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【江島道】「見取絵図」に沿って(その12:針磨橋から五霊宮前まで)


江島道見取絵図のルート(再掲)
前回は日蓮袈裟掛松の先の江ノ電の踏切を渡った辺りまで来ました。今回は極楽寺周辺を検討します。

江島道見取絵図:極楽寺付近
江島道見取絵図:極楽寺付近


江島道:針磨橋
針磨橋

針磨橋の位置
江ノ電の踏切を過ぎて200m余り行った辺りに、「針磨橋」の石碑が立っています。昭和初期に当時の鎌倉町青年団が建てたもので、

鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ此ノ名アリトイフ

と刻まれています。

この石碑が無ければ、かつてここに橋があったことを見逃してしまいそうです。「見取絵図」では極楽寺の境内に端を発した流れがこの橋の下を潜っているのが確認できますが、現在はそのかなりの区間が暗渠になっており、石碑の下に顔を出す白いコンクリートが暗渠の位置を教えてくれる程度です。石碑の向かいに暗渠の出口があり、その上にコンクリートの高欄があるのが橋の名残と言えるでしょうか。

この石碑に刻まれている通り、かつてはこの橋の畔に針を研ぐ職人が住んでいたと言い伝えられています。七里ヶ浜の砂鉄の話がここに繋がる訳ですが、七里ヶ浜の砂が「庖丁・小刀等をみがくに佳也。」と紹介した「新編鎌倉志」は

◯針磨橋 針磨橋(ハリスリバシ)は、極樂寺の南、七里濱へ出る路の小橋なり。唐李白が老嫗の杵を磨するに逢、又江州磨針峠の故事などの例か。鎌倉十橋の一なり。

(卷之六、雄山閣版より)

と、意外にもここでは針を研ぐ職人の言い伝えには触れていません。裏付けに乏しいと判断したのでしょうか。「新編鎌倉志」の影響の強い「東海道名所図会」でも、やはりこの言い伝えには触れずに鎌倉十橋の1つであることのみ記しています。他方、「新編相模国風土記稿」では

◯針磨橋 往還を横ぎる惡水渠に架せる石橋にて、鎌倉十橋の一なり、此邊に昔針を製せしもの住せしより、名とすと云ふ、

(卷之九十六 鎌倉郡卷之二十八 極樂寺村の項、有雄山閣版より)

と、この言い伝えを採用しています。

「見取絵図」では、この辺りから極楽寺村の集落があった様に描かれています。「風土記稿」では民戸37軒の村であったとしています。

江島道:極楽寺駅前
極楽寺駅前
江島道:極楽寺駅下を流れる極楽寺川
極楽寺駅下を流れる極楽寺川
もう少し進むと江ノ電の極楽寺駅前に出ます。駅ホーム脇では、極楽寺川の姿を僅かに見ることが出来ます。「見取絵図」ではこの間江島道に沿って川が流れていたことがわかりますが、現在はどの辺りに暗渠が埋まっているのか良くわかりません。暗渠の区間が増えたのは大分時代が下ってからのことでしょうが、極楽寺駅の下の区間は開業当初に造られた煉瓦のアーチがまだ残っています。

極楽寺について、「新編鎌倉志」では次の様に記しています。

◯極樂寺附切通、辨慶腰懸松 極樂寺(ゴクラクジ)靈山山(リヤウゼンサン)と號す。眞言律にて、南都西大寺の末寺なり。開山は、忍性菩薩、良觀上人と號す。【元亨釋書】に傳あり。當寺は、陸奥守平重時が建立なり。重時を極樂寺と號し、法名觀覺と云。…此寺、昔は四十九院ありしとなり。今吉祥院と云のみあり。寺領九貫五百文あり。又千服茶磨(センブクチャウス)とて、大なる石磨、門を入右の方にあり。昔此寺繁昌なりしを、知らしめんが爲なりといふ。鶴岡一鳥居より是まで廾三四町あり。

(上記同書より、…は中略)

