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【旧東海道】その13 酒匂川の渡しと酒匂橋(まとめ)

旧東海道:現在の酒匂川の渡し付近の様子
現在の酒匂川の渡し付近の様子(再掲)
前回は、関東大震災で落橋した酒匂橋について見て来ました。ひとまず、ここまでの記事をリストにまとめます。



基本的には今回も馬入橋の時と同様、ここでまとめに入るのですが、今回はもう少し時代を下ります。
関東大震災後の復旧事業で大正15年(1926年)に完成した酒匂橋は、その後の長年の使用に耐えていたのですが、折からの川砂利採取の影響もあって橋脚下の洗掘が激しく、補修工事も功を奏せず昭和47年(1972年)の増水時に橋脚が沈降して使用不能になってしまいます(当時の写真:「小田原デジタルアーカイブ」より)。結局この代の酒匂橋は46年の長きにわたって使用に耐えたことになるのですが、その結末がやはり「洗掘」による橋脚の損傷であった点はもう少し「お浚い」しておきたいところです。


十文字橋の位置
崩落した十文字橋(神奈川県松田町):平成19年台風第9号 - Wikipedia
台風9号で落橋した十文字橋(Wikipediaから)

実は、この時の落橋とほぼ同じ現象を、最近になって再び酒匂川で目にすることになりました。平成19年(2007年)9月、折からの台風9号による増水に際して、松田の十文字橋が同じ様に橋脚の洗掘による沈降で使用不能になったのです。興味深いことに、橋桁がV字に折れた落橋時の様子まで酷似しています。この橋は沈降した橋脚を改めて設置し直す工事を行い、翌年の12月に完全復旧しました。

現在の十文字橋の一番大元の竣工は大正2年(1913年)3月と大変古いものです。主要部分の橋脚以外は関東大震災や洪水などによって流失・損傷を受けてその都度更新されていますが、主要部分の3本の橋脚はそのまま再利用されていました。前回触れた通り架設から関東大震災も含め1世紀近い長い年月を耐えてきたのも事実ですが、このうち沈んだ橋脚は流路の真ん中にあることから、やはり一番洗掘が進んでいたのでしょう。この洗掘について研究された方の論文(「礫床河川において洪水中に発生した橋脚の沈下原因の究明および対策工立案の研究(PDF、かなり大容量です)」玉井 信行 平成20年度河川整備基金助成事業)によれば、洗掘防止のために橋脚周囲にコンクリートブロックを敷き詰めるといった対策は施されていましたが、台風9号の増水はこれらのコンクリートブロックも流失させてしまった様です。この論文によれば、礫の間に溜まった砂(個人的には宝永大噴火の際のスコリアを含め、富士山噴火による噴出物が多く混ざっているのではないかと思います)を洗い流してしまったために礫の間に隙間が出来て水流が速まり、これが洗掘を速めたのではないかと考察されています。

そもそも「洗掘(局所洗掘)」とは、川の様に水流がある中に橋脚や杭、飛び石の様に流れを妨げるものが置かれている時に起きる現象です。この様な物が置かれていると、水流が乱されて物の周囲に様々な渦が発生します。この渦が川底の砂や石を動かすために、その部分が次第に深く掘れてしまうのです。

具体的にどの程度川底が掘れるかは、置かれた物の形状やサイズ、川底の状態や水深等々色々な条件が重なるので一概には言えません。私も専門家ではないので、この現象を説明している河川工学の教科書を説明し切るだけの力はありません(何しろいきなり数式だらけの教科書ばかりなので…)。ただ、他の条件が全て一緒であれば、川の流れが速ければ速くなるほど、大きくて強い渦が発生し、川底が掘れやすくなりそうだということは、一般の人でも感覚的にわかると思います。

最初に酒匂川の地理的な特徴を説明した時に、酒匂川が全国的に見ても急勾配であることを紹介しました。その様な川で2本の橋が何れも洗掘によって橋脚が沈んで使用不能になったことは、橋の長寿命化のためにはそれだけ洗掘防止策が重要になることを意味しています。

さて、最近の技術を追うのがここでの目的ではないので、そろそろ話を近世まで戻さないといけません。それでは、江戸時代の技術では水流の速い川では、やはりあの六郷川(多摩川)の道役善兵衛の言う様に「杭の根掘れもち申さず」ということになるのでしょうか。

勿論、江戸時代に架橋に従事した関係者がそんな証言をしたという史料はまだ見つかっていないだろうと思います。そもそも道役善兵衛が六郷橋についてあの様な証言を残したのは、実際に六郷橋を架けて何とか維持し続けたものの、結局条件が揃わずそれ以上の維持が出来なくなったからです。そういう具体的な事例であればこそ信頼に足る証言が後世に残せるのですが、残念ながら近世において大規模な橋を維持困難という理由で渡しに変更した事例は他にあまり例がありません。少なくとも、旧東海道では六郷橋だけです。江戸市中では隅田川の架橋維持が経済的に困難になって一時的に橋がなくなった例はありますが、江戸という遥かに通行量の多い箇所の橋であり、理由も必ずしも技術面に困難な部分があった訳ではないので、街道の架橋とは同一に論じ難い面があります。

