【江島道】「見取絵図」に沿って(その7:龍口寺道印石から江の島対岸まで)


江島道見取絵図のルート(再掲)
前回は常立寺の前まで来ました。江の島まではあと少しという所まで来ていますが、「江島道見取絵図」上ではこれでもまだ半分にも達していません。ともあれ、今回はようやく江の島の対岸に向かいます。


江島道見取絵図:龍口寺道印石付近
江島道見取絵図:龍口寺道印石付近


江島道:龍口寺道印石と江島道
龍口寺道印石と江島道
龍口寺道印石の位置
江島道:龍口寺方面への道
龍口寺方面への道
湘南モノレールの駅が覆い被さる
常立寺の門前から80m程歩くと、そこで道がふた手に分かれます。現在はその三叉路の角に道印石が1体置かれています。この道印石は他のものとは異なり、「左龍口道」「従是江嶋道」と刻まれています。また、別の面には「願主 江戸糀町」と刻まれており、杉山検校が設置したものとは異なること、江の島弁財天を信奉する講中が江戸にも存在していたことが窺えます。設置は江戸時代中期と推定されています。

「見取絵図」と比較すると、この道印石は龍口寺への道の向かって左脇に置かれており、三叉路の角には題目石が置かれていたことになりますが、この題目石の方は該当するものが周囲に見当たりませんでした。龍口寺も、あるいは常立寺や本蓮寺も何れも日蓮宗の寺院ですから、周辺にも関連するものが多かった訳です。

最初の記事ではここから右手に行く道を「見取絵図」に描かれている道としてしまった訳ですが、こうして逐次的に追ってみればやはり左の道と解すべきでしたね。現在は江ノ電の江ノ島駅から江の島や龍口寺へ向かう方が主な人の流れになってしまっているため、この道を通るのは地元の人が殆どになっています。当時の道中記の中には

一舟渡より半道程ニて、右ハ江ノ島道左リハ龍口寺道江入 二丁程二而

一龍口寺門前町屋多し

…(中略)…

一後ノ石雁木ヲ登り七面堂

一又右ノ方山上江登り見晴し絶景、眼下江之島・大山・箱根・富士・伊豆ノ山々・大島等遙ニ見ル、遠眼鏡アリ

一江ノ島

一鳥居両側町やアリ右岩本院左り下ノ坊

(「江ノ島参詣之記書写」弘化4年(1847年)著者不明、「藤沢市史料集 31」より、強調はブログ主)

と、この道を経て先に龍口寺に立ち寄り、山上にある七面堂に登って周囲の眺望を楽しんでから江の島へと向かった旅人もいた様です。鎌倉方面から江の島に向かってきた場合には、逆に江の島から龍口寺を経て、その後にこの道を通って藤沢宿へと向かう旅人もいた筈です。

「遠眼鏡」がわざわざ用意されていたということは、そういう目的で龍口寺に立ち寄る参拝客が多いことを寺の側も心得ていたということでしょう。歌川広重の「東海道之内江之嶋路片瀬自七面山見浜辺」(天保5年・1834年頃、リンク先は「電子博物館 みゆネットふじさわ」内のページ)という浮世絵でも、この龍口寺境内の山上からの眺めが題材になっています。

江の島方面に向かう道は現在は相応に広くなっていますが、「新編相模国風土記稿」や「皇国地誌」では片瀬村内の江島道は幅2間と記されており、基本的にはもっと狭い道であった様です。但し、片瀬村の中心街からは人通りも多かったと考えられるので、当時も2間よりもう少し道幅が広かったかも知れません。

江島道:洲鼻通りの「津波注意」標識
「洲鼻通り」電柱の「津波注意」標識
江の島へと向かう道は、現在は江ノ電の踏切を越えた辺りから「洲鼻通り」と呼ばれています。片瀬川の西岸沿いを海に向けて進むこの道は、途中でもうひと山越える道筋になっています。その頂上付近の電柱に取り付けられた「津波注意」の標識には、海抜高度6m少々と記されています。

腰越・国道467号の坂上から龍口寺山門前の江ノ電
国道467号の坂上から
龍口寺山門前の江ノ電(再掲)

洲鼻付近の過去の地形図
(「今昔マップ on the web」)
しかしこの道は、片瀬川に沿って伸びた砂丘の頂上を進んでいる訳ではなく、その中腹辺りに付けられた道筋になっています。実際、迅速測図やその後の地形図を見ても、この砂丘の頂上は洲鼻通りよりも東寄りにあることがわかります。「見取絵図」の描き方では、この砂丘の頂上を廻り込む様にして道が付いていた様にも見えます。

現在はこの砂丘の頂上付近を国道467号線が通っています。以前掲載した龍口寺前の江ノ電の写真は、この坂の上から撮影したものです。

江島道見取絵図:大筒稽古場定杭付近
江島道見取絵図:大筒稽古場定杭付近


江島道:「スバナ会館」前の道印石
「スバナ会館」前の道印石
この「洲鼻通り」の途中、「スバナ会館」前に道印石が1体保存されています。この道印石の背後に立てられたガイドには、