以前大磯の「化粧坂(けわいざか)」について触れた際に、極楽寺坂が化粧坂と呼ばれていた可能性があること、この付近が当初は鎌倉の周縁で、この地に市が立ったり宿場が出来たりして栄えていたという説を紹介しました。「新編鎌倉志」も、極楽寺がかつては49院を擁する非常に大きな寺院であったことや境内の茶臼が以前の繁盛振りを示すものであることを紹介しており、この地が以前は栄えていたという見方を支持するものになっています。上述の「針磨橋」の言い伝えも、その点ではここが鎌倉周縁の商工業の地であったが故とも考えられ、七里ヶ浜の砂鉄と併せて見れば裏付けのない見立てではないのかも知れません。

それにしても、地形的には極楽寺川の小さな谷戸の奥に当たり、周辺地を含めてもこの様な狭い地域に49もの堂が並んでいたというのであれば、谷戸の斜面にも多数堂が建っていたということになるのでしょう。「新編相模国風土記稿」の「極楽寺」の項では、「極樂寺中古繪圖」「極樂寺古繪圖」の2種類の境内図が掲載され、特に後者は周辺の谷戸に建ち並ぶ多数の堂の配置が描かれています。もっとも、江戸時代までには鎌倉の衰退と歩を合わせて極楽寺も縮小せざるを得なかった様で、残っているのが「吉祥院」のみであると「風土記稿」には記されています。

江島道:極楽寺前の導地蔵堂
極楽寺前の導地蔵堂
江島道:江ノ電は極楽洞で由比ヶ浜方面へ向かう
江ノ電は極楽洞で由比ヶ浜方面へ向かう
極楽寺駅を出た江ノ電は、その先で「極楽洞」と銘打たれたトンネルで由比ヶ浜方面へと向かいます。極楽寺の山門へは江ノ電の上を渡る橋を経由しますが、その傍らに地蔵堂があります。「見取絵図」でも地蔵堂が描かれ、その傍らに極楽寺村の高札が立っていたことがわかります。但し、極楽寺山門に向かう参道に架かる橋は極楽寺川を渡っている様に描かれており、その位置関係から考えるとあるいは地蔵堂の現在の位置は江ノ電の建設に伴って多少移動しているかも知れません。

この地蔵堂は「(みちびき)地蔵」と呼ばれ、「新編相模国風土記稿」に

◯地藏堂 一は運慶の作佛を安ず、極樂寺持、一は行基の作像を置く、極樂寺・成就院兩寺持、

と記されるうちの前者に該当します。

江島道見取絵図:坂下村付近
江島道見取絵図:坂下村付近


江島道:極楽寺坂は現在は成就院の手前から下る
極楽寺坂は現在は
成就院の手前から下る
江島道:成就院山門から本堂を見る
成就院山門から本堂を見る
新編鎌倉志:極楽寺図
新編鎌倉志:極楽寺図(雄山閣版より)
成就院は切通沿いではなく、
極楽寺の境内の隣に描かれている
江島道の方はここで極楽寺川を離れ、成就院前の極楽寺切通へと向かいます。この切通については「新編鎌倉志」には

切通 極樂寺の前の道、由井の濱の方へ出る切通なり。忍性菩薩、切開かれしと云ふ。【太平記】に、新田義貞の大將大館次郎宗氏、十萬餘騎にて、極樂寺の切通より向ふとあるは此所也。南の方は稻村崎なり。下に詳なり。

(上記同書より)

と、極楽寺の開山である忍性が切り開いたとする言い伝えを載せています。いわゆる「鎌倉七口」のひとつですが、切り開かれたのは他の切通よりは時代が下る様です。

他方、「新編鎌倉志」に成就院については独立した記述がありません。「新編相模国風土記稿」に

◯成就院 普明山法立寺と號す、古義眞言宗手廣村靑蓮寺末、北條泰時開基すと云ふ、…當寺元弘の亂に寺地を蹂踐せられ、西谷に遁れて星霜を送りけるが元祿年中現住祐尊が時舊地に還住し再興せり、故に祐尊を中興とす元祿十四年十月十一日寂す本尊不動を置く、

(上記同書より、…は中略)

とある通り、成就院は元々現在の位置にあったものの、元弘の乱の際に焼失し、江戸時代初期には右の「極楽寺図」中にある様に、極楽寺の境内の近の「西の谷」に移されていました。その後元禄年間に元の場所である切通の傍らに移されたのです。元の成就院の位置の後背には仏法寺という極楽寺の末寺の跡があり、成就院も元は極楽寺の境内に含まれていたということになりそうです。

