【江島道】「見取絵図」に沿って(その6:密蔵寺から常立寺まで)

前回は泉蔵寺前の庚申塔群をハーンが訪れていた可能性についての説明が長くなって、上諏訪神社までしか進めませんでした。今回はその先、密蔵寺から先に進みます。

江島道見取絵図:密蔵寺付近
江島道見取絵図:密蔵寺付近


江島道:宝盛山密蔵寺
宝盛山密蔵寺

密蔵寺の位置
ここまで取り上げている拠点が多いので距離感が掴み難くなってしまっていますが(汗)、泉蔵寺から密蔵寺までは300m少々、間の上諏訪神社からは80m少々と、それほど隔たっている訳ではありません。

「新編相模国風土記稿」では

◯密藏寺 寶盛山藥師院と號す本寺前に同じ(注:泉蔵寺が古義真言宗で手広村青蓮寺末寺であることを指す)開山は有辨徳治元年正月九日寂す中興は祐與天正五年十月六日寂すと云ふ、本尊は藥師なり、

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七 片瀨村の項より)

と記されており、由緒が鎌倉時代後期まで遡ることになります(現在の泉蔵寺は高野山真言宗、密蔵寺は真言宗大覚寺派に分かれています)。上諏訪神社の由緒も鎌倉時代以前とされていることと併せて、やはりこの道が中世以前から使用され続けた道と考えて良いのでしょうか。

江島道:密蔵寺前の道標(左側面)
密蔵寺前の道標(左側面)
江島道:密蔵寺前の道標(右側面)
密蔵寺前の道標(右側面)
道沿いの植え込みには、小さな道標が立っています。正面には「弘法大師道」、向かって右の側面には「向(?) 江之嶋道」、左側面には「密蔵寺 十丁半」「泉蔵寺 (写真からでは判読困難だが漢字1文字、漢数字の八あたりか)丁」と2つの寺までの距離が刻まれています。この道標に該当すると思われるものは「見取絵図」には見られませんが、道標背面を確認し漏らしたので設置された年代が不明で、「見取絵図」の頃にあったかどうかもわかりません。江島道沿いに置かれていたのは間違いないでしょうが、2つの距離から推察すると泉蔵寺の門前から藤沢寄りに戻ることになり、ミネベアの植え込みにあった庚申塔と馬喰橋の中間辺りに置いてあったことになりそうです。「見取絵図」ではその辺りに道印石が描かれていますから、あるいはその道印石と並べられていたのかも知れません。

江島道:密蔵寺の庚申塔
密蔵寺の庚申塔
江島道:密蔵寺の寛文10年の庚申塔
密蔵寺の庚申塔(寛文10年)
密蔵寺の山門の付近には複数の庚申が安置されているのですが、これが元来何処にあったものか、「見取絵図」に見られるものの中に照合出来るものがあるかどうかは不明です。

これまで取り上げてきた庚申塔や道印石などでも言える様に、石碑は一度その場所を動かしてしまうと、それほど遠く隔たった場所の石碑を移動して来ることはあまりないだろうとは言え、由緒がなかなか掴み難くなってしまいます。上記の道標の様に位置を具体的に推定できる情報が刻まれているものであれば、それを手掛かりに元の場所をある程度絞り込むことは可能ですが、その様な目的を備えていない石碑の場合はそれも叶いません。信仰の変遷や周辺の開発に伴って現地に留めるのが難しいケースが多々あり、已むを得ない面もあるとは思いますが…。

江島道:密蔵寺先の道印石と庚申塔
三叉路の角に道印石と庚申塔が並んでいる
江島道:密蔵寺先の道印石と庚申塔
道印石と庚申塔

道印石と庚申塔の位置
密蔵寺の門前から江島道を50m程南下した三叉路の角に、道印石と庚申塔が並べられています。「見取絵図」でも密蔵寺から江の島へ少し進んだ辺りの「野道」との分岐点に「庚申」が描かれており、あるいは同じ場所に位置付けることが出来るのかも知れません。道印石も近くから持ってきたものなのであれば、「見取絵図」で密蔵寺の山門の藤沢寄りに描かれているものと一致するのでしょうか。


江島道見取絵図:本蓮寺・常立寺付近
江島道見取絵図:本蓮寺・常立寺付近


江島道:本蓮寺前の参道
本蓮寺前の参道
江島道:本蓮寺山門
本蓮寺山門

本蓮寺の位置
密蔵寺からおよそ250mほど歩くと本蓮寺の参道入口に到達します。この区間では上諏訪神社から常立寺辺りが標高13m前後と比較的高く、そこから本蓮寺までは緩やかな下り坂になります。

前回紹介した通り、「見取絵図」ではこの本蓮寺の向かいに高札が立てられており、また周辺にも多数家屋が描かれていることから、この付近が江戸時代には片瀬村の中心地であったことが窺えます。「見取絵図」では本蓮寺の名称の傍らに「御朱印地」の表記が見られますが、「風土記稿」には「慶安二年八月寺領七石の御朱印を賜へり」と記されており、山門の向かって右側の葵紋の札にもその旨が刻まれています。

