【江島道】「見取絵図」に沿って(その11:稲村ヶ崎から日蓮袈裟掛松まで)

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

さて、新年早々「通常営業」で行きますw。前回まで2回にわたって七里ヶ浜を見てきました。今回はその先に向かいますが、その前に稲村ヶ崎に立ち寄ります。

江島道見取絵図:稲村ヶ崎付近
江島道見取絵図:稲村ヶ崎付近



稲村ヶ崎付近の地形図の変遷
(「今昔マップ」)
現在の国道134号線は、稲村ヶ崎の尾根を切通で突っ切って由比ヶ浜の埋立地の上へと出ます。この区間の変遷は「今昔マップ」を見るのが早いでしょう。「1965~1968年」の地図に切り替えると、それまでの地図になかった埋立地と「湘南有料道路」の姿が現れます。この道路が建設された際に、この稲村ヶ崎の新しい切通が出来たということです。

それまではこの尾根の麓を流れる極楽寺川の作る谷戸に沿って奥へ進み、その先で狭隘な極楽寺切通を抜けるルートしかありませんでした。地形図を検討すると、沿岸にも拘らずこの尾根は標高が平均的に50m以上に達し、成就院の裏の三角点には標高82mと記されており、更にその下の沿岸には崖記号が連なっていますから、ここを海沿いに行くのは無理だったことが窺えます。

江島道:稲村ヶ崎の七里ヶ浜寄りには多少砂も溜まっている
稲村ヶ崎の七里ヶ浜寄りには多少砂も溜まっている
江島道:稲村ヶ崎の由比ヶ浜寄りは断崖を直接波が洗う
由比ヶ浜寄りは断崖を直接波が洗う
この稲村ヶ崎は、新田義貞の鎌倉攻めの際に金太刀を海中に投じたところ潮が引いたという「太平記」に書かれた伝説が有名です。「新編鎌倉志」でも「太平記」などを引いてこの様に紹介しています。

◯稻村附稻村崎横手原 稻村(イナムラ)は、極樂寺の南なり。海道の東方に、稻を積たる如の山あり。故に稻村と名く。昔源滿兼の合弟滿直、此村に居す。故に稻村殿と云。又里見義豐をも稻村殿と稱す。是は房州の稻村なり。南の海濱を稻村崎と云。【東鑑】に、建久二年九月廿一日、賴朝卿、海濱を歷覽し給ん爲に、稻村崎の邊に出御、小笠懸の勝負ありと有。此海邊を横手原と云。【太平記】に、新田義貞、廿一日の夜半に、此處へ打蒞み、明行月に、敵の陣を見給へは、北は切通極樂寺也まで、山高く路嶮に、木戸を構へ、垣楯(カヒダテ)を掻て、數萬の兵陣を雙べて並居たり。南は稻村崎まで、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木をしげく引懸て、澳四五町が程に、大船共を並べて矢倉をかき、横矢射させんと構へたり。誠にも比陣の寄手、叶はで引ぬらんも理り也と見給へば、義貞馬より下給ひ、海上を遙々と伏拜み、龍神に向て祈誓し給ひければ、其夜の月の入方に、前々更に干る事もなかりける稻村崎、俄に二十餘町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構たる數十の兵船も、落行潮にさそはれて、遙の澳に漂へりと有は此所なり。故に横手原とは名るなり。

(卷之六 雄山閣版より)

江島道:稲村ヶ崎に出来た橋の様な岩
稲村ヶ崎に出来た橋の様な岩
しかし、この「太平記」の記述については、当時の潮の干満と結び付けて史実と考える意見もある一方で疑問を呈する意見も少なくなく、評価は割れている様です。現在は埋立地が出来た関係で、この崖下の海を行く困難さが今ひとつわかり難くなっています。今は七里ヶ浜側には多少砂が溜まっており、それ程の水深ではないことが見て取れるものの、これが埋立地造成前はどうであったかは定かではありません。ただ、崖下に転がる大きな岩や、橋の様になった岩は、この崖が浸食されやすく、この崖を洗う潮も流れが速いことを窺わせ、それだけ通行を試みれば流される危険が大きいことがわかります。少なくとも、沿岸の通行を常時試みることが出来る様な地形ではなかったことは確かな様です。

ファイル:19 - The Seven Ri Beach.jpg - Wikipedia
歌川広重「富士三十六景」より
「相模七里ヶ濱」(再掲)
Wikipediaより)
「見取絵図」では稲村ヶ崎の下の海岸を袖師ヶ浦と記していますが、一般的には単に「袖ヶ浦」と呼ぶことの方が多かった様です。同じく「新編鎌倉志」では

