【江島道】「見取絵図」に沿って(その1:藤沢の宿場付近の様子)

以前、「江島道」については2度ほど()取り上げました。その際、江島道についても「江島道見取絵図」をベースに逐次的に追ってみると書いたのですが、それから大分時間が経ってしまいました。何時までも塩漬けにするのもどうかと思い(汗)、ここで一旦公開することにしました。


江島道見取絵図のルート
ひとまず、現時点で私なりに線を引いた「江島道見取絵図」のルートを再掲します。一応「暫定版」ということで、今後改めて手を入れるかも知れません。

今回は飽くまでも「見取絵図」に描かれた道筋が現在どうなっているか、という観点でルートを辿ります。江戸時代には江の島に辿り着くためのルートは他にも複数存在したのですが、その点は基本的に分岐箇所で簡単に触れるに留めたいと考えています。

折に触れて「江島道見取絵図」(以下「見取絵図」)からの引用を掲載しますが、何れも「東京美術」刊のものから取り込んで適宜注釈を加えたものを使います。同書の解説も参照しますが、昭和52年刊と比較的古いので、既に現状が変わってしまった箇所についてはその旨書き出しておきたいと思います。

その他、以下の資料を併せて参照します。必ずしも「見取絵図」成立の頃(寛政12年文化3年)の資料ではありませんが、その点は適宜取捨選択をかけたいと思います。
  • 「新編相模国風土記稿」(天保12年・雄山閣版)
  • 「新編鎌倉志」(貞享2年・雄山閣版)、
  • 「我がすむ里」小川泰二著(文政13年・「藤沢市史料集 2」藤沢市文書館編 所収)
  • 「鶏肋温故」平野道治編著(天保13年・「藤沢市史料集 2」藤沢市文書館編 所収)
  • 各種紀行文・道中記(「藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)-紀行文・旅日記抄-」所収のものなど)
  • 各種浮世絵・錦絵(歌川広重の各種東海道ものなど)




江島道見取絵図:藤沢宿付近
江島道見取絵図:藤沢宿付近

旧東海道:藤沢橋交差点
藤沢橋交差点
旧東海道・藤沢宿:藤沢橋交差点付近に掲げられた広重隷書東海道
藤沢橋交差点付近に掲げられた
歌川広重「隷書東海道」中の藤沢宿(再掲)

藤沢橋付近の地図
藤沢宿は鎌倉郡大鋸町と高座郡大久保町、坂戸町の3つの町で構成されていました。このうち大鋸町と大久保町が境川で接していましたが、境川を渡る大鋸橋(現在の遊行寺橋)の大久保町側が江島道の起点で、当時は大鳥居が立っていました。この鳥居については延享3年(1746年)5月に、江の島の別当であった岩本院が寺社奉行にこの地に鳥居を建てる許可を得ていることが記録に残っていますので、その頃に新たにこの地に設けられたものと考えられます。「藤沢市史料集 31 旅人がみた藤沢(1)-紀行文・旅日記抄-」に掲載された紀行文から、この鳥居を書いたと思われるものを拾うと、
  • 「甲午春旅」(安永3年(1774年)・高山彦九郎)

    過て藤沢宿、江嶋弁財天と言額をかけたる鳥居有、

  • 「道中記」(文政10年(1827年)・石塚長三郎)

    中程ニ唐カネノ鳥居アリ、

  • 「玉匣両温泉略記」(天保10年(1839年)・原正興)

    寺(注:遊行寺のこと)をいづれば板橋あり。此流の末、片瀬川ならん。渡りて左に唐銅(からかね)にて高さふた杖ほどの鳥居あり。弁才天と書たる額あり。江嶋(えのしま)への大路にて、五十八丁有と云、

  • 「伊勢参宮日記」(弘化2年(1845年)・藤原某氏)

    橋詰右(注:筆者は西から藤沢に入った)ニ江の嶋路、かねの鳥井・石燈篭あり、

  • 「江ノ島参詣之記書写」(弘化4年(1847年)・著者不明)

    藤沢宿入口橋ヲ渡り江ノ島弁天金ノ鳥居有、此所より島迄壱り九丁

  • 「御伊勢参宮道中記」(文久2年(1862年)・森居権右衛門)