「見取絵図」ではこの切通を「朝比奈切通」と記しています(何故か東京美術版の解説でもこの点については何ら触れておらず、そのまま「朝比奈切通」の名称を用いています)が、「極楽寺切通」をこの名称で記載しているのは他に例がなく、誤記と考えて良いでしょう。

問題は、「見取絵図」中に描かれた成就院と切通の位置関係です。その山門前の切通の描き方を良く見ると、山門前からは石段を数段下って切通に下りられる上に、由比ヶ浜方向に進むと切通と同じ平面で繋がっています。つまり、極楽寺切通の頂上は成就院の敷地の由比ヶ浜寄りにあったことになります。しかし、現在の極楽寺切通の頂上はむしろ極楽寺寄りにあり、成就院の極楽寺側の階段より手前から由比ヶ浜に向けて下っています。そして、山門前から直接切通に降りることは到底不可能な程の高低差があります。現在の地形図で確認すると、成就院境内と切通の山門前との標高差は15m程度にも及んでいます。

江島道:成就院の階段上から由比ヶ浜を見遣る
成就院の階段上から由比ヶ浜を見遣る
江島道:成就院の由比ヶ浜側の参道と極楽寺坂
成就院の由比ヶ浜側の参道と極楽寺坂
極楽寺切通が最終的にこの様な形になるまでに、明治時代以降何度改修が行われているのかははっきり掴めませんでしたが、そのうちの1つが関東大震災による大崩落の復旧工事であったことは確かです。当時の被害状況について、鎌倉町がまとめた「鎌倉震災誌」には次の様に記されています。
  • 坂の下(97ページ):

    極樂寺坂は北側懸崖より虛空藏堂の山にかけて大崩潰をなし、縣道は八尺乃至十八尺の深さに埋沒し、全く交通を遮斷した。

    靈山より稻村ヶ崎突端に至る山崖も大崩潰をなし、土石山脚の海を埋めて岬角まで徒渉に適することゝなり、山上に幅五六尺もある大龜裂を生じた。

  • 極樂寺(98ページ):
  • 極樂寺坂は大崩壊して人馬を通ぜず、罹災上救護上多大の困難を感じたが、成就院より靈山に通ずる小徑及電車専用トンネルを利用して辛くも連絡を保つた。

(「鎌倉震災誌」鎌倉町編、1930年より)

従って、現在の極楽寺切通の姿はこの改修後のもので、江戸時代、あるいはそれ以前の姿とは大分異なっていることは確かです。成就院の山門の位置はかつての切通の標高を窺い知るヒントになりそうですが、「見取絵図」の通りならば特に由比ヶ浜からの上り坂はかなり急であった可能性が高そうです。もし明治時代にも切通の改修工事が行われていたのであれば、それは人力車等の車両のために坂の傾斜を緩めるためのものであったと推測できますが、裏付けは出来ませんでした。今回は叶いませんでしたが、もし江戸時代や明治時代の極楽寺切通の絵図などが他にあるのであれば、それらとも比較してみたいところです。

因みに、「風土記稿」では

◯極樂寺坂 坂之下村堺にあり登三十間餘、幅四間、

(上記同書より)

と記しており、意外に幅の広い(約7.2m)切通しであったことを記しています。もっとも、極楽寺村や坂下村の江島道は何れも「幅二間」と記されているので、何故切通の方が広い道幅になっているのか、疑問も残ります。


現在はこの成就院に上がる階段の上からは由比ヶ浜が良く見渡せます。また、この階段の周囲には紫陽花が多数植えられ、花期には多数の参拝者を集めています。

江島道:虚空蔵堂と極楽寺切通
虚空蔵堂と極楽寺切通
江島道:虚空蔵堂から星月井を見下ろす
虚空蔵堂から星月井を見下ろす

日限六地蔵尊(ストリートビュー
「見取絵図」では極楽寺切通の頂上付近に極楽寺村と坂下村の境があったことが示され、そこから下った辺りからが坂下村の集落であったことが描かれています。この村は民戸98件、由比ヶ浜で漁撈を主に営んでいました。