◯袖浦 袖浦(ソデノウラ)は、稻村崎の海濱、形袖の如し。故に袖の浦と云ふ。順德帝の御製に、「袖の浦の花の浪にも知さりき、いかなる秋の色に戀つゝ」。定家の歌に、「袖の浦にたまらぬ玉の碎つゝ、よりても遠くかへる波哉」。西行が歌に、「しきなみに獨やねなん袖の浦、さはく湊による舟もなし」。鴨長明が歌に、「浮身をば恨て袖をぬらすと身も。さしもや浪に心碎ん」。

(上記同書より)

と、和歌に詠まれる地であったことを紹介しています。この「袖ヶ浦」の名称に、腰越の「袂浦」という名称が対応している訳ですが、江戸時代にはここに敢えて立ち寄って風景を堪能しようという旅人は少なかった様です。ただ、歌川広重の「相模七里ヶ濱」はどうもこの稲村ヶ崎から眺めたのではないかと思える構図で、或いは彼は敢えてここに登ってみたのかも知れません。

江島道:稲村ガ崎公園の木立の間から江の島を望む
稲村ガ崎公園の木立の間から
江の島を望む
江島道:稲村ガ崎公園の上から七里ヶ浜を見下ろす
稲村ガ崎公園の上から
七里ヶ浜を見下ろす
江島道:稲村ガ崎公園のローベルト・コッホ記念碑
稲村ガ崎公園の
ローベルト・コッホ記念碑
今はここに公園が設けられたので、気軽に上がって眺望を楽しむことが可能です。

因みにこの公園内に細菌学者ローベルト・コッホの記念碑が建てられていますが、明治41年(1911年)コッホの来日時に登ったのはここではなく、もっと標高の高い「霊仙山」の方です。当時は稲村ヶ崎にはまだ展望施設などは設けられていなかったかも知れません。記念碑も元はそちらに建てられていたのですが、地盤が脆弱であるためにこの公園内に移設されてきたとのことです。

江島道:稲村ヶ崎駅入口交差点を山側から見る
稲村ヶ崎駅入口交差点を
山側から見る
「稲村ヶ崎駅入口」交差点からは内陸へと向かう道筋になります。鎌倉川からここまで来た場合は、ここで再び海岸に出ることになりますが、今ほど建物がなかった江戸時代にはもう少し手前から海が見えていたかも知れません。前回引用したラフカディオ・ハーンの「江ノ島行脚」では「やがて、道はきゅうに右折して、」と表現されていましたが、それはまさしくこの交差点での風景だった訳ですね。

江島道:稲村ヶ崎の庚申供養塔
稲村ヶ崎駅入口の庚申供養塔

庚申供養塔の位置
「見取絵図」ではその地点に「庚申」があったことが描かれていますが、この交差点の周辺には庚申塔は現存しません。しかし、少し進んだ所には道端に庚申供養塔が置かれており、その側面には「かまくらミち」と刻まれています。一見するとかつて「見取絵図」に描かれていた場所にあった様に思えてしまいますが、背面の日付には「明治十二年」とあることから該当しないことがわかります。もっとも、明らかに道標を兼ねていること、「見取絵図」の「庚申」の位置も道標として置かれていたとしてもおかしくない場所であることを考えると、あるいは「見取絵図」の庚申が何らかの理由で撤去された後に、その後継としてこの明治の庚申供養塔が置かれたのかも知れません。

江島道:新田十一人塚墓碑
新田十一人塚墓碑
江島道:新田十一人塚の出土人骨埋葬墓
近辺で出土した鎌倉時代の
人骨がこの下に埋葬されている
その先には「新田十一人塚」と称する石碑があったことが「見取絵図」に描かれています。これも「新編鎌倉志」によれば

◯十一人塚 十一人塚(ジフイチニンヅカ)は、稻村より七里濱へゆく道の左にあり。里民傳へて、昔し新田義貞の勇士十一人、此所にて討死したりしを、塚につきこめ、上に十一面觀音堂を立たる跡なりと云ふ。義貞の勇士十一人、未考也。昔より此濱邊は戰場なれば、いづれの人をか云傳へたる。不審。

(上記同書より)

と、その意義に疑念を表明しています。他方、現在この地に建てられている墓碑には「大館又次郎源宗氏」の名が刻まれていますが、この墓碑は後世に建てられたものの様です。設置年を確認し損ねましたので、「見取絵図」に描かれているものと同一であるかはわかりませんが、恐らく当時も同様の墓碑が祀られていたのでしょう。


