心地であったことが、「高札」が描かれていることでわかります。長谷村の名前も長谷寺から取られており、その門前町として栄えていたため、「新編相模国風土記稿」に

一は江ノ島道神明町兵橋脇より左折して坂之下村に至る、幅凡四間より六間許に及ぶ、

(卷之九十六 鎌倉郡卷之二十八 長谷村の項、雄山閣版より)

と、江島道の中で最も広い道幅(約7.2〜10.8m)を誇っていたことが記録されています。現在のこの付近の道幅も当時とあまり変わっていないのかも知れません。また、「風土記稿」には続いて

當村人馬の繼立をなせり東方、三浦郡小坪村へ一里、北方、藤澤宿へ二里を送る、

(上記同書より)

と継立場であったことを伝えていますが、藤沢方面の継立にはここから大仏切通を抜ける道筋を使っていた様です。

「見取絵図」ではこの辻の一角に石橋があって、その下を「稲瀬川」が流れていたことが描かれているのに対し、現在は石の高欄が下流側に残るのみとなっていて上流側は暗渠になっています。交差点の北東側の一角が斜に広げられており、現在の稲瀬川の川筋を直線的に伸ばすとこの空間の上に来るため、ここがかつての稲瀬川の筋である様にも見えます。

この橋の名に、「見取絵図」では「雨かんむりに氷」という文字を使っていることが東京美術版の解説図に記されているのですが(原図の印刷では解像度が不十分で判読出来ませんでした)、大修館書店の「大漢和辞典」(図書館に良く常置されている全13分冊の辞典)で調べても該当する文字は見当たらず、勿論ネットで検索しても該当する漢字を見つけることが出来ず、少なくとも日本語で利用されている漢字としては他に例がなさそうです。勿論、これで何と読ませる意図だったのかは全く不明です。

他に江戸時代の記録がないか探してみましたが、「新編鎌倉志」には記述がありませんでした。他方、「新編相模国風土記稿」では

◯稻瀨川 源は御輿ヶ嶽より出て南流し村内にて由井ヶ濱に會す、往古は水無の瀨川と云へり、【萬葉集】に始て其名見ゑ曰、相模國歌、麻可奈思美良能美奈能瀨河泊爾思保美都奈武賀、堀川百首中にも所見あり曰、源顯仲、鎌倉やみこしか嵩に雪消てみなのせ川に水增るなり、今の川名は【東鑑】に始て見え彼書往々稻瀨川とのみ記せり、…又小名大谷の溪間より涌出する小川あり、上ノ町を經て南流し村内にて稻瀨川に合す、此川に石橋を架す、兵ヶ橋と呼、鎌倉十橋の一なり、

(上記同書より、…は中略)

と記しており、上述の江島道の記述でも「兵ヶ橋」の名が使われています。ところが、同じ「風土記稿」の鎌倉郡図説では

◯橋十 筋違橋雪ノ下村の屬、下同じ琵琶橋・夷堂橋大町村の屬下同じ、逆川橋・裁許橋・勝ヶ橋扇ヶ谷村の屬十王堂橋山之内村の屬針磨橋極樂寺村の屬亂橋亂橋村の屬歌ノ橋二階堂村の屬以上鎌倉の十橋と稱す、

(卷之六十九 鎌倉郡卷之一、雄山閣版より)

と、「鎌倉十橋」に「兵ヶ橋」を含めておらず、記述に矛盾が生じてしまっています。「新編鎌倉志」に記されている「鎌倉十橋」もこの10本ですし(卷之一 筋替橋の項)、現在一般に「鎌倉十橋」と称されているのも同様で「兵ヶ橋」は含まれていません。

現在の高欄には「三橋」と刻まれており、これまた上記の何れとも合致しません。どういう経緯で今の名称になったのかは不明です。

江島道見取絵図:大仏周辺
江島道見取絵図:大仏周辺
「見取絵図」では大仏方面の道は長谷寺の参道の中途から脇に逸れて光則寺の前を行く様に描かれていますが、「迅速測図」では現在の道筋と変わらず長谷観音前の辻から北へそのまま直進出来る道が見えます。道が付け替えられたのか、「見取絵図」の位置関係が当時の実情と合っていないのかは不明です。

光則寺から大仏までの道筋は「見取絵図」でも省略されることなく描かれています。この辺りでは北西方面から俯瞰する視点で絵図が描かれているため、ほぼ南を向いている大仏もその右後背を表現しています。大半の絵図が北を上に描く中では珍しい描写と言えそうです。現在は大仏の安置されている寺院の名称としては「高徳院」の院号の方が知れ渡っていますが、「見取絵図」では「清浄泉寺(しょうじょうせんじ)」の寺号の方が記されています。

