【江島道】「見取絵図」に沿って(その4:石上の渡しの先から巖不動尊入口まで)

前回は石上の渡しについて紹介する所まで来ました。今回は境川を渡ってその先へと向かいます。

江島道見取絵図:石上の渡しから片瀬村に入った辺り
江島道見取絵図:石上の渡しから片瀬村に入った辺り


江島道:石上の渡し付近の庚申
道標を兼ねた庚申

ミネベア前の庚申の位置
上山本橋を渡って少し先に行った辺りの、ミネベア藤沢工場の植え込みの中に庚申塔が1体祀られています。この位置は「見取絵図」に描かれている「庚申」と、多少の移動はあるにしてもほぼ対応していると考えていいと思います。


この付近から大鋸町へ抜ける道筋(推定)
庚申塔は既にかなり傷んでいて文字の判別の難しい所も出ていますが、享保15年(1730年)の日付が刻まれています。また両側には「従是左ふじさはみち」「従是右かまくらみち」と記され、江の島から来た旅人に向けた道標を兼ねていることがわかります。この道標が示す「かまくら道」は、「見取絵図」では「川名邑道法(みちのり)十八町」と記された道に相当します。この道が「(その1)」で紹介した、「新編相模国風土記稿」の記す「江ノ島道」また「鎌倉道」に当たります。同じく「(その1)」で引用した高山彦九郎の「富士山紀行」の際には既にこの庚申塔はあった筈ですから、あるいは彦九郎は雨降りしきる中この庚申に刻まれた「かまくらみち」の文字に気付いて右の道を選んだのかも知れません。

なお、この川名への道は、現在は付け替えられて山側に移動していますので、当時の道と位置的には同一ではありません。しかし、大筋ではそれに近い道を辿ることは出来ます。川名では鎌倉への道と合流しますが、この道は手広・笛田・常盤を経て長谷へと抜ける道でした。現在の神奈川県道32号線にほぼ相当します。

「見取絵図」では庚申塔の先に「道印石」があったことが示されていますが、これは現存しません。


江島道見取絵図:馬喰橋付近
江島道見取絵図:馬喰橋付近

江島道:馬喰橋
馬喰橋

現在の馬喰橋の位置
現在の道筋では、庚申塔の先で一旦境川沿いを進む道になり、その先で「馬喰橋(うまくらばし)」を渡ります。馬喰橋の下を流れる沢は、橋のすぐ傍らで片瀬川へと合流してしまいます。この位置関係は「迅速測図」で見ても同一です。

東海道分間延絵図:相模川旧橋脚付近
東海道分間延絵図より 下町屋村付近(再掲)
相模川の堤防の表現に注目
しかし、「見取絵図」を良く見ると、馬喰橋の下を流れる沢は境川に合流するまでにもう少し流れている様に描かれています。また、江島道自体も馬喰橋の前後では片瀬川から幾らか離れた位置に描かれ、片瀬川との間には標高差のある崖の表現が施されています。この崖は境川沿いに築かれていた「高6尺余」(「風土記稿」の片瀬村の項による)の堤防の表現とも考えられるものの、以前「旧相模川橋脚」の説明の際に使った「東海道分間延絵図」の下町屋付近の堤防の表現と比較しても、それよりは幾らか規模の大きな高低差を表現している様にも見受けられます。

そもそも、脇往還とは言え比較的通行量が多かった街道が、無頓着に川汀に沿って進むというのは、当時の街道の道取りの例を考えてもあまり一般的とは言えません。以前紹介した東海道の保土ヶ谷〜戸塚間の道筋の場合も大規模な治水工事とセットになっている可能性が高いことを指摘しましたが、この片瀬川の場合、堤防があったとは言え、脇を流れる川はそれよりは大きく、また感潮域であるために上流からの流れが滞留しやすい地域であることを考えると、この区間に江戸時代初期の普請と同様の発想による道取りを想定するのは難しい気がします。

もっとも、「見取絵図」と「迅速測図」の約80年間の間にこの付近の道が付け替えられたり、片瀬川の流路が変わって江島道と片瀬川が近接する様になったと考えられる様な動向を裏付ける史料も見つかりませんでした。他方で、「藤沢市史 第2巻」(近世資料編)には文化5年(1808年)の「馬鞍結橋建立発起帳」という史料が掲載され、

当村字馬鞍結橋と申候小川有リ、近き頃迄石之小橋ニて、洪水之節者片瀬川押上ヶ数日相湛往還留り、

(上記書154ページ)

と、片瀬川の増水の時には水が滞留して浸かってしまうすることが書かれていますので、この地点での片瀬川と江島道との標高差はそれ程ではなかったとも考えられ、その場合はやはり江戸時代を通じて現在と変わらぬ道筋であったと考える方が辻褄が合います。この場合、それでは「見取絵図」のこの表現をどう解釈すべきか、また何故もっと川沿いよりも高巻きする道筋が付けられなかったのか、という問題になってきます。

何れにせよ、他に手掛かりになりそうな史料がないか、更に漁ってみたいと考えています。


馬喰橋の上流側(ストリートビュー
この一角だけ緑地が残る
因みに、「藤沢市史料集 31」で馬喰橋付近の区間の様子がわかる記述が見当たらないか探してみたのですが、生憎と「馬喰橋」の名前さえ殆ど見られない位に記述が乏しく、周辺の様子を記したものは皆無でした。 「馬喰橋」自身は「風土記稿」の「片瀬村」の項に

藤沢道の小巨に架す、馬鞍渡橋と唱ふ、往昔賴朝通行の時鞍を架して往來を通ぜしが故此遺名ありと傳ふ、又世俗馬殺橋とも云しぞと【海鏡猿田彦】と云ふ書に、固瀨川につき船にて渡る、石二三牧、かけ渡したる溝川あり、是なん馬殺し橋と云ふ由昔此橋へ馬の來れば、嘶きて忽死す、爰へ世の行者聖來たりて、橋の石をかへて見れば文字あり、古くして見え分ず、さては此所爲とて、其石は山に埋む、夫より馬の難なしと記せり、

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七、雄山閣版より)

と源頼朝の言い伝えなども残る由緒があるのですが、藤沢宿と江の島の間を急ぎ足で往来する旅人には、あまり印象に残る史跡ではなかったのかも知れません。上記「馬鞍結橋建立発起帳」によれば、文化5年にそれまでの土橋を石橋に架け直したことになりますが、これはその8〜9年前に当初の石橋が落橋してしまった後、土橋で凌いでいたものの、その後も修繕が度々必要となる状況が続いたため、再び石橋を架け直そうという呼び掛けを記したものです。「見取絵図」に「字馬喰土橋」と記述されているのは、丁度その仮の土橋だった頃の測量の結果が反映されている訳です。

なお、この橋の下を流れる沢は地図上でも殆ど窪地の様な扱いで水域図に切り替えても水路が現れないくらいで(国土地理院の地形図には表現されています)、また上流側は既に暗渠化されてしまっています。「皇国地誌」の片瀬村の項(東京大学総合図書館蔵)ではこの沢を「立石堀」として伝えており、「風土記稿」にも片瀬村の小名として「立石谷」の名が挙げられています。

ところで、この馬喰橋の少し手前に、「見取絵図」には「鉄炮稽古場行 山道」と記された道が途中まで描かれています。ここから駒立山という山に登ることが出来るのですが、当時幕府がここに鉄砲の稽古場を設置していました。「新編相模国風土記稿」では
  • 鵠沼村(卷之六十 高座郡卷之ニ):

    海岸に炮術場あり、享保年中御用地になりしと云ふ、

  • 片瀨村(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七):

    ◯駒立山 石籠山の北に続けり、山頂に炮術訓練場あり俗に御鐵砲下ヶ失場所と稱す、訓練の頃は爰より大銃を、鵠沼村の閑地に放つ、これ高に登て低きを撃つ訓練をなすなり、享保十三年、訓練の事始りし頃は、當村の海濱にて平場の訓練もありしが、今は高座郡の閑地にて、平撃の訓練あり、

(上記同書より)

と記しています。またこれについて、「藤沢市史料集 31」からその様子を記したものを拾うと、

片瀬川の上、石亀の(わたし)は、両岸に小舟をつなぎて、舟より舟ヘ板をわたしたるもの也。これをわたりて少しゆけば、駒立山と云。麓に茶うる家あり。立よりて休む。この山は、頼朝公の駒とめ給ひし処なりと云。今、鉄炮丁打(てつはうちゃううち)の場所也。山の上より片瀬川越え、江嶋のこなたの浜へさげ(うち)にする也。十八丁の見わたしと云。此外、江嶋より南に丁打の場あり。辻堂の浜と云。辻堂村と云ある故に、浜をも(いふ)(こそ)あらめ。おのれも、大筒(おほづつ)丁打の場所は鎌倉とのみ思ひ居たりしに、今きけば鎌倉にはあらず、高座郡(たかくらこほり)のうち也。

(「玉匣両温泉路記」天保10年 原正興、上記書58~59ページより)

…山の上から片瀬川の対岸の浜に向かって打ち下ろすというのですから、参拝客の多い街道を頭越しに射撃することになる訳で、なかなか物騒なものがあったものです。射程距離は18丁、約1.9kmにも及んだということになります。勿論、関連施設は一般の立ち入りは禁じられていました。

駒立山の南側は現在は削平されて住宅街となっており、当時の趣きは地形共々残っていませんが、北側は新林公園として緑地が保全されています。

江島道:岩屋不動明王入口
岩屋不動明王入口
巌不動尊の位置
ともあれ、現状では新屋敷(あらやしき)橋を渡った先で再び境川から離れて緩やかな坂を上ります。その坂をほぼ登り切った辺りに、「岩屋不動明王入口」と彫られた道標が立てられています。巌不動尊は、この道標から200m余り、谷戸の奥まった場所にあります。

その名の通り谷戸の崖に穿たれた岩屋の中に不動明王が祀られているのですが、ここはかつて弘法大師が穴居修行した場所と伝えられており、元禄8年(1695年)に石籠山救法教寺を開いて不動尊を安置したものです。救法教寺はその後廃寺になってしまったため「見取絵図」ではこの不動尊については特に何も記されていません。泉蔵寺が巌不動尊を再興するのが享和2年(1802年)、「江島道見取絵図」を含む「五海道其外分間見取延絵図」」は寛政12年〜文化3年(1800〜1806年)ですから、ちょうどその作成と相前後してしまったために、記載から漏れてしまった訳です。

次回はもう少し江の島に近付けるといいのですが(汗)。



追記(2014/07/08):Googleストリートビューの更新に伴い、馬喰橋の表示がズレてしまったため、調整し直しました。
(2016/01/09):再びストリートビューを貼り直しました。

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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

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