この道標は平成十年一月、ここより一七〇メートル南の州鼻通りの地下から道路工事中発見されたものである。

と記されています。これに従って地図上で距離を測ってみると、石政旅館の前辺りから掘り出されたことになります。別の場所の道印石をわざわざ運んできて道路に埋めるというのは不自然ですから、元々立っていた場所もその近くと考えて良いでしょう。「見取絵図」にはこの付近の道印石が2体描かれていますが、この位置で埋められたのであれば恐らくは常夜燈と並んで描かれている方に該当しそうです。


道印石が埋まっていた辺り
「見取絵図」の茶屋付近か
明治時代に入って江戸時代の主要な道路沿いの道標類は撤去するように政府から通達があり、それに従って多くの道標がなくなってしまいました。埋められていた道印石も、あるいはそんな状況の中で不要と見做されたために、道路の地盤改良に転用されて埋められてしまったのではないかと、個人的には考えています。頭部が欠けているのは、地中で長らく轍の震動を加えられているうちに割れてしまったのか、それともそれ以前から欠けていたものかは不明です。

江島道見取絵図:鉄炮臺の表記
江島道見取絵図:「鉄炮臺」の表記
さて、ここで問題になるのが、「見取絵図」上でこの道印石や常夜燈と共に描かれている「大筒稽古場定杭」です。この「大筒稽古場」とは一体何でしょうか。これについては「江島道見取絵図」東京美術版の解説書でも何も触れられておらず、解説図上に記されているのみになっています。他にこの「定杭」について解説されているものも見掛けません。

この「定杭」からもう少し先まで「見取絵図」を見て行くと、道の傍らの砂丘と思われる丘の上に「鉄砲台」と書かれているのに気付きます。「(その4)」や「(その6)」で付近の海岸沿いの砂丘地帯を幕府が大筒稽古場として指定していたことを紹介しましたが、この片瀬村の江の島の対岸の砂丘の上も鉄砲の稽古場になっていたのです。「新編相模国風土記稿」の片瀬村の項に

享保十三年、訓練の事始りし頃は、當村の海濱にて平場の訓練もありしが、今は高座郡の閑地にて、平撃の訓練あり、

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七、雄山閣版より)

とあったのは、この地のことを指しているのでしょう。この書き方では「風土記稿」の成立した天保の頃にはあまり利用されていなかった様にも読めますが、とは言え参拝客も多く集まるこの地に隣接してこの様なものがあったというのは意外です。

ではこの「定杭」はこの「鉄砲台」の存在を示しているものなのでしょうか。しかしそれでは「大筒稽古場」と書かれていることとの辻褄が合わなくなってきます。第一、この洲鼻の砂丘の上は南北数百メートル程度しかありません。当時の火縄銃の射程距離が大体200m程度と言われていますから、鉄砲の射撃訓練場としてなら何とかこの上で収まりそうですが、「(その4)」で引用した「玉匣両温泉略記」に記されていた通り、当時の大筒は小型のものでも射程距離は1kmを優に超えていましたから、こんな狭い地域内で大筒の射撃訓練場など到底収まりません。海上に向けて撃てば民家や寺社をヒットしなくて済みそうですが、目標になるものもなくただ撃つのでは訓練になりませんし、手前の砂浜は鎌倉方面から江の島に向かう参拝者の通り道ですから、その頭越しに撃つことになってしまいます。

となると、この「定杭」が示しているのは駒立山のそれか、もしくは片瀬川対岸の鵠沼村から西の海岸沿いの稽古場のこと、さもなくばその両方を指しているのかも知れません。しかし、そうなってくるとこの「定杭」は一体どうしてこんな、実際の稽古場から遠く離れた位置に立っているのかがわからなくなってきます。

今のところ、この「定杭」について記されているのはこの「見取絵図」しかなく、勿論この杭の現物も残っていませんので、残念ながらこれ以上は推測する以外にありませんが、あるいは幕府としては江の島や鎌倉への参拝者が数多く集まるこの地に敢えて「定杭」を設置することによって、危険を周知すると同時に示威的な効果をも期待したのかも知れません。


江島道:江の島を片瀬東浜より望む
江の島を片瀬東浜より望む
江島道:国道134号地下道の浮世絵パネル
国道134号地下道の浮世絵パネル
歌川広重「相州江之嶋之図」
ともあれ、「見取絵図」上ではこの「定杭」から先には建物が一切描かれていません。またこの辺りから海側の輪郭が幾らかぼかして描かれており、当時はこの辺りから砂浜との境が曖昧になっていたのではないかと思えます。

江の島に参詣するのであれば、当然ここで砂浜に下りて海に向かうことになります。「江島道」の本来の終点もこの地であったと言って良いでしょう。しかし、「江島道見取絵図」ではここから砂浜沿いに西へと向かう道が描かれているらしいことは以前の記事で指摘しました。その詳しい検討は次回に廻します。