江島道見取絵図:辻堂大筒稽古場の表記
江島道見取絵図:辻堂村大筒稽古場
東海道分間延絵図:引地川右岸
東海道分間延絵図:引地川右岸(再掲)
ところで、「見取絵図」で「片瀬村」と大書されている場所の上方を見ると、「辻邑地内大筒稽古場」と記されていることに気付きます。江島道見取絵図の中ではこの稽古場への道は示されていませんが、「東海道分間延絵図」では羽鳥村の辺りに稽古場への道が描かれています。「新編相模国風土記稿」では
  • 辻堂村:

    南方海濱に炮術場の曠原あり、

  • 小和田村:

    當村にも海濱に炮術場あり、

  • 茅ヶ崎村:

    又南方の海濱に炮術場係れり、

(卷之六十 高座郡卷之二)

と記されており、「(その4)」で取り上げた片瀬村・鵠沼村も含め、複数の村にまたがるかなり広い地域が稽古場として使われていたことがわかります。周辺の村々には稽古の際に様々な役務が課され、しばしばその負担軽減を求めていたことが、地元に伝わる古文書の数々に記されています。長くなるので引用は遠慮しますが、「藤沢市史 第2巻」には、この経緯が1節を割いて年表とともにまとめられています(184ページ以降)。

「風土記稿」鵠沼村の項では「閑地」などという言葉が使われていたり、上記辻堂村の項では「曠原」などと表現されていたりしていますから、広大な未利用地と幕府に認識されていたということなのでしょうか。勿論沿岸では地引網など漁撈で生計を立てる住民もいたことが記されているのですが…。その点では「【旧東海道】その7 藤沢〜茅ヶ崎の砂丘と東海道」で取り上げた通り、一帯が砂丘地帯であったことが影響したと言えそうです。なお、明治時代以降もその一部は横須賀海軍の辻堂演習場として引き続き使用され、第二次大戦後は米軍に接収されていましたが、現在は住宅街や湘南工科大学などの学校、辻堂海浜公園などの公園、そして防砂林などに姿を変えています。

江島道:現在の西行戻り松
現在の西行戻り松
江島道:「西行のもどり松」と彫られた道印石
「西行のもどり松」と彫られた道印石
江島道沿いへと戻りましょう。「見取絵図」で確認出来る様に、本蓮寺前から幾らか江の島寄りに進んだ場所に、「西行戻り松」「西行見返松」などと呼ばれた松が植えられていました。西行の「もどり松」に関する言い伝えは各地にある様ですが、ここの松の場合は徳川光圀が編纂させた「新編鎌倉志」に

◯西行見返松 西行見返松(サイギヤウガミカヘリマツ)は、片瀬村へ行路邊の右にあり。枝葉西方へ指。西行此所に來て西の方を見返、此松の枝を都の方へねぢたりと也。故に戻松(子ヂマツ)とも云ふ。

(同書卷之六、雄山閣版より)

と記されており、これが後に江の島・鎌倉の観光案内書に多数引用されました。例えば「東海道名所図会」でも

西行顧松(さいぎょうみかえりのまつ) 片瀬村(かたせむら)へ行く路傍にあり。西行(さいぎょう)上人こゝに来たり、都の方を(みかえ)り、松枝(まつがえ)を西の方へ()じたまいしとて捩松(ねじまつ)ともいう。

(ぺりかん社版下巻186ページより)

と、「新編鎌倉志」を多分に参照していることが窺える文章になっています。そのためか、ここを経由した道中記・紀行文でもこの松について触れたものが比較的多数見つかります。あまり多くなると屋上屋を架すことになるので、ここでは3編に留めます。
  • 「相中紀行」寛政九年(1797年) 田良道子明甫:

    又、固瀬村に行ば路辺の左に西行見返りの松といふ有、其松の枝葉西を指す、伝へ云昔西行鎌倉に下りけるか仏のとまる所にあらすと云て帰りさまに松の枝を西京都の方へ戻れり、故に一名を戻松共いふと也

  • 「桜のかざし」寛政十二年(1800年) 遠山伯龍:

    片瀬村へ行 路傍に西行顧の松と云あり 西行法師こゝに来り都の方を顧り松枝を西の方へ捩給ひしとて捩松ともいふ

  • 「玉匣両温泉略記」天保10年(1839年) 原正興:

    西行の戻り松、又はひねり松とも、ふせ屋の軒端にさし出たる松也。さと人のいふ、「むかしのは枯て、後にうゑたるもの也」と。こゝも片瀬村のうち也。

(「藤沢市史料集 31」より)

