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でも参照されている方が多い様ですので設置を継続します。

【江島道】「見取絵図」に沿って(その3:東海道線藤沢駅南口から石上の渡しまで)

前回は江島道が東海道線によって途切れている地点まで来ました。今回は東海道線を越えて先に向かいます。

江島道:ファミリー通り
藤沢駅南口前ロータリーから
ファミリー通りが伸びる

ファミリー通り入口の位置
江島道の続きは、現在は藤沢駅南口前の駅前広場に呑み込まれていますが、その先で「ファミリー通り」と名付けられた通りへと続いています。かつてはこの一帯も砂丘の傍らだった筈ですが、現在はその面影はありません。

東海道線が明治20年(1887年)に開業するに当って、藤沢宿から離れた場所を通る様になった経緯についての議論は長くなるので今回は省きますが、藤沢駅を江島道が交差するこの地に設置したのは、駅から藤沢宿や江の島への連絡路として江島道を活用する意図があったのは間違いないところでしょう。

江島道:藤沢カトリック教会の立地
藤沢カトリック教会が
一段高い位置に建っている
一帯の開発に伴って、江戸時代に見られたであろう地形が意識できる箇所は少なくなっていますが、それでもこの辺りから、西側の土地が江島道より一段高くなっていることが、この藤沢カトリック教会の立地などから窺える様になります。それに連れて、江島道も緩やかに坂を下り始めます。

江島道見取絵図:石上村付近
江島道見取絵図:石上村付近

「見取絵図」ではこの辺りから「石上村」と記されています。他方、「新編相模国風土記稿」では鵠沼村の一小名として「石上」の名が記されており、以降の記述も鵠沼村一帯を総括する形で記述されています。石上は鵠沼村内の一集落でありながら、比較的独立性が高かったということなのでしょうか。

江島道:砥上公園の庚申塔群
砥上公園の庚申塔群

砥上公園の位置
(地図に明記がないので航空写真に切り替えました)
もう少し先に進むと東側に「砥上(いしがみ)公園」があり、その一角に庚申塔がまとめて安置されています。古いものでは宝永6年(1709年)の日付が刻まれています。他に馬頭観音が1体あります。

この石上の庚申塔群は、元はどこにあったものかが不明で、そもそも最初から1箇所にまとめられていたものかどうかもはっきりしません。ただ、「見取絵図」では「石上村」と記された中に「庚申」が2箇所描かれていますので、それらもこの庚申塔群の中に含まれているのかも知れません。

因みに前回取り上げたハーンは、江の島から藤沢に向かう道すがらで庚申塔群の存在に気付いていますが、

わたくしはふと道のはたに、今まで見なれない、浮き彫りの彫像を見つけた。平石を刻んだ像が、雨風をしのぐ小さな竹の小屋のなかに、ずらりと並んでいる。

(「全訳 小泉八雲作品集 第五巻」平井呈一訳 1964年 恒文社 143ページより)

と表現しています。これが何処に当たるか文中では明記はされていませんが、「見取絵図」を検討した限りでは石上ではなくもう少し江の島寄りの場所に該当する様です。その地点に来た時に改めて取り上げたいと思います。

江島道:石上神社
石上神社

石上神社の位置
砥上公園からもう少し南下した辺りに石上神社が祀られています。傍らの記念碑に従えば、元は境川沿いの低地にあったものが水害を避けてこの地に移されてきたとのことですが、「見取絵図」では該当すると思われる寺社を特定することが出来ませんでした。

なお、この付近の道筋は区画整理によって多少直線化されていると思われますが、大筋では従来とさほど変わらない位置を進んでいると考えて良いでしょう。

江島道:道が細くなる
道幅が狭くなる

地図上でも道が細るのがわかる
やがて石上幼稚園の先で道がぐんと細くなります。「新編相模国風土記稿」の「鵠沼村」の項には何故か江島道について記述がないのですが、やや時代が下った頃の史料になりますが「皇国地誌」の地元の草稿には

道路 三

江島往来 東ノ方本郡藤沢ヨリ本村字石神ニ来リ南ヘ四百弐十五間幅弐間東南東山本橋ヨリ片瀬村ヘ達ス

(「皇国地誌村誌相模国高座郡鵠沼村」明治12年(1879年) 三觜博家文書、「藤沢市史料集(十一)村明細帳・皇国地誌村誌」178ページより)

とあり、脇往還としては標準的な幅2間であったことが窺えます。現在残るこの細い道幅も、恐らくは当時のものに近いのであろうと考えられます。

江島道見取絵図:石上の渡し付近
江島道見取絵図:石上の渡し付近


石上の渡し付近の地形図と「明治前期の低湿地」図の合成
(「地理院地図」による)
境川は片瀬村の境辺りから下流では「片瀬川」と呼ばれていました。その流路は現在は直流化によって大きく位置が変わっているので、現在の地形から当時を推定するのが難しくなっています。「地理院地図」を使って「明治前期の低湿地」(迅速測図が元になっている)を表示させると、当時の境川流路の位置が大筋でわかります。「明治前期の低湿地」の凡例でも「場所によってはかなりの位置誤差を含む場合があります。」と指摘されていますが、迅速測図がその名の通り早急に地図を整備する必要から簡略な測量法によって作成されているため、現在の地形図と重ねようとするとズレを解消するのが難しい箇所があります。実際に、境川の流路を上流に辿ると、地図間の齟齬が現れて所々で川が分断された様になっているのが確認できます。しかし、江島道が南向きから東向きへと方向を変える辺りに境川が交わる位置関係を確認する点では、大筋で利用可能な精度を保っている様です。また、境川の西側に「片瀬」と表示されている地域が、かつては境川の東側に当たっていたことが、旧流路との位置関係で鮮やかに見て取れます。