ここではその位置関係が比較的良く現れているのではないかと思える浮世絵を、国道134号線の下を潜って江の島に向かう地下道に設置されているパネルの写真でご紹介します。これは歌川広重の「相州江之嶋之図」(推定:天保11〜13年頃)で、潮が干いて陸続きになった江の島に渡る参拝者を遠景に、西方に向かう様に左側に描かれた道の上に旅姿の女性3人と稚児が1人という景色になっています。もっとも、足下の小川の描写などを見ると広重が当時の実景をどの程度反映させていると考えられるかは、慎重に扱わないといけない面もあると思います。その他、この「電子博物館 みゆネットふじさわ」には江の島を描いた浮世絵などの絵画作品が多数収録されていますので、これらを見比べながら当時の様子を思い描いてみるのも良いと思います。

江の島は離島と本土の間が砂嘴で繋がった典型的な「陸繋島」で、潮が引いている時間帯であれば歩いて渡ることが出来たことが、数多くの文献に出て来ます。特に、「新編鎌倉志」が「吾妻鏡」を引用して昔はそれほど頻繁に起きる現象ではなかったとする指摘は、その後の数多くの著述に影響を与えています。また、道中記・紀行文でも、その時々の潮の様子で徒歩で渡ったり舟で渡ったり肩車で渡してもらったり、更には波の高さに江の島へ渡るのを断念したりと様々な様子が記されています。中には完全に潮が引かなくても着物が濡れるのも構わず江の島まで歩いて渡ってしまう高山彦九郎の様な人もいた様です。
  • 「新編鎌倉志」(卷之六):

    ◯江島 …陸より島の入口まで、十一丁四十間許あり。島の入口より龍穴まで、十四町程あり。潮の干たる時は徒歩にても渡る。潮盈たる時は、六七町の間、船にて渡す。【東鑑】に、建保四年正月十五日、江島の明神託宣あり。大海忽ち道路に變ず。仍て參詣の人、船の煩ひなからんと、鎌倉中緇素羣をなす。誠に以て末代希有の神變なり。三浦左衞門尉義村御使として、彼の靈地に參とあり。昔は潮の干事は希也と見へたり。

  • 「新編相模国風土記稿」(卷之百六 鎌倉郡卷之三十八):

    ◯江島 …彼村落より島口迄十一丁四十間許退潮の頃は徒行して到る【名所方角抄】にも汐干は徒歩にて通ふなり云々とあり潮盈れば船を用ひ【東国紀行】にも鹽滿つれば渡し舟坊より言付られておりたり云々とあり或は背負て渉れり此間一町餘あり里俗負越場と呼ぶ、昔は必船をもて往反せしと見え建保四年正月潮退て始て陸地に續きければ希代の神威なりとて參詣の僧俗舟の煩なく群參せしこと見へたり【東鑑】…(「新編鎌倉志」と同一箇所を引用している)…

  • 「伊勢参宮道中記全」宝暦10年(1760年) (下斗米惣七):

    江の嶋へハ天気悪ク潮道なきあしきゆへ不渡

  • 「上方道中記」明和4年(1767年) 鈴木重興:

    一腰越江 ニリ

    夫より江ノ嶋潮干ニ而かちニ参候 潮さし候節ハ舟賃高直之由

  • 「富士山紀行」安永9年(1790年) 高山彦九郎:

    (往路)片瀬村を過て海浜ニ至る、瀬浅ケレハ歩ニ而渡りけるニ膝をこす程ニて有ける、

    (復路)海を歩渡りしけり波高して大ニ衣服をぬらす、

  • 「三浦紀行」享和元年(1801年) 一鸛堂白英:

    (往路)江の島へ昼頃に着けり。…此度は潮漲り浪高くして、船も向ふの岸へは疾と着かず、中途にて船より上りぬ。

    (復路)是より戻りは肩車に乗りて片瀬へ渡る…

  • 「玉匣両温泉略記」天保10年(1839年) 原正興:

    海辺へ出て、波打際をゆくに、色いろの小貝、砂にまじりて(ある)を拾ひつゝ、五丁程ゆけば江嶋なり。むかしはこの嶋、はなれ嶋なりしとかや。いつのころよりか、みぎり左より砂打あげ、岡となりたれば、今はゆきゝのたよりよし。

(「新編鎌倉志」と「新編相模国風土記稿」は雄山閣版より、他は「藤沢市史料集 31」より)


現在は国道134号線が浜伝いに走っていますが、現在の国道467号線の一部になっている龍口寺前から腰越海岸までの区間と、国道134号線の腰越海岸から大磯までの区間は、昭和5年(1930年)に神奈川県が「湘南海岸道路」として開通させたものです。元は海岸線の眺望を当て込んだ観光道路でした。この道路が開通するまでは、江島道とここで交差する道はありませんでした。

次回からはこの江の島の前の浜を西に向かうことになります。




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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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