新田十一人塚の位置と周辺の空中写真
何れにせよ、江戸時代にはこの塚を過ぎると家並みが途絶えることが窺えます。「迅速測図」では極楽寺川の周辺に一部水田があった以外は基本的に畑であり、周囲の山は松林になっていたことがわかります。現在はこれらの耕地は大半が宅地へと転換され、松林も宅地になった以外は広葉樹を主体とした林に変わっていることが空中写真からも窺えます。

江島道:稲村ヶ崎駅付近で一度江ノ電と交差する
稲村ヶ崎駅付近で
一度江ノ電と交差する
江島道:稲村ヶ崎の崖下に残る井戸
稲村ヶ崎の崖下に残る井戸
江ノ電は明治37年(1904年)に追揚〜極楽寺間を開業させますが、ここで江島道とは2回交差します。最初の踏切を越えると江島道は崖下に沿って進む道になります。電車が曲がりやすいカーブを確保するには、ここで崖下ぎりぎりを通すのが難しかったということでしょうか。

「新編相模国風土記稿」では極楽寺村を通る江島道の幅が2間であったことを記していますが、現在の道幅はそれよりも幾らか拡幅されています。右の写真の崖の下の井戸は側溝に掛かる様にして残っていますが、その後の道路の拡幅の際にどちら側に拡がったのか、こうした遺構も手掛かりになり得ます。この位置関係であれば崖と反対側に拡がった可能性が高そうです。

江島道:日蓮袈裟掛松の題目石
日蓮袈裟掛松の題目石
江島道:再び江ノ電と交差する
再び江ノ電と交差する
江島道:踏切脇の日實法師碑
踏切脇の日實法師碑
その先で崖の下に日蓮袈裟掛松の題目石が3体並んでいます。「見取絵図」でも同じ場所に「日蓮袈裟掛松」と「題目石」が描かれています。「新編鎌倉志」では

◯日蓮袈裟掛松 日蓮袈裟掛松は、音無瀧の少し南なり。海道より北にある一株の松なり。枝葉たれたり。日蓮、龍口にて難に遭し時、袈裟を此松に掛られたりと云傳ふ。

(上記同書より)

現在は松はなくなってしまっていますが、3体の題目石のうち最も古そうな右側の1体は恐らく「見取絵図」の書かれた頃からあったものでしょう(年代を確認できず)。

一方、「見取絵図」の袈裟掛松の向かいに家が2軒ほど描かれています。うち1つは小振りなものですから或いは祠の類かも知れません。題目石の少し先に再び江ノ電の踏切があり、その傍らに袈裟掛け松を守っていたという日実法師の比較的新しい碑が設置されていますが、「見取絵図」に描かれている家はここだけですから、恐らくこれが日実法師が住んだ家ということになるのでしょう。

江島道:しばらく江ノ電と並行する
しばらく江ノ電と並行する
江島道と江ノ電はこの踏切からしばらくの間並行して進みます。併用区間ではないものの、道路とほぼ同じ高さに江ノ電の敷地が隣接していてフェンスなどが一切ないため、ここは江ノ電の撮影ポイントの1つになっています。

次回は極楽寺付近から先に進みます。




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↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

- 薄荷脳70 - 2014年01月02日 07:06:13

おめでとうございます。
昨年はお立ち寄り、並びにコメントをいただき大変ありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。

- kanageohis1964 - 2014年01月02日 08:08:13

あけましておめでとうございます。こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。

- kame-naoki - 2014年01月02日 13:14:26

明けましておめでとうございます。

残されている資料(史料)から現地を訪れ、復元するということは考古学にも似ているように思います。本年もよろしくお願いします。

- kanageohis1964 - 2014年01月02日 13:21:25

あけましておめでとうございます。コメントありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。

そうですね、「昔を復元する」という作業の素材が文書であったり、遺跡であったり、時には地形や地質などであったり…ということなのでしょうね。

- YUMI - 2014年01月03日 09:25:23

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

昨年もご訪問、コメントありがとうございました。
地元の歴史でも知らないことばかりです。
今年も楽しみにしております。

- kanageohis1964 - 2014年01月03日 09:29:47

あけましておめでとうございます。コメントありがとうございました。今年もよろしくお願いします。

今年も、地元の歴史であまり気付かれていないものを掘り起こして行ければと思います。

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