江島道見取絵図:甘縄明神付近
江島道見取絵図:甘縄明神付近


江島道:長谷の古い商店建築
長谷の古い商店建築
「見取絵図」では甘縄明神の参道周辺辺りまでは長谷村の集落が続いていたことが窺えます。現在では一帯に新しい建物が建ち並んで当時の面影を窺い知るのは難しくなってきましたが、まだ古い建物がちらほらと残っています。流石に江戸時代まで遡るものではなさそうですが、それでも過去の建築物の風情を伝えてくれています。

江島道:甘縄神社鳥居
甘縄神社鳥居
江島道:足達盛長邸址碑
足達盛長邸址碑
「甘縄明神」は現在は「甘縄神明宮」になっていますが、これは周辺の神社が統合され、昭和初期に神明社となったものです。「甘縄明神」の背後に「甘縄院」が描かれていますが、こちらは明治時代に入って御多分に漏れず神仏分離令に従って廃止されました。江戸時代には長谷村の鎮守でした。

「甘縄明神」の境内には、現在鎌倉町青年団の建てた「足達盛長邸跡」碑があります。これについて、「新編鎌倉志」は

◯藤九郎盛長屋敷 藤九郎盛長屋敷(トウクラウモリナガガヤシキ)は、甘縄明神の前、東の方を云。【東鑑】に、治承四年十二月廿日、武衞御行始めとして、藤九郎盛長が、甘縄の家に入御し給ふとあり。其後往々見へたり。

(卷之五、雄山閣版より)

と記しており、これに従えば現在の石碑よりはやや東南寄りということになります。これに対して「見取絵図」は甘縄明神の境内の西寄りに当たる山裾辺りに「足達藤九郎屋鋪跡」と記しています。この辺りは伝承地ということになるでしょうから、両史料の記述の正誤よりはそれぞれの史料作成時の聞き取りの際に食い違いが生じた可能性を考えた方が良さそうです。

江島道:盛久碑前の庚申塚碑と江島道
盛久碑前の庚申塚碑と江島道
江島道:主馬盛久之頚座碑
主馬盛久之頚座碑
盛久碑と庚申塚の位置
「見取絵図」では、甘縄明神の前を過ぎると、江島道の周辺には終点まで建物がなかった様に描かれています。この状態は明治初期でも変わらなかった様で、「迅速測図」でも周囲は畑と記され、江島道の周囲には建物や集落を示すものが殆ど描かれていません。

「見取絵図」では、そんな村外れの辺りに「盛久屋鋪跡」が記されています。現在はその地に「庚申塚」碑と共に鎌倉町青年団が設置した「主馬盛久之頚座碑」があります。「新編鎌倉志」は「盛久頸座」と記し、「平家物語」を長く引用してこの地で主馬盛久が奇跡により頼朝の恩赦を受けたことを記しており、鎌倉町青年団の碑も「新編鎌倉志」の記述に拠ったものと言えます。「見取絵図」が「屋敷跡」とした理由はわかりませんが、江戸時代初期には「盛久」の伝承地が確立していたことが窺えます。また、ここに集められている庚申塔には「盛久」の名を刻んだものも含まれており、この庚申塚がその伝承の下で受け継がれてきたことがわかります。恐らく「見取絵図」の頃には畑の中に小さな塚の上に庚申塔が多数祀られていたのでしょう。

江島道見取絵図:下馬付近
江島道見取絵図:下馬付近



和田塚の位置。江ノ電の北側の県道が江島道
「見取絵図」の遠方には「千人塚」が描かれています。いわゆる「和田塚」で、建暦3年(1213年)の合戦で滅亡した和田義盛以下一族の墓があるとされている場所です。今は江島道からこの塚を見通すことは到底出来ませんが、江戸時代の畑の広がる風景であれば、和田塚まで見通せたでしょう。由比ヶ浜越しの海も見えていた箇所もあると思いますが、海岸沿いには砂丘があって意外に標高が高い(10m前後)箇所があることと、その砂丘の上が松林になっていた(迅速測図による)ので、意外に海までの眺望が望めない区間の方が多かったかも知れません。

「見取絵図」には「尊氏屋鋪跡」の存在が指摘されていますが、一般には足利尊氏の邸宅は亀ケ谷切通の長寿寺の位置にあったとされており、「見取絵図」の指摘する付近に武家屋敷があったという伝承地も見当たらないので、何と取り違えたのかは不明です。

江島道:六地蔵と芭蕉句碑
六地蔵と芭蕉句碑
後背の左の石碑が芭蕉句碑

六地蔵と句碑の位置

鎌倉彫寸松堂の特徴ある建物(昭和11年竣工)
鎌倉の景観重要建築物に指定されている
この右手の道を進むと佐助稲荷に向かう
ストリートビュー
「見取絵図」では「道印石」の傍らから道が分岐し、その道の向かいに「句碑」と記されています。この「道印石」がもし「江の島道印石」であったとすれば、これが鎌倉からこの道を経て江の島に向かう際に最初に出会う道印石だったことになるのですが、東京美術版の解説では現在佐助稲荷境内に移されている「佐助稲荷道」の石碑であったとしており、そうするとこの「道印石」も「江の島道印石」ではなかったことになります。もっとも、江島道沿いから佐助稲荷に向かうのであれば、「迅速測図」などに描かれた道筋から判断すると六地蔵からではなく、現在の江ノ電踏切脇の道を西へ向かうか、鎌倉彫寸松堂の東脇の道から北上することになりそうで、果たして本当に解説が指摘する「道印石」の位置に「佐助稲荷道」の石碑があったのか、疑問も感じます。実際、「見取絵図」を良く見ると、大町村板橋の西側に分岐路が描かれていてそこに石碑の様なものが描かれており、これが今の江ノ電踏切脇の道に当たりますので、この位置に「佐助稲荷道」碑があったのではないかという気がします。