「玉匣両温泉略記」以外は文面がどれも似たり寄ったりなのは、やはり「新編鎌倉志」の孫引きになっていることの証なのでしょうか。もっとも、当時はこうした引用は積極的に行われていたので、こうした孫引きがあちこちの書物に現れることは珍しいことではありませんでした。

「玉匣両温泉略記」が指摘している通り、当時から松が枯死すると新たに植え替えていた様です。現在はそこから数えて何代目に当たるのかはわかりませんが、本蓮寺の参道脇に新たな松が植えられて石碑が添えられています。また、「見取絵図」では明示こそありませんが松の絵の脇に道印石が描かれており、これは現在も「見取絵図」に描かれているのとほぼ同じ位置で、別の松の根本に立てられています。この道印石だけは他と異なり「西行のもどり松」とわざわざ彫られており、これも道行く人にこの松の存在を広く知らしめる一因となったのでしょう。

江島道:片瀬市民センター前の道印石
片瀬市民センター前の道印石

片瀬市民センター前の
道印石の位置(ストリートビュー
その「西行のもどり松」の道印石の斜向かい辺りに片瀬市民センターがあるのですが、その駐車スペース前の植え込みにも道印石が1体保存されています。ストリートビューでは上手い具合に道印石前の駐車スペースに車がなかったために道印石とガイドが見えていますが、停車している車の陰になっていたりすると見逃す可能性が高く、実際私も最初に訪れた時には気付き損ねて素通りしてしまいました。


これも元は何処に設置されていたものか不明です。「見取絵図」でもこの付近の道印石は上述の「西行のもどり松」や龍口寺への分岐路の辺りに描かれていますが、どちらも他とは違う特徴を持っているために該当する道印石が特定されており、市民センターの道印石は少なくともこれら2箇所よりも遠方から持って来られたことになりそうです。

江島道:常立寺山門
常立寺山門
江島道:常立寺の梅と鬼瓦
常立寺の梅と鬼瓦

常立寺の位置
片瀬市民センター前から80m程で常立寺の参道入口に到着します。この写真は遊行寺を撮った時と同じ日の撮影なのですが、常立寺も梅が見頃になっていました。

なお、「見取絵図」では常立寺の前に板橋があったことが記されているものの、これに該当する橋やその下を流れていた沢と思われるものは現存しません。

江島道:常立寺前の庚申塔
常立寺前の庚申塔
常立寺の参道の向かいには、庚申塔が1体保存されています。傍らには「寛文庚申供養塔」と題された平成21年付のガイドが添えられており、それには

この三猿像の下に銘文があります。「寛文願主」鈴木伊左衛門ら四名に続き、「天保十三寅歳六月造立」として飯森七左衛門ら九名が、さらにその下の基壇にも飯森権十郎ら五名の連名が刻まれています。各々世代は異なりますが、この塔の造立・維持に関わった片瀬の人たちで、庚申講のメンバーと考えられます。

年記のある部分は塔身と同じ一石から造られているので、天保十三年(一八四二)に造立されたように思われますが、この塔のように、頭部が三角形で、塔身の表面が凹状に区画され、背面が荒彫りで舟底型をした形状の庚申塔は十七世紀に多いタイプです。この塔は、寛文年間(一六六一〜七三)造立の塔が天保十三年に修理されたものと考えられています。世代を超えた信仰の篤さが感じられます。

と解説されています。しかし、「見取絵図」では常立寺前には庚申塔は描かれておらず、このガイドにも元は何処にあったものかが記されていません。あるいは高札場付近の「庚申」の祠と思しき建物に収められていたのかも知れませんが、塔身中央に髭題目が刻まれているので、もしかすると「題目石」と取り違えられていた可能性も否定出来ません。三猿がこれだけ大きく刻まれていればあまり取り違えられることも無かろうという気もするものの、これまで見てきた様に「見取絵図」の寺社等の記述には時として間違いが紛れ込んでいることがあるので、ここに関しても記述違いの可能性を完全には捨て切れないと思います。また、江島道から離れた場所に祀られていた可能性もあるのですが、何れにせよ今となっては殆ど検証する手段もありません。

勿論、寛政〜文化年間の「見取絵図」作成時点では、天保13年の修理を経る前の状態だった筈ですから、その時には現在見られるものとは違う姿をしていたのかも知れません。

今回は少し長くなってしまいました。江の島まではあと少しですが…続きは次回へ。




スポンサーサイト
  • にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
  • にほんブログ村 地域生活(街) 関東ブログ 神奈川県情報へ
  • にほんブログ村 アウトドアブログ 自然観察へ

↑「にほんブログ村」ランキングに参加中です。
ご関心のあるジャンルのリンクをどれか1つクリックしていただければ幸いです(1日1クリック分が反映します)。

blogramのブログランキング

↑ブログの内容を分析してカテゴライズするとの触れ込みでしたが…そちらはあまり期待通りになっていないですねぇ。
でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

この記事へのコメント

トラックバック

URL :