更に、仮にそうした事例があっても、今度はその原因を追求し、それを書面などの形で記録するという作業がなければ、「何故」の部分が後世に伝わることはありません。六郷橋の場合は家康が六郷の八幡宮(現・六郷神社)に願を掛けてまで実現を望んだ橋ですから、これを廃止するというのはそれこそ江戸幕府の沽券に拘わり兼ねない話です。本当にそれ程の已む無き理由があったのかを明らかにする動機は充分あったでしょう。そこまでの条件が揃う橋ということになると、ますます異例の存在になってしまいます。そうなると、六郷橋の例に比肩する他の事例について、貴重な証言が今に伝わっている可能性は残念ながらなかなか考え難い、ということになってしまいます。

しかし、酒匂川の流速が他の川に比べても速いことは江戸時代にあっても変わらないでしょうし、コンクリート化が進んだ頃の橋でさえこの様な落橋の事例があるとなると、江戸時代の橋杭打ちの技術だけでそれを超える耐久性を実現出来たとはなかなか考え難い面があります。歴代の酒匂橋が必ずしも流失によって架け替えられたのではなく、その原因も単に「老朽化」とのみ記されていることが多いので、打ち込んだ橋杭への洗掘がどの程度進んだかは明らかに出来ませんが、恐らくは相応に洗掘は進んでいたでしょう。

少なくとも、酒匂川の橋にとって「洗掘」が意外に克服し難い厄介な問題であり続けたことは、最近になって十文字橋が落ちたことが教えてくれていると思うのです。そして、道役善兵衛の言を待たずとも、こうした「洗掘」が橋にとって厄介な存在であることには、当時の架橋に携わっている人たちも気付いていたのではないかという気がします。



酒匂川の渡しの話の締め括りに、今度は逆に江戸時代以前に遡ります。馬入の渡しの場合、鎌倉時代には橋を架けたという話が「吾妻鏡」に記されていることは以前紹介しました。それでは、酒匂川の場合には一時的にせよ架橋されていたことはないのでしょうか。

この様な問いを設定してみたらどうかと思いついた時、この問いはもう1つ別の問題と連携していることに気付きました。それは、酒匂川を渡る位置と「箱根越え」の経路に関連があることです。

「都市小田原の創生」13世紀頃の西相模の交通路
13世紀頃の西相模の交通路
(「都市小田原の創生」より引用)
古代には箱根山を迂回して足柄峠を越えていたとされる訳ですが、その場合の渡河地点はもっと上流になったことは確かでしょう。関本から十文字の渡し、先ほど取り上げた十文字橋付近で酒匂川を越え、酒匂宿へと向かうルートならば、酒匂川の左岸には一段高い曾我などの地があることから、その上を通る方が街道筋としては理に適っています。左の図は「小田原市制七〇周年記念特別展 都市おだわらの創生」の図録に収録されていたものです(小田原市郷土文化館 2012年 29ページ「13世紀頃の西相模の交通路」)が、これに従えば中世にはもう少し下流の桑原か飯泉の渡し辺りを渡っていた様です。


酒匂川〜山王川の「明治前期の低湿地」図
(「地理院地図」より)
水田を示す部分が東海道の北側に広がっている
何れにしても、酒匂川や山王川の河口付近に低湿地が広がっていたと考えられている以上、河口付近まで酒匂川右岸を進むルートではなかったでしょう。他方、湯坂道が開かれて早川沿いに小田原へ降りて来れば、やはり河口付近で酒匂川を渡り、酒匂宿付近で足柄峠からの道と合流することになりますが、その後も足柄路は引き続き箱根越えのルートとして併用されていた様ですので、酒匂川の渡河地点もそれによって少なくとも2箇所に分散していたことになります。酒匂川の渡しが重用される様になるのは、小田原が城下町として発展を遂げてくる、戦国時代からということになるでしょう。

そうなると、戦国時代以前は酒匂川を越える場所が分散してしまっている以上、敢えて人や物の流れを統合しようと望む為政者などがいない限り、この川に橋を架けようという動機が希薄になることになります。それでもということならば、橋を複数維持しなければならず、コストもその分だけのし掛かることになるからです。まして、ここまで見てきた通り架橋維持に困難な点があるとなれば尚更でしょう。

実際問題、「源平盛衰記」や「曾我物語」、あるいは「十六夜日記」に見られる酒匂川の渡河や川留の様子を見ても、酒匂川を渡渉したことは窺えても、橋が存在したと思われる記述を見出すことは出来ません。その辺りを、「新編相模国風土記稿」中の引用から見てみましょう。