    橋脇ニ右方(注:遊行寺参詣後に大鋸橋を渡っているため、これは記憶違いか)に江島弁才天の鳥井唐銅ニて有


遊行寺・宝物館前の石畳の両脇に鳥居の袴石が保存されている
ストリートビュー
時代による相違はあるかも知れませんが、少なくとも江戸時代後期には銅製の鳥居であった様です。高さは2丈ほどということですから6m程度ということになるでしょうか。幅を書いたものがないのですが、一般的な鳥居の形状から考えて高さよりも幅が広いということは無いでしょうから、恐らくは1間半くらいでしょうか。

この鳥居は藤沢宿を描く浮世絵の大半で登場するほど、この宿場の象徴的な存在でしたが、明治時代に入って早々に撤去され、現在は袴石のみが遊行寺の宝物館前に保存されています。

江島道見取絵図:藤沢宿付近拡大
江島道見取絵図:鳥居付近拡大

「見取絵図」上では「江島辨天大鳥居」の右隣(境川側)に「江ノ嶋道印石」と記され、その下に石碑が2体描かれているのが見えています。一方、「隷書東海道」では鳥居の傍らに描かれているのは石燈籠で、その下に「江島道」などと刻印されている様に描かれています。広重は「狂歌入東海道」でも同様の石燈籠を描いている他、二代目歌川広重(重宣)の文久3年の「東海道 藤沢」でも石燈籠がシルエットで描かれています。上記の紀行文でも「伊勢参宮日記」が鳥居の脇に「石燈篭」があったと記しています。他方、「行書東海道」では直方体の石碑に「江のしま道」と書かれたものを描いています。「江島道見取絵図」とほぼ同時期に作成された筈の「東海道分間延絵図」の藤沢宿の該当箇所にも、描かれているのは道印石と思われるもの1体のみです。

果たしてどの記述が実情に近いのか、それとも時代によって状況が異なっていたのか、今のところこれ以上の判断材料がありませんが、何れにしても現在はこの位置にあったと思われる道印石や石燈籠などは行方が知れなくなっています。

旧東海道:遊行寺橋銘板
現在の遊行寺橋銘板
出発早々少し後戻りしますが、大鋸橋の大鋸町側では東海道は枡形に折れ曲がっていましたが、「見取絵図」ではこの枡形を直進した先で境川の左岸沿いを下流に向かって折れる道が途中まで描かれています。「新編相模国風土記稿」ではこの左岸沿いの道について

小往還…其一は江ノ島道と唱へ、是も大鋸町より東へ折れ、彌勒寺村に達し、川名・片瀨二村を過ぎ江ノ島に至る道程一里半許幅凡三間

(卷之六十九 鎌倉郡卷之一より、…は中略)

と、こちらも江の島への道であることを示唆しています。しかし、「見取絵図」ではこの道について特に注記はありません。他方、「風土記稿」の高座郡の各巻では、大久保町から分岐する江島道についての記述が見当たりません(卷之五十九「圖說」、卷之六十 「藤沢宿」及び「大久保町」など)。また、鎌倉郡側の記述でも大鋸町の項では

東海道の驛路南北に貫く幅四間餘又南方にて東に分るゝ岐路あり、鎌倉道と唱ふ、

と記しており、道の名称についての統一が取れていません。

上記で見た通り、多くの紀行文・旅日記などでも基本的には大久保町の鳥居を潜って江の島方面へ向かっていたと思われ、大鋸町側の道を使ったと思われるものは「藤沢市史料集 31」では

片瀬村を過馬喰橋を渡り右へ行き川名村ニ休ふ雨の甚しけれは也、片瀬よりは鎌倉郡とす、石上の川上を圯橋にて渡り藤沢駅に至る、

(「富士山紀行」安永9年(1780年)・高山彦九郎)

位しか見当たりません。こうした実態にも拘らず、何故「風土記稿」が大久保町からの道ではなく大鋸町からの道の方を江島道と記述したのかは不明です。

現在はこの枡形を解消する形で藤沢橋が架けられ、江島道も国道467号線に取り込まれる形で拡幅されています。更に、この交差点から新たに湘南新道(神奈川県道30号)が切り開かれたため、周辺にあった稲荷などは大半が原位置に確認できなくなりました。しかし、藤沢橋交差点を渡ると西側に逸れる形で旧道が残っています。

起点の様子の検討に拘り過ぎてまだ江島道を一歩も先に進んでいませんが(汗)、今回はひとまずここまでとします。次回改めて江島道を先に進みます。



追記(2016/05/31):遊行寺・宝物館前のストリートビューを追加しました。

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