ここは「飢渴畠」と呼ばれる地で、再び「新編鎌倉志」によれば

◯飢渴畠 飢渴畠(ケカチバタケ)は、裁許橋の南路端なり。此所昔より刑罰の所にて、今も罪人をさらし、斬戮する地なり。故に耕作をせず。飢渴畠と名く。

(卷之五、雄山閣版より)

と、ここが江戸時代初期には刑場になっていたことを記しています。今もこの六地蔵から裁許橋(鎌倉十橋の1つで頼朝の頃にこの付近に問注所があったとされる)へ向かう道筋があり、「見取絵図」に描かれた道と同定することが出来ます。刑場が江戸時代以前のどの時代まで遡るかはわかりませんが、裁許橋脇の問注所跡まで300m足らずしか離れておらず、鎌倉が武家政権の中枢として栄えていた頃にはこの周辺も鎌倉の都市部の一角と考えられていますから、その頃に街中に刑場があったとは考え難く、恐らくは鎌倉衰退後ということになるのでしょう。

六地蔵の傍らに建てられた石碑によれば、この六地蔵はその刑場の頃からあったものとされており、恐らくは処刑者の追悼のために祀られたのでしょう。一方、背後の句碑は芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の句が刻まれたもので 天明7年(1787年)の日付があります。勿論この句は「奥の細道」のものでこの地とは関係がありませんし、近隣に由比ヶ浜の古戦場はありますが若干離れていますので、この句碑が建てられた意図ははっきりしませんが、比較的大振りの句碑であるために畑の中を行く道にあっては目立つ存在だったのでしょう。昔から地蔵があったのであれば「見取絵図」にもその旨描かれていそうですが、その様な指摘はありません。あるいは傍らに小さく描かれた祠の様な建物が地蔵堂だったのでしょうか。

なお、現在の六地蔵は関東大震災の被災者祈祷のために大正14年(1925年)に改めて祀られたことが、傍らの石碑に刻まれています。

江島道:旧横浜興信銀行由比ガ浜出張所
旧横浜興信銀行由比ガ浜出張所
現在はバーが入店している
追記:2015年5月頃に閉店してしまったとのことです
周辺に建物がなかったというのは飽くまでも江戸時代から明治初期の話で、明治36年の地形図では既に江島道沿いにも集落が出来ていたことが窺えます。左の写真の建物は昭和2年竣工の旧横浜興信銀行由比ガ浜出張所で、上の六地蔵の向かいにあり、鎌倉駅が近いこの地がその頃には一転繁華の地に変わっていたことを窺わせます。

江島道:江ノ電の大町付近の踏切
江ノ電の大町付近の踏切
江島道:下馬交差点を江島道側から見る
下馬交差点を江島道側から見る
長谷駅の傍らで踏切を渡った後、やや南寄りの離れた位置を走っていた江ノ電が、再び北上してきて江島道と交わります。現在は踏切があるのみですが、かつてはこの踏切の傍らに「大町」駅があったことが、モニュメントとして残っています。かつての大町村の境は「見取絵図」が示す通り板橋のあった位置で、この下を佐助川が流れています。現在はこの区間の佐助川は暗渠化されていますが、下馬交差点角の銀行前に「下馬橋」の高欄のモニュメントが残されています。

鶴岡八幡宮の参道である若宮大路が由比ヶ浜まで伸び、その先に大鳥居(一の鳥居)があって傍らに畠山重保の史跡があることが「見取絵図」に記されていますが、現在も大鳥居の傍らに畠山重保の墓と伝わる宝篋印塔が残っています。

江島道見取絵図:是ヨリ三浦三崎浦賀江引続
江島道見取絵図:是ヨリ三浦三崎浦賀江引続
その板橋のすぐ先で北から浦賀道と交わり、江島道はここが終点ということになります。「見取絵図」はその先の道をもう少し描いた所に「是ヨリ三浦三崎浦賀江引続」と記し、小坪を経て浦賀や三崎に向かう道と合流することを示しています。

というわけで、ようやく「江島道見取絵図」の終端まで検討が済みました(汗)。次回はここまでを振り返りながら、「見取絵図」全体についてもう少しまとめてみたいと思います。



追記(2016/01/27):ストリートビューを貼り直しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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