  • 【源平盛衰記】曰、(注:治承四年、1180年)八月二十五日、和田義盛、三百餘騎にて、鎌倉通を腰越・稻村・八松原・大磯・小磯打過て、二日路を一日に、酒匂の宿に着けるが、丸子川の洪水いまだ減ぜざれば、渡すこと不叶して、宿の西の外れ、八木下と云ふ所に陣をとる、…
  • 【源平盛衰記】曰、(注:建久元年、1190年)梶原右大將家京上の御伴に相模國圓子川を渡り給へりけるに、梶原小要ありて片方に下居たりけるが、御伴にさがりぬと一鞭あてゝ打程に、此川の川中にて馳付奉たりけるに、沛艾の馬にて鎌倉殿に水をさゝと蹴懸奉、御氣色惡くてきと睨返り給たりけるに、梶原、圓子川ければぞ波はあがりける、と仕て手綱をゆりすゑければ、御氣色なをり給て、打うつぶき、ければぞ浪はあがりけると二三詠じ給て、向の岸に打上り、馬の頭を梶原に引向て、かゝりあしくも人やみるらん、と附給、いかに發向脇句、いづれ增りとぞ仰せける、
  • 【曾我物語】曰、(注:建久元年)丸子川を渡りけるが、手綱かひくり申けるは、和殿三、祐成五の歳より、廿餘の今まで、此川を一月に四五度づゝも渉りつらん、いかなる日なれば、今渡り果さん事の悲しさよとて十郎、五月雨に淺瀨もしらぬ丸子川、波にあらそふ我涙かな、五郎渡より深くぞたのむ丸子川、親の敵にあふ瀨と思へば、かやうにおもひつらねてとをる所はあみだのゐんしゆかさま寺、ゆもとの宿を打過、ゆさかの峠に駒をひかへて云々、
  • 【十六夜日記】…曰、(注:弘安二年、1279年)丸子川といふ川を、いと暗くて躘踵(りょうしょう)渉る、今宵は酒匂と云所に止る

(「新編相模国風土記稿」卷之三 山川「酒匂川」より、雄山閣版より引用、注、ルビはブログ主)

特に梶原景時と頼朝の遣り取りは、酒匂川を馬に乗って渡っていなければあり得ない情景ですから、この川がどの様な状態にあったかをよく伝えているのではないでしょうか。「曾我物語」の情景も橋や舟渡しでは二人の歌となかなかしっくり来ない気がします。「十六夜日記」の「躘踵渉る」とは聞き慣れない表現ですが、暗がりの中で瀬の深さを足でまさぐり確かめつつ渡って行く様子を表現したかったのでしょうか。これもその意味では徒渉りならではの表現という事になりますね。なお、酒匂川は当時は「丸子川」の名称で呼ばれていました。「圓子川」は当て字が用いられている訳ですね。


流石に戦国時代になってしまうと、そもそも橋どころではない御時世ですから、その頃までに橋が架けられていなければ、わざわざ新たに架橋しようという動きは出なかったでしょう。もっとも、「その2」に引用した宇佐美ミサ子氏論文に見える様に、後北条氏の統治下では舟渡しになっていたことが見えるのに対して、それ以前の史料では徒渉であったという点は、明治時代に酒匂橋の通行が途絶した際に再び舟を併用していた点も併せて考えると、どうも酒匂川の水深の変化に応じて徒渉であったり舟渡しに変わったり…という変遷があったことが窺えます。中世以前の記録のメッシュが粗いため、具体的にどの様な変遷であったか、更にそれが富士山の火山活動などとどの程度相関性があるのかまでは不明ですが、江戸時代の酒匂川の渡しの変遷を考えると、同様の変化が中世以前にあった可能性は否定出来ないと思います。また、その様な変化の激しい河川に、もしも恒常的な架橋を構築するとなると、その維持管理がかなり大変なものになるのではないかと想像され、敢えて架橋しようという動きを更に後退させる要因になったとも思えます。

こうして見て行くと、やはり過去に酒匂川に架橋された実績はなかったと判断して良さそうです。江戸時代に酒匂川に橋がなかった理由を考える際には、こうした背景も考慮に入れる必要はありそうです。



追記(2016/01/19):玉井 信行氏の論文へのリンクが切れていたため、公益財団法人 河川財団のサイトの同論文へのリンクに切り替えました。

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この記事へのコメント

- くまドン - 2014年02月02日 21:05:25

こんばんわ。コメントありがとうございました。
もの凄く細かい所まで調べているので、びっくりしました。
ここまで行くと、立派な資料ですね。

- kanageohis1964 - 2014年02月02日 21:41:04

くまドン さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
地元で編まれた市町村史などを元に、なるべく出処がわかる様にと考えていますので、引用が増えてしまうのが玉に瑕ですが、これを手掛かりに図書館などで資料に当たってもらえる様になれば嬉しいです。
またよろしくお願いします。

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