絵図では更にその入口辺りに「地蔵」(現在の「日限六地蔵」と考えられる)、その上に「虚空蔵」、そしてその隣に坂下村の高札を挟んで「星月夜井」が記されていますが、これらはほぼ現在の位置関係に呼応すると考えて良さそうです。また「星月夜井」の奥には別途「星月寺」の存在が描かれています。

「星月夜井」と「虚空蔵」について、再び「新編鎌倉志」では

◯星月夜井附虛空藏堂 星月夜(ホシヅキヨノ)井は、極樂寺の切通へ上る坂の下、右の方にあり。里老云、昔は此井の中に、晝も星の影見ゆる故に名く。此邊の奴婢、此井を汲に來り、誤て菜刀を井中へ落したり。爾しより來星影不見と。又此井の西に、虛空藏堂あり。星月山星井寺(セイゲツサンセイセイジ)と號す。極樂寺村の、成就院の持分なり。成就院は、眞言宗。虛空藏は、行基作、長二尺五寸。

(上記同書より)

とあり、元々この虚空蔵堂が成就院の管理下にあったこと、また虚空蔵堂自体が「星井寺」と呼ばれていたことが記されています。「新編相模国風土記稿」の記述もほぼ同一で、

◯虛空藏堂 明鏡山【鎌倉志】には星月山に作る星井寺と號す、極樂寺村成就院持なり、本尊は行基の作像なり木佛立像長三尺、

(上記同書より)

等と記されています。「見取絵図」の成立は「新編鎌倉志」と「新編相模国風土記稿」の間に来ますから、「見取絵図」にある様な「虚空蔵堂」と「星月寺」が別に存在したという時代があったとは考え難く、2つの名称が同一の堂を指していることを見落としたことによる誤記の可能性もありそうです。その割に「星月寺」の境内社として「稲荷」が記されているのも奇妙ですが…。

江島道:五霊社参道入口の石碑と江島道
五霊社参道入口の石碑と江島道
「はせくわん音への道」と記されている
その隣には、江島道から参道を経て「五霊宮」に通じていたことが「見取絵図」に描かれています。「風土記稿」は

◯御靈社 鎌倉權五郎景政が靈を祀ると云ふ、土人は五靈社と唱ふ

(卷之九十六 鎌倉郡卷之二十八 坂之下村の項、上記同書より)

と、本来の名称は「御霊社」であることを記していますが、「見取絵図」は俗称の方を採用した様です。元々祭神が鎌倉権五郎の他計5氏であった所から「五霊」であったものが転化して「御霊」となり、祭神の方は鎌倉氏に統合されていったということの様です。現在も「権五郎神社」の通称が残っています。

現在は参道入口の「力餅家」の前に石碑が1体あります。正面には「五靈社鎌倉權五郎景政」、向かって右側面には寛政3年(1791年)の年号と、この石碑を建立したのが「庚申講」であることが刻まれ、左側面には「はせくわん音への道」と記されています。江島道と神社の道標を兼ねていることから、この石碑は元からこの位置にあった可能性が高そうです。この角の「力餅家」も元禄年間に創業したとのことですから、「見取絵図」に描かれている角の家がここに該当しそうです。

この石碑の年号は「見取絵図」製作開始の9年前に当たり、絵図製作の頃には存在していたことは明らかです。しかし、その「見取絵図」では「五霊宮」への参道入口に立っている石碑1体に「道印石」と記しています。「五靈社鎌倉權五郎景政」の石碑がいわゆる「江の島道印石」とは違うものであることは確かですが、「見取絵図」の「道印石」は果たしてこの石碑を指し示していたのか、それともこの石碑とは別に「江の島道印石」があったのかは不明です。

もし「見取絵図」上「道印石」と記されている箇所にあった石碑が必ずしも「江の島道印石」ではなかったのだとすると、残りの「道印石」についても同じ様に考えなければならなくなるので、これはなかなか厄介です。48箇所に設置されていたという「江の島道印石」の所在を考える上では、「見取絵図」は有力な手掛かりになる筈なのですが、実際の所はどうなのでしょうか。

次回は下馬のゴールに到達…出来る筈です(汗)。



追記(2016/01/09):ストリートビューを貼り直しました。

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