江島道はここで境川を渡り、川の東側を下る道になります。「見取絵図」ではこの場所に「舩橋」とのみ記され、橋などは描かれていません。他方、「我がすむ里」では「石神の渡船場」と表現しています。「新編相模国風土記稿」でも、対岸の片瀬村の項に

片瀨川 …往還に渡船場あり、石上渡石上は對岸鵠沼村の小名、と唱へ當村鵠沼兩村の持とす、

(卷之百五 鎌倉郡卷之三十七)

と渡し場であったことが記されています。

藤沢市史料集 31」に採録された道中記などには、この渡しに関する記述を含んだものが多数見つかります。取り敢えず代表的なものを3編ほどご紹介します。
  • 「富士山紀行」安永9年(1780年) 高山彦九郎

    …車田を南壱里斗ニ而いしがミと云所ニ至る、此所水増し而舟ニ而渡り…

  • 「玉匣両温泉略記」天保10年(1839年) 原正興

    …車田と云所より右に江嶋道あり。そなたへをれてゆくに、田畑の間の細道なり。片瀬川の上、石亀の渡は、両岸に小舟をつなぎて、舟より舟へ板をわたしたるもの也。これをわたりて少しゆけば、…

  • 「江ノ島参詣之記書写」弘化4年(1847年) 著者不明

    一 藤沢宿入口橋ヲ渡り江ノ島弁天金ノ鳥居有、此所より島迄壱り九丁

    一 半道程ニて片瀬渡場百姓渡舟賃払 尤舟ヲ弐艘つなき置


この様に、記録によって渡し船であったとするものと船橋であったとするものに分かれています。ただ、何れの場合でも地元の農民が(びた)5文ないし12文を徴収していたことが、これらの道中記からわかります。境川の流量から見ても、あるいはこの辺りの川幅を考えても(当時の記録で二十間程度)架橋がさほど困難であったとは考えられず、勿論「天然の要害」などと称するには遠く及ばない小河川であるにも拘らず、ここが渡場として認められていたのは、歴史的な経緯が強く影響しているのかも知れません。上記「風土記稿」の片瀬村の項には片瀬川に関する「吾妻鏡」や「源平盛衰記」などの記述を多数載せており、その中に

【歌枕名寄】に鴨長明が羈旅の歌に、浦近き砥上が原に駒とめて、片瀨の川の潮干をぞ待按ずるに、砥上原は東岸に續きて高座郡の屬なれば、盖長明鎌倉へ下向の時の詠なるべし、

と鴨長明の歌が紹介されています。「砥上(とがみ)」の名前は上で「砥上公園」と見えた通り、石上の古い地名に当たり(この公園はその点を意識してわざと古い地名の漢字に現在の地名の読みを充てている訳です)、鴨長明はここで潮が引くのを待って境川を歩いて渡っている訳です。こうした昔からの記録があることが、渡船を続ける裏付けになった側面はありそうです。

なお、上記で引用した道中記に2度「車田」という地名が見えますが、これは旧東海道の藤沢宿西側の外れの地名(現在の県立湘南高校付近)で、ここからこの石上の渡しまで直接抜ける道がありました。これが「見取絵図」に「大山道」と記されている道で、上記の「皇国地誌」の草稿にも

江島脇往来 東北々字車田ニテ東海道ヨリ迤ニ東南ヘ千三百三十五間幅弐間東南東字石神ナル山本橋ニ至ル

(上記「藤沢市史料集(十一)村明細帳・皇国地誌村誌」178ページより)

と記録されています。その名の通り、特に大山詣での帰りなどに藤沢宿に寄らずに直接江の島へ向かいたい旅人がこの道を使った様です。なお、この道筋は区画整理などによってかなりの区間が消滅した様です。

江島道:石上地蔵
石上地蔵
現在の石上地蔵の位置
この渡船場の傍らに、「見取絵図」では「地蔵」が描かれています。 「我がすむ里」ではこれを「石神大明神」として

渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像なり、七世の父母菩提の為、承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る、

(「藤沢市史料集 2藤沢市文書館編 39ページより)

と解説しています。道筋に対しての「北」ということになると、江島道を江の島方面に進んだ時には左手に当たることになり、同じく江の島方面に向いた時に右手に当たる位置に「地蔵」を描いている「見取絵図」とは記述が異なることになります。もっとも、「渡船場」を船橋の上と解釈すれば、「見取絵図」の位置でも北寄りということになるので、あるいは小川泰二も「見取絵図」と同じ場所を指していたのかも知れません。

何れにしてもこの地蔵は現在はこの場所に無く、江島道から少し脇に入った辺りのとあるお宅の庭先に祀られており、詳細なガイドが添えられています。このガイドによれば、この地蔵が鵠沼の最古の石仏ということになるのだそうです。

江島道:現在の上山本橋
現在の上山本橋
この船橋も明治6年(1873年)に片瀬村の豪農山本庄太郎が架橋して橋銭を取る様になりました。これも年代から見て、以前馬入橋の架橋の経緯で説明した通り明治政府が架橋を奨励したことと連動していると思われます。もっとも、その後人力車が行き交う様になることを考えれば、船橋の様な不安定な構造の橋では橋板を踏み外さない様に渡るのは非常に困難でしょうから、その点では時代に則した架橋ではあった訳です。因みに橋の名前も「山本橋」と架橋者の名前が被せられています。

この橋もその後の境川の流路変更に伴って位置が変わり、架橋の担当も神奈川県に変わりました。下流にももう1本「山本橋」がある関係で、こちらの橋は「上山本橋」という名前に変更されています。

次回は境川を渡った